#28 ヘミングウェイ 『ギャンブラーと尼僧とラジオ』 ~聞こえるか、聞こえないかの慰め~

「おすすめ文学 ~本たちとの出会い~」

28回目。ヘミングウェイの作品は二十代の頃に一通り読んでいて、自分の中で好きな作品がほぼ固まっていたつもりだったのですが、やっぱり年を重ねると変わるものですね。当時は1、2回読んで「?」だった作品の面白さが少しだけ分かった気がしたので、今回はその一つをご紹介したいと思います。

勝者に報酬はない・キリマンジャロの雪: ヘミングウェイ全短編〈2〉 (新潮文庫)
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#28 ヘミングウェイ 『ギャンブラーと尼僧とラジオ』 ~聞こえるか、聞こえないかの慰め~

「ギャンブラーと尼僧とラジオ (The Gambler, the Nun, and the Radio, 1933)は、ヘミングウェイが三十代の時に書いた短編の一つです。はじめて読んだときは、世界恐慌下の1930年代当時の世相を反映させたような重苦しい雰囲気が作品の端々ににじみ出ていて、正直取っつきにくいなと思ったものです。

その印象は、今読んでみてもあまり変わることはありません。でも、その世界に生きる登場人物たちの抱く思想に僕自身いくらかは理解が及ぶようになったことと、登場人物たちの繰り広げる人間模様にある種の救い(温かみ)を感じられたことは、再読して得たうれしい発見でした。

出典:高見浩 訳 『勝者に報酬はない・キリマンジャロの雪 ―ヘミングウェイ全短編2―』 新潮文庫,平成15年第9刷

 

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物語の舞台は病院。落馬して足を折ったフレイザー氏、拳銃で撃たれ重傷を負ったメキシコ人ギャンブラーのカイェターノ、病院に出入りする尼僧のシスター・セシリアが、主な登場人物です。

3人とも、言わばそれぞれ孤独な人たちです。

神経衰弱のフレイザー氏は、一晩中一人きりの病室でラジオを聞いています。カイェターノには同郷の友人が一人もおらず、死ぬかもしれない大怪我なのに誰にも見舞いに来てもらえない。陽気なシスター・セシリアは、彼女をよく知らない人からは「すこし左巻き」と思われています(p. 196)。

そんな彼らの個性的なキャラに注目して読むのも良いのですが、僕が面白いと思ったのは、登場人物たちを取り巻く状況において「彼らに不足しているものが何らかの形で補われている」という構図です。

たとえば、友達のいないカイェターノには、彼に同情したシスター・セシリアの計らいでメキシコ人の見舞客が(サクラみたいなものですが)寄こされ、礼拝堂でのお祈りが忙しくてフットボールのラジオ中継が聞けない彼女のためには、フレイザー氏が看護婦を介して試合経過を逐一伝えてやるのです。

足を怪我して移動することのできないフレイザー氏は、ベッドの中で各局のラジオ放送を聞いて、遠く離れた現地の情景を頭に思い描きます。

午前六時ともなると、ミネアポリスの、朝の陽気なミュージシャンたちの放送が聞こえる。(・・・)フレイザー氏は朝の陽気なミュージシャンたちがスタジオに到着する様子を思い浮かべるのが好きだった。(・・・)フレイザー氏はこれまでミネアポリスにいったことはないし、今後もきっといくことはないだろう、と信じていた。が、あれほど早い朝の様子がどんなものか、想像はついたのである。

(p. 186-87)

自分に足りないものや近くにないものがそっくりそのままの形で補われるわけではないにしても、何かしらの代替的な救済がなされる。それはフレイザー氏が真夜中に聞く音量をしぼったラジオのように、耳を澄ませば、生きることの希望のような音がかすかに聞こえてくる。そんな感じでしょうか。

たとえ彼ら登場人物たちが心底満たされることはないにしても、それをしみじみと噛みしめる程度には、人生に望みを託すことはできるのかもしれませんね。それが人生なのだと、ヘミングウェイが考えていたかどうかは分かりませんが。

「ギャンブラーと尼僧とラジオ」 、ぜひとも読んでみてください。

それでは、今日はこの辺で<(_ _)>

 

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