520ページまで読み終え、残りあと100ページちょっとですが、一度きり読んでおしまいなどとは到底言い難い、新たな座右の名作に今回も出会えました。
前回に続き、宮原昭夫小説選、読書レポート第4弾です。
ここまでで1970年代の作品をすべて読了。前回ご紹介した「誰かが触った」以降、さらに10編を読み進めたところです。今回は戦争という重い題材もまじえつつ、自分なりの思うところを記しておきます。
これまで読んできた宮原作品の多くで、まざまざとイメージできるほど精密な筆致で描かれていたのが、戦後間もない焼け跡の街の情景です。戦中戦後の時期に少年時代を過ごした作者にとって、それは創作の世界においても欠かさざるべき原風景となっているのでしょう。
終戦直後の混乱と虚無の真っ只中、焼け跡という出発点から自分を取り戻し、あてどない未来へとつなげていく。そんな祈るような不安定な心境を、幾人もの作中人物から窺い知ることができるのです。
「街なかの田園」という作品では、終戦を迎えた二人の中学生が空襲で命を落とした級友を偲んで、焼け落ちてしまった彼の家の敷地から瓦礫の山を撤去し、そこに小さな農場を作ろうと日々汗を流す姿が描かれています。
身近な人間の死も、辺り一面の焼野原も、年若くして背負うにはあまりに残酷な現実です。膨大な量の瓦礫を少しずつ運び出し、焼かれて固くなった不毛の瘠土をボロボロの鍬で開墾する。そんな途方もない重労働を自らに課し、淡々とこなす少年たちのひたむきさが、むしろ彼らの自覚なき深い心の傷を物語っています。
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「街なかの田園」の次に収録されている「炎の子守唄」は、同様のテーマが地続きになっているだけでなく、さらに幼い子どもの、より深刻な心の闇を描くことで、戦争が子どもに与える影響について、いっそう明確で苛烈なメッセージを読者に投げかけています。
わずか八つの歳に空襲で幼い妹を失った男の子が、戦後復興してゆく街のにぎやかな路地で思いつく「空襲ごっこ」。今や危険の去った夜の繁華街で、友だちと一緒に想像上の火の手から逃げまどう彼は、妹を死なせてしまった罪の意識を再び燃え上がらせることで、壊れた心を無理やり揺さぶろうとしているかのようです。
自分を取り戻そうにも、幼すぎる彼にはそもそも戦争以前の人生が十分に形成されていません。過去の傷を癒すにしても、平和な時代に思いを馳せることもできず、その傷口を直接なぞることしか知らない。物語の最後、彼が口にする破滅的な台詞に慄然とします(ネタバレ控えます。ぜひ読んでみてください)。
長い人生の原点であり生涯の拠り所となるはずの幼少期。そのかけがえのない時期に、戦争、あるいはそれに準ずるような経験(虐待などもそうです)をさせてしまうことの意味を、我々大人はもっと自覚しなくてはいけない。上記2作を読んで、そう思いました。
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ここからは、僕が特に深くシンクロしたテーマ――「自分らしさ」や「集団の中での自分」といった、いわゆる自己内省を扱った作品について書きます。こういった主題は、誰もが普段から大なり小なり意識すると思いますが、それを分かりやすく、一つの解答へと導いているのが、「秋晴れの街へ」「隠者の妻」「窓下の少女」です。
この3編は、そのまま(収録順に)3部作とみなして読むことをおすすめします。病の療養のため青年期の4年間を家から一歩も出ずに過ごした主人公が、社会復帰後、周囲とのギャップを取り戻すため必死に順応していくものの、その世間並の生き方に、彼は要所要所でどうしても躓いてしまうのです。
「……おれはね、いつのまにか、なにか、かんじんなものをなくしてしまったような気がするんだ。あのときにはあった、なにかしらを。……たしかに、今のおれの生活や、おれの仲間たちは、あのころに、おれが欲しくて欲しくてたまらなくて、まるでたからものみたいに夢想してたものと、寸分違いがないもののはずなんだ。ところがね、今のおれには、(・・・)まるでぜいたくな料理の、いちばんかんじんなところをかたっぱしから食べこぼし続けてるみたいで、(・・・)」
(p.493-4)
彼は妻にこう打ち明けているのですが、今や守るべき家庭も仕事もある市井の人間たる彼がこんなことをぼやいたところで、日々の倦怠からくるありがちな気の迷いだと、一笑に付す方も多いかもしれませんね。それくらい、誰もが何となく思い浮かべてはスルーしていることではないでしょうか。
しかし、作中の彼のように孤独としっかり向き合う「あのころ」を経験した人間は、社会の枠組みに倣うことに人一倍努力を惜しまないのと同時に、それを客観的に見つめ立ち止まることもまた習慣になっている。いわば集団の中の孤独というものに、恐れと愛着の両方(たぶん後者寄り)を抱いているのです。
実は僕もそうなのですが、世間の流れには頑張って合わせようとする半面、それが曲がりなりにも上手くいくほど、「本当の自分って何だろう?」と強烈な不安に襲われます。たとえば新しい職場で人間関係も落ち着いて、仕事も一通り覚えて、我ながら集団の一部にどうやら違和感なく成りおおせたと自覚する、その瞬間、ふとその場から去りたくなるのです。
「窓下の少女」で、主人公はこの種のジレンマに対して自己分析を深めていきます。すなわち、社会とのズレや違和感をいくら努力によって解消しても、「外界との調和を得た、という満足感よりも、むしろ、何かを見失った、という喪失感の痛み」を感じるばかりだという自分に行き着くのです(p.505)。
そしてこの痛みこそが「おれ自身の存在感」だと、彼は自答します。ああこれだ、と読んでいて思いました。この何者にも馴染まないヒリついた感覚をこそ、彼は(おそらく僕自身も)何よりも大切にしようとしている。たとえ死ぬまでついて回るであろう、慢性的な生きづらさと引き換えにしてでも。
一見当たり前のようで、なかなか言葉として整理できなかった積年の疑問を、よくぞここまでシンプルに文章にしてくださったものだと、感謝の念に堪えずページをめくり続ける自分がいました。
(どうしてこう、孤独を嫌いになれないのかしらと思ったら、そういうことでしたか。……)
何はともあれ、ご興味のある方は是非とも読んでみてください。
長くなり申し訳ありませんでした。ここまでにします。
それでは(次回に続く)。
※作中の引用ページは「宮原昭夫小説選」(河出書房新社, 2007年初版)を参照しました。
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