#19 武者小路実篤 『真理先生』 ~自分らしく生きる~

「おすすめ文学 ~本たちとの出会い~」

19回目「武者小路実篤」という字面を見て、何やらいかめしい、難解な文学者をイメージされる方もいるかもしれません。もしもそれが原因でこの作者・作品と皆さんとの縁が失われてしまうのなら、これほど勿体ないことはありません。

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#19 武者小路実篤 『真理先生』 ~自分らしく生きる~

武者小路実篤むしゃのこうじ さねあつ, 1885~1976)は、「白樺派」と呼ばれる近代文学一派の創始者の一人です。概説的な話はこのくらいにして、この『真理先生しんりせんせいは内容も分かり易く、読んでいて気持ちが明るく前向きになれる作品です。

登場人物のほとんどは、社会的にはそれほど大きな成功をおさめているわけでもない、素朴で不器用な、お人よしの人間ばかりです。そんな彼らが自分たちの出来ることに精一杯努め、自分と他人を愛し、喜びと誇りをもって生きようとする姿が描かれています。

出典:武者小路実篤 『真理先生』 新潮文庫, 平成2年第77刷

 

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語り手の「僕(山谷五兵衛)」は、「真理先生」という六十過ぎの老人と出会い、その不思議な魅力に惹かれてゆきます。この真理先生、三十半ばで妻に愛想をつかされ、商売の古本屋もいつとなくやめてしまい、今は「一文の金も持たず」に生活している風変わりな人物です。

そんな先生の生活には、少しもみじめなところがありません。身の回りの世話は近所の女性がしてくれるし、彼の周りには多くの人たちが集まり後援会なるものも出来ていて、お金にも人望にも不足なく暮らしているのです。ファンクラブが出来るほど人気者の真理先生。どんだけ男ぶりが良いのでしょう? 語り手「僕」の言葉を借りるなら、

先生は女にも好かれていることは事実だ。但しその好かれ方は、肉体的でないこともたしかだ。たしかに先生は女にすかれるには不適当な顔をし体格をしている。もし先生に精神的魅力がなかったら、之程取柄のないものは又とあるまい。

(p. 23-24)

という、まあまあヒドい言われ様(笑)。つまり、人柄だけが最高に素敵なおじいちゃんだということです。そんな真理先生の話を聞きに、連日たくさんの人が押しかけます。彼の家は、人生に悩み苦しむ者たちの駆け込み寺といった感じですね。

真理先生の話は、人生の問題を解決するための具体的なノウハウをじかに教えるものではありません。彼はすべての「人間が人間らしく生きられる世界」を心から望み、その日が訪れるのを祈る――方法論云々ではなく、とにかく「真心から」祈る(宗教的なものというわけでもなく)だけなのです。

今のように正直者が生きてゆけなかったり、他人を憎悪しないではいられなかったり、自己を歪(いびつ)にしないでは生きていられない時代には、(……)先ず自分を人間らしく生かそう。自分を生き甲斐ある人間にしよう。そして自分と同じ望みを持つものと協力しよう。

(p. 46-47、括弧内はルビ)

そう真理先生は言うのです。僕が十九歳で初めてこの箇所を読んだ時は、「理想論だけ掲げられても、じゃあ具体的にどうすりゃいいんだよ?」と思ったものでした。

けれども、安易に実用的な解答を急ぐよりもまずはその理想を心にしっかりと根付かせ、そうして今の自分に出来る小さなことから地道にやっていく――そんな自分を愛し、誇るべきなのだと、最近思うようになりました。

人に認められたい、社会的に尊敬される成果を残したい……時代や他人の求める流動的な外的評価ばかりを気にしていると、本来の自分の個性や持ち味を押し殺して生きることを余儀なくされる場面も多々あると思います。

『真理先生』の登場人物たちは、そういう世間一般のしがらみを理解しながらも、まずは自分らしく生きるということを重視します。その最たる人物で、真理先生の説く理想を実生活で体現しているのが、貧乏絵描きの「馬鹿一」という老人です。

彼は誰もが見向きもしない道ばたの石や雑草ばかりを全身全霊で描き続け、世間からはほとんど無視されていました。それでも、そんなことはお構いなしに己の仕事に異常なまでの信念を固持する彼の姿に、他の登場人物たちも次第に感化されてゆくのです。

『真理先生』の登場人物たちは皆、他人の生き方を肯定します。最初は誤解したり軽蔑したりしていても、最後にはその人の人間性を心から認め、そして愛するのです。

生ぬるい理想論の世界と言えば、それまでかもしれません。けれども、本当にそんな世界に僕たちが生きることが出来たなら……この本を読むたびに心の奥に灯る小さな希望のあたたかさを、まずは一度味わってみてはいかがでしょうか。

 

#17 中勘助 『銀の匙』 ~こくこく読む~

「おすすめ文学 ~本たちとの出会い~」

17回目。子供の頃、大切にしていた「あの気持ち」。それが何だったのかを、『銀の匙』は教えてくれます。大人として生きる日々に疲れたすべての人たちに読んでほしい、永遠の名作です。

銀の匙 (角川文庫)
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#17 中勘助 『銀の匙』 ~こくこく読む~

本作品について、夏目漱石は「普通の小説としては事件がないから俗物は褒めない」けれど「私は大好きです」と評価しました(下記出典文献の年譜より)。実際に読んでみて、まさにその通りだと思いました。読者をあっと驚かせる技巧的なストーリー展開はいらない。ただひたすら、一つ一つの平凡な事物を、子供のような純心と愛情でもって描き切る――それだけで小説は絶対的に面白いということを、中勘助『銀の匙』は証明しています。

出典:中勘助 『銀の匙』 角川文庫, 2015年改版6版

 

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身体の弱い母親の代わりに未亡人の「伯母さん」にかわいがられて育った主人公の「私」。とにかく引っ込み思案で、感受性が人一倍豊かなために、ほかの腕白な男の子たちとは仲良くなれず、伯母さんや近所の女の子とだけひっそりと遊ぶ子供でした。

内気でナイーヴな男の子の目線に立った、何気ない日常の思い出の数々が、短い章ごとに、明治時代のノスタルジックな雰囲気と相まって、やさしさと温かさと繊細さをもって語られてゆきます。本当に、美しい描写なんですよね。

たとえば僕が大好きなのは、桃の節句に、隣の家の「お蕙(けい)ちゃん」という女の子と二人で白酒をいただく、実にほんわかとしたシーンです↓

二人がひな段のまえへちょこなんとすわって仲よく豆煎などたべてると、伯母さんは(……)とろとろの白酒をついでくれる。白酒が銚子の口から棒みたいにたれてむっくりと盛りあがるのをこくこくと前歯でかみながらめだかみたいに鼻をならべてのむ。

(p. 122)

この情景が目に浮かぶようで、もう可愛らしくてしょうがない(笑)。二人の子供が「ちょこなん」と座って、白酒を「こくこく」飲む。五感に直接うったえかける描写がすばらしいです。

思えば僕も子供の頃、プラモデルとか昆虫とかミニ四駆とか、当時ほかの男の子が夢中になっていたものには全く興味がなかったです。むしろ、ひな祭りに女の子と一緒にのんびりお家でお菓子を食べたりして遊ぶなんて、最高に楽しいと思いますもの。

けれども「男子はたくましくあれ」という考え方は、昔も今も根強くありますよね。主人公の「私」もまた、男臭くて現実主義者の「兄」からは理不尽な反感を食うのです。彼は軟弱な弟のやることなすことすべて気に入らず、夜空の星を「お星様」とよぶことをさえ叱りつけます。

その時、「私」が兄に対して心に思った内容が僕には衝撃的だったのですが……ここは敢えて引用はしません。是非とも皆さんで作品を手に取って読んでみてください(前掲の角川文庫版だとp. 140、後篇の四章の最後です)。

大人の石頭に凝り固まったものの見方を子供ながらに押し付けられ、それに当てはまらない自分自身をわけも分からず寂しく思う……遠いあの頃のもやもやとした気持ちを、『銀の匙』は、物語あるいは言葉という形にして、僕たち読者にはっきりと示してくれた。そんな気がします。

私は常にかような子供らしい驚嘆をもって自分の周囲をながめたいと思う。

(p. 152)

そうして生まれたこの物語が、時代を越えて僕たち現代の大人に語り継がれてゆくことを、しみじみと嬉しく思います。

是非ともご一読ください。それでは、今日はこの辺で。