#7 今昔物語集 『佐渡国人為風被吹寄不知島語』  ~住まうは鬼か、神か~

「おすすめ文学 ~本たちとの出会い~」

回目。「今ハ昔、…」平安のいにしえの時より語り継がれる、佐渡ヶ島の伝説です。

新編 日本古典文学全集38・今昔物語集(4)
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#7 今昔物語集 『佐渡国人為風被吹寄不知島語』  ~住まうは鬼か、神か~

「今ハ昔」で始まることからその名が付いた『今昔物語集』は、三十一巻にわたり千以上の説話を収めた平安時代後期の書物です。今回ご紹介するのは、この壮大な説話集のラスト(巻第三十一)の十六番目に収録された、新潟県の佐渡ヶ島を舞台にしたお話です。

併せて、太宰治の短編「佐渡」についても少し触れていきたいと思います(下記の短編集に収録されています)。

きりぎりす (新潮文庫)
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出典①: 『新編日本古典文学全集 今昔物語集4』 小学館(2002年第一版第一刷)

出典②: 太宰治 『きりぎりす』 新潮文庫(平成14年54刷)より 「佐渡」

 

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佐渡は日蓮や世阿弥が流された場所としても有名です。今昔物語集に記された「佐渡国…(以下略)」の物語は、日蓮の島流しよりさらに150年ほど遡った平安末期に成立しています

「佐渡国人為風被吹寄不知島語」と書いて「佐渡の国の人風の為に知らぬ島に吹き寄せらるること」と読むタイトルの通り、佐渡に住む人々が沖に船を出したところ嵐に遭い、見たことのない謎の島に流れ着くという話です。そんな九死をのがれた佐渡人たちの前に、世にも奇怪な姿かたちの島民が現れます。

「見レバ、男ニモ非ズ童ニモ非ズ、頭ヲ白キ衣ヲ以テ結タリ、其ノ人ノ長極テ高カシ」

(① p. 535)

男でも子供でもなく、頭に白い布を巻いた、おそろしく背の高い人間たち。謎の島に住む、謎の民族です。頭に白い布を巻く、ってどんな感じなのでしょう。単純にハチマキのようにオデコに巻く物のような気もしますが、僕は何となく、顔全体を覆い隠すようにぐるぐる巻きにした、それこそミイラのような不気味な容貌をイメージしました。

性別不詳の、巨人のミイラたち。そんなものが島からわさわさ出てきたなら、佐渡人たちにとってさぞ恐ろしい光景だったでしょうね。

巨人のミイラ(と勝手に呼びます)たちは、佐渡人たちを陸に上げない代わりに、食糧を恵んでくれ、天候が回復するまで船の停泊を許可します。原文の簡潔なテクストからも、彼ら巨人のミイラの神秘的な雰囲気と、ただならぬ威厳のようなものが感じられます。

そんな彼らの発するオーラに気圧されてか、佐渡人たちの誰一人として彼らの言葉に逆らい密かに上陸を試みようとする者はありません。ここは現世か、あの世の入り口か。彼らは鬼か、はたまた神か。ただ一つ分かっていることは、

「其ノ島ハ他国ニハ非ザリケルニヤ、此ノ国ノ言ニテゾ有ケル」

(① p.536)

巨人のミイラたちの話す言葉は、佐渡人のそれと同じ――つまりここは(例えば中国や朝鮮などの)異国の大陸ではなく、確かに日本の島だということなのです。佐渡の北東には粟島という小さな島がありますが、佐渡から「北様ニ(北に)」向かって流されたということなので、方角が少し違います。

さわらぬカミに祟りなしの心境で、佐渡人たちは天候の回復と共に大人しく帰還します。以来、彼らの流れ着いた謎の島での出来事は島民たちの間に広まり、畏れをもって語り継がれてゆくのでした。

さて、この佐渡伝説の誕生から800余年の後、ある一人の作家が、佐渡にまつわる紀行文ともフィクションともつかない不思議な小品を遺しました。太宰治「佐渡」です。

「佐渡は、淋しいところだと聞いている。死ぬほど淋しいところだと聞いている。(・・・)私には天国よりも、地獄のほうが気にかかる。」

(② p. 168-169)

この描写からも、太宰は佐渡という場所について、ある種の神秘性――この世のものならぬ雰囲気を感じ取っていたことが窺えます。そして我らが太宰兄もまた、佐渡にまつわる奇妙な体験をするのです。「おけさ丸」に乗って佐渡に向かう途中、新潟を出港してから一時間ほどして、太宰は甲板に出て海を眺めます。そこで彼は、すぐ眼前に島を発見します。

もう佐渡に着いたのかと一瞬思いましたが、時間からしても夷(佐渡)港まではまだ半分も来ていません。こんなところに、どうして島が見えるのか。佐渡ではないとすると、この島は一体何なのか。他の船客が平然たる面持ちでいるなかで、太宰はひとり混乱します。

「この汽船の大勢の人たちの中で、私ひとりだけが知らない変な事実があるのだ。」

(② p. 173)

太宰もまた、先の今昔物語に描かれたような謎の島を見たのでしょうか。方角からして巨人のミイラの国とはまた違うようですが、見る者を惑わせる何かに遭遇したことは確かです。

ただし、この太宰のストーリーにはきわめて現実的なオチがあります。最初に太宰が目撃したのは他ならぬ佐渡の一部(「工」の字のかたちをした佐渡ヶ島の右下部分)で、その後船は内部の平野の港に到着した、ということなのです。

でも、やっぱり変です。当時太宰の乗った「おけさ丸(現在も同名の佐渡汽船が運航しています)」の新潟⇔佐渡間の所要時間は2時間45分でしたが、これは現在の佐渡汽船カーフェリーより少し遅いくらいで、さほど変わりません。

にもかかわらず、新潟を出港してから1時間程度のところで、太宰が描写したような島は――それが佐渡であろうとなかろうと――見えないと思うのです。太宰自身も、それを暗に匂わせるような描写をしています。

やはり太宰の目に映ったのは、ある種の神秘の島ではないでしょうか。芥川龍之介「羅生門」「芋粥」を今昔物語から取材したように、太宰も「巨人のミイラ」島伝説を念頭において「佐渡」を書き綴ったことは十分に考えられます(そういう文学研究は既になされているのかもしれません)。

ともかく、太宰の「佐渡」という作品は、単なる紀行文チックな小品にとどまらない、彼の創作した佐渡伝説と解釈することができるのです。

かくいう僕も、佐渡ヶ島で生まれ、幼少の数年間を佐渡の地に生きた人間です。これまで何十回と往復したことのある海の上で、見たこともないような島影がある日とつぜん見えることがあるかもしれません。

それならそれで、別に驚きゃしません。佐渡ヶ島というところ――そしてあの辺一帯の海は、今でも古き良き日本の「魔性」とでもいうべき独特のムードが色濃く漂っているのですから。

ぜひ、ご一読を。長文失礼いたしました。

 

#5 梅崎春生 『春の月』 ~月に化かされた~

 「おすすめ文学 ~本たちとの出会い~」

回目。一足早い春月夜をお届けします。

ちくま日本文学全集 044 梅崎春生
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#5 梅崎春生 『春の月』 ~月に化かされた~

梅崎春生(1915~1965)は、第二次大戦後まもなくして文壇に登場した、いわゆる「戦後派」作家の一人です。直木賞を受賞した『ボロ家の春秋』(1954年)が有名ですが、今回ご紹介する『春の月』という短編(中編か)小説は、それより遡る1952年の作です。

梅崎の小説は、庶民的な題材を平易なタッチで描く中にも、油断しているといきなり心をえぐるような直球をぶつけてきます。ぼけっと気楽に読んでいる最中に、ふと深く考え込んでしまう自分がいて、それがとても新鮮な印象として残るのです。

出典:『ちくま日本文学全集 梅崎春生』筑摩書房(1992年第1刷)

 

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『春の月』は、東京下町かどこかを舞台に繰り広げられるホームコメディ的な作品です。梅崎文学の多くの作品に共通する庶民的な親しみ易さの他に、とりわけ本作品が放つ異彩ともいうべき特徴があります。それは、複数の登場人物ごとに、視点が次から次へと切り替わるという語りのスタイルです。

物語には10人くらいの老若男女が順番に登場するのですが、最初は、須貝という都庁勤務の貧乏青年の視点からスタートし、須貝君にまつわるドタバタ劇が一通り展開すると、やがて彼の恋人・谷川魚子とのキスシーンに入ります。

二人が唇を重ね合わせた瞬間、それまで須貝目線で進行していた物語が一転して魚子の視点にバチっと切り替わり、キスをした後の魚子の本音が明かされます。

「このひとの口は、今日は鶉(うずら)豆のにおいがするわ」(・・・)谷川魚子は無感動にそんなことを考えていました。眼は見開いたままです。 

(p. 150、下線部分は原典ルビ)

倦怠期カップルだったのですね。ですます調のあけっぴろげな感じの描写が地味に笑えます。

さて、二人のやり取りからほどなくして、一台の車が彼らの傍を走り過ぎます。すると今度は、その車に乗っている男(牧山)に視点が切り替わり、須貝&魚子のシーンは瞬時に幕を引き、牧山のストーリーにバトンタッチされ、車内での会話が始まるのです。

このようにして、物語は同じ舞台・時間を共有しながらも、人物の視点がめまぐるしくシフトし、十人十色の人間模様が主観的に映し出されてゆきます。あたかも月の様相が、時間や天候あるいはその時の気分によって見え方が変わるがごとし、です。

先ほどの須貝・魚子カップルのように、登場人物間で面識がある場合もありますが、そうでない場合もあります。

基本的に一度舞台からはけた人物が再び視点の主として登場することはないのですが、先ほどの須貝君などは後の5人目あたりの登場人物のストーリーにちょい役として姿を現します。「須貝」とは明記されていないので、想像をかきたてられて面白いのです。

『春の月』のにぎやかな群像劇の最後の登場人物が舞台を退くと、物語は急激にトーンダウンし、静かで侘しい雰囲気に包まれます。

「空には大きな春の月が出ています。盛り場の塵埃を通すせいか、赤黒く濁って、汚れた血のようです。まだすこし欠けているようですが、もう満月になるのも、明日か明後日のことでしょう。あとはただ、夜風が吹いているだけです。」

 (p. 230)

登場人物たちの喜怒哀楽に満ちた人生の活気をあえてぶち壊す、このラストの情景描写に、ふと我に返るような奇妙な感覚を抱きます。それまで見てきた作中の他人事の人生の連鎖が、ここへきて僕自身にバトンタッチされたような……そんな気さえするのです。

春の月に、化かされたのかな? 梅崎春生の小説は、時折このような不思議な感覚を読み手に委ねてくるのです。それもきわめて唐突に――これがまたクセになるのです。

ぜひぜひ、読んでみてください。