#46 夏目漱石 『文鳥』 ~季節はずれの雪~

「おすすめ文学 ~本たちとの出会い~」

46回目。暑中お見舞い申し上げます。むかし猫を飼っていたのですが、エアコンが嫌いな子で、夏はたいてい玄関のコンクリートのたたきにべたっと腹這いになっていました。ひんやりして気持ちいいみたいです。僕は真似しませんでしたが(笑)、でも一度くらい、あいつがまだ生きていた時に、一緒になって寝転んでみてもよかったな――なんて思いながら、ふと本棚から引っぱり出した作品です。

文鳥・夢十夜 (新潮文庫)
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#46 夏目漱石 『文鳥』 ~季節はずれの雪~

漱石の名短編の一つ。知り合いから勧められるままに文鳥を飼うものの、世話が行き届かず死なせてしまうという、何だか元も子もない話。保護責任の問題などの観点からすると、いささか後味が悪いかもしれません。それでも、美しく小さな命が浮世にもたらしてくれた一夜の夢のような慰めを、僕たちはこの作品を通じていつでも思い起こすことができる、そんな気がします。

出典:夏目漱石 『文鳥・夢十夜』 新潮文庫, 平成22年第77刷

 

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語り手で作家の「自分」は、弟子の三重吉から文鳥を飼うことを勧められます。「自分」はさほど乗り気ではなかったのですが、勧められるがままに適当に返事をしてお金を渡すと、三重吉は本当に文鳥と籠を携えて来たのです。

餌のやり方、水の替え方、籠の掃除のしかたなど、三重吉は熱心に、事細かに指示をしていきました。無気力でどことなくほっとけない師匠が、きちんと面倒を見てくれるか心配だったのかもしれません。その師匠は、はじめて文鳥を見るなり、

成程奇麗だ。(・・・)薄暗い中に真白に見える。籠の中にうずくまっていなければ鳥とは思えない程白い。何だか寒そうだ。

(p.11)

そんなことを思うのです。悪くないね、とか、ご苦労だったね三重吉、とか社交辞令を示すわけでなし、「何だか寒そうだ」と胸の内でぼそっと呟くあたり、彼の神経は少なからず衰弱しています。

籠の中に閉じ込められている小鳥を、書斎にこもって物を書く自分の姿と重ね合わせたのでしょうか。作家としてか、人間としてか、いずれにせよ彼は孤独の中に生きているようです。

心を擦り減らしがちの人は、根は人一倍やさしい場合が多い。実際この語り手は非常に繊細な人物で(漱石と言ってしまえばそれまでですが)、ことあるごとに文鳥に対して「気の毒」がるシーンが見受けられます。

たとえば、自分が寝坊したせいで餌やりが遅れて「気の毒になった」り(p.12)、餌をやる最中に籠から逃げないように手のひらで出口を塞ぎながらも、そんなに狡猾な悪い鳥じゃあるまいに、と「気の毒になった」り(p.14)。

又大きな手を籠の中へ入れた。非常に要心して入れたにも拘らず、文鳥は白い翼を乱して騒いだ。小い羽根が一本抜けても、自分は文鳥に済まないと思った。(・・・)水も易えてやった。水道の水だから大変冷たい。

(p.17)

目に見えるストレスを与えてしまうことはもちろん、水道水(作中の季節は冬です)が冷たいことさえも気の毒に思っているのです。キンキンに冷えた水が、文鳥の小さな身体に宿した温もりを内側から奪ってしまうことまで、文鳥の身になって共感しているわけです。

しかしそれならば、水は少しでも温かい室温にならしてから出せばいいのだし、餌もきちんと早起きしてあげればいい。それができないのなら、どれほど気の毒がろうとも飼い主失格です。

彼は自分の生活ペースを改めるでもなく、徐々に文鳥の世話を人任せにしていきました。家の誰かに明確に一任するわけでもなく、責任の所在が曖昧になってしまったことで、世話が行き届かなくなった文鳥は死んでしまうのです。

「家人が餌を遣らないものだから、文鳥はとうとう死んでしまった。たのみもせぬものを籠へ入れて、しかも餌を遣る義務さえ尽さないのは残酷の至りだ」

(p.26)

文鳥の死後、三重吉に宛てた手紙です。たしかに残酷です。同時にこの手紙には、文鳥のような弱くてはかない存在が俗世に生きることの無常――その声にならない嘆きがひしひしと感じられます。

弱者を誰よりも理解し、同情した。だからこそ、その可憐で無垢な姿が不安定な世の中に存在している事実を直視できず、徐々に目を背けるようになり、悲しい結果を招いてしまうこともある。

動物を飼っていた人間として、僕はこの語り手の迎えた結末を全面的に擁護する気にはなれません。それでも何となくですが、彼の気持ちが分からないでもないのです。……

思えば僕が以前飼っていた猫にも、色々と考えさせられることがあった気がします。こんなに愛らしく純粋なものが存在している日常ならば、生きるに値する。けれども、こういうことを思うとき、喜びや希望だけでなく、なぜか一抹の不安や物悲しさが胸の内をよぎることもあったのです。

語り手は、彼の真っ白な文鳥のことを「淡雪の精」と表現しました(p.15)。今年のような猛暑のさなかに現れたなら、あっという間に消えてなくなってしまうでしょう。

だから「文鳥」を読んでくださる皆さん、そのあたたかい心の中に、季節はずれの淡雪を、どうか末長く大切に閉じ込めてあげてください。

それでは、今日はこれで失礼します。

 


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#45 尾崎一雄 『梅干爺さん』 ~戦いは終わらない~

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45回目。連日深夜のサッカー観戦でバテ気味なのですが、お昼ごはんの梅干おにぎりとジャスミン茶で乗り切っています。ワールドカップの興奮を個人的にサポートしてくれる妙薬、梅干。地味だけどいい仕事しています。だから梅干よ、もっと自分を誇るがいい。世界は今、日の丸の底力に刮目している……という心境にいくらか通ずる気もしないでもない、そんな作品をご紹介します。

楠ノ木の箱(旺文社文庫)
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#45 尾崎一雄 『梅干爺さん』 ~戦いは終わらない~

尾崎一雄(1899-1983)の作品では、日常生活や身近な自然の情景をさりげなく描いたエッセイ風の短編が好きです。今回ご紹介する「梅干爺さん」は、タイトル通り梅干作りの得意な老人の話で、読めば昔ながらの手間暇かけた梅干の作り方が分かります。6月に実を漬けて、7月の梅雨明けの天日に干すまでの手順が書かれていて、僕も梅干おじさんやってみたくなりました(笑)。

出典:尾崎一雄 『楠ノ木の箱』 旺文社文庫, 昭和52年初版

 

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緒方老人は、普段はそれほど口うるさい人間ではないのですが、自家製の梅干に関しては並々ならぬこだわりを持っています。毎年6~7月の梅干作りの時期になると、文字通り口を酸っぱくして、妻や子どもにああでもない、こうでもないと細かく指示を飛ばす、梅干爺さん(自称)です。

梅干は、緒方老人が子どもの頃から慣れ親しんできたソウル・フード。郷里の下曾我村(小田原市)は当時から梅干の産地として知られていたそうで、緒方老人の家庭でも、彼の祖母伝来の昔ながらの製法を受け継いで自家製の梅干を作ってきました。

梅の実は、清水でよく洗い、ザルに上げてよく水気をきる。(・・・)漬け込む容器は、カメでも桶でも宜しい。但し、一度他の漬物に使った容器は避けなければならぬ。(・・・)漬けこむときは、梅の実、塩、梅の実と、層をつくるようにする。但し、やがて塩は梅からにじみ出る果汁で溶けて沈むから、塩は上層ほど多くする要がある。

(p.76-77)

匂いがうつるので他の用途で使った容器はダメというわけですが、僕みたいな不精者がいかにも割愛しそうなルールです(笑)。某料理マンガの、オムレツ専用のフライパンみたいです。こんな感じで梅干作りのノウハウが、典拠の古い文庫本のちいさな字でも、見開き1ページにわたって詳しく書かれています。

7月の梅雨明け。ひと月経った青漬梅を外に干す「土用干し」の段階までくると、緒方老人の神経過敏はいよいよピークに達します。ラジオで天気予報をチェックはするものの、不安定な夏の天候に油断は禁物、いつ雨が降ってくるかと気が気でなりません。

現在の我々がワールドカップの一試合一試合から目が離せないように、緒方老人もこの時期は、夜もおちおち眠れない日々が続くのです。梅たちが最高の持ち味を発揮できるように、必死で見守るわけです。

無事に梅を干し終えると、最後の工程として実くずれ防止のためやわらかい梅にシソを巻くのですが、この時点では例の鬼気迫る戦闘モードはすでに解除されており、老人はリラックスして子どもと一緒に作業をしています。

シソ巻きには、子供も手を出す。何となく面白いからだが、一つには、これでもう終り、という気分が、彼らにも安らぎを与えるらしい。(・・・)老人からは、あの土用干し時分の神経過敏さが消え去っている。

(p.79-80)

こうして彼は通常の好々爺に戻ったわけですが、しかし彼の本当の戦いは終わってはいないのです。というのも、実は彼の本職は梅干作りではなく、小説家なのです(モデルは作者本人ということです)。

ものづくりという点では、梅干も小説も同じです。昔ながらの製法を守って、一切の妥協を許さずに梅と向き合う老人の姿勢は、彼の創作に対するそれにも必ずや通じていることは想像に難くありません。

しかし老人は、自分の生産作業に於ける手ごたえを、しかと受けとめることができなかった。何かあやふやなのである。そこには、あるもどかしさ、とりとめの無さがつきまとって離れないのだ。

(俺が確実に「作った」と自分を納得させることのできるのは、この梅干だけではないかな。これには確かな手ごたえがある。…)

(p.88)

僕自身、生活のための仕事と創作活動の二足のわらじを履いてはいるものの、生き甲斐(生きる意味、と言ってもいいかもしれません)を見出すことができるのは後者でも、確実な手応えを感じているのは前者です。

この感覚は、食えるものと食えないものとか、需要があるものとない(それは僕に限ってですけれど)ものとかいう以前の、もっと根本的なところに原因があるように思うのです。でもそれは緒方老人の言うように「何かあやふや」で、今のところその正体は掴めていません。

ただ一つ言えること――緒方老人の梅干にしろ、僕の書くものにしろ、昔ながらの製法やスタイルが打ち捨てられてゆく時代に生きていることを百も承知の上で、それでも己のかび臭い仕事ひとつを続けて行く。否、仕事そのものが自ずから続いて行くのです。

ワールドカップが終われば、選手たちはそれぞれの国、そしてそれぞれのリーグに帰り、彼ら自身のいつもの戦いへと戻って行きます。戦いは、終わりはしない。決勝戦を見終える頃には、僕たちもそれぞれの戦いにいっそう集中しなくてはなりませんね。

何はともあれ、ひとまずはグループ突破。よかった。(追:ベルギー戦、残念だったけど、でもよかった。すばらしい戦いでした。)

皆さんも寝不足にはくれぐれも気をつけて、この時期を元気に乗り越えてください。

長くなりました。それでは。

 


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