#54 ヘッセ 『シッダールタ』 ~我が道を行く~

「おすすめ文学 ~本たちとの出会い~」

第54回目。何が正しくて、何がまちがっているのか。誰かに確実な方法を教えてもらいたい――正解か不正解の2択にこだわっている時の自分は、得てして視野が狭くなっています。僕自身、そんな時に読み返したくなる本をご紹介したいと思います。

シッダールタ (新潮文庫)
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#54 ヘッセ 『シッダールタ』 ~我が道を行く~

ドイツの文豪ヘルマン・ヘッセHermann Hesse, 1877-1962)の代表作の一つ。シッダールタというタイトルから、仏教の祖である釈迦の出家前の名前を思い浮かべると思います。けれどもこの物語の主人公シッダールタは、釈迦とは別人です。釈迦(仏陀)と同じ時代を生きたシッダールタという名の架空の人物が、自身のバラモンという最高位の身分を捨て、悟りの境地を模索する姿を、僕たちと同じ等身大の人間の視点から描いた作品です。

出典:ヘルマン・ヘッセ作/高橋健二訳 『シッダールタ』 新潮文庫, 平成25年・第72刷

 

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バラモン(司祭の階級)の子シッダールタは誰からも愛される聡明な若者で、聖典をよく学び、神々の創造した世界について日々思索をめぐらせていました。しかし彼は自身の生活や世の中について、それまでの環境で学んできたことだけで答えを見出すことに疑問を感じていました。

バラモンとその聖典は、なんでも知っていた。(・・・)しかし、そういういっさいを知ることに価値があったろうか。もしも一つのもの、唯一のもの、最も重要なもの、ただ一つ重要なものを知らないとしたら。

(p.12)

周囲には師と仰ぐ立派な人たちが多くいましたが、そんな彼らもまた、何かを求めて悩み考える道半ばの個人でしかないと考えたシッダールタは、「唯一のもの」を求め、生家を出て沙門(修行者)となる決意を固めます。

親友のゴーヴィンダと共に沙門の道を歩み始めたシッダールタは、やがてゴータマ(仏陀)という賢者が人々に教えを説いていることを知ります。感銘を受けたゴーヴィンダは仏陀の教えに帰依します。しかしシッダールタは、仏陀の教えを最上のものとして賛美しながらも、彼のもとに留まろうとはしませんでした。彼は仏陀にこう言いました。

あなたが仏陀であることを、あなたが目標に到達したことを、(・・・)私は一瞬たりとも疑いませんでした。(・・・)それはあなた自身の追究から、あなた自身の道において、(・・・)認識によって、悟りによって得られました。教えによって得られたのではありません! それで、私もそう考えるのです。(・・・)何ぴとにも解脱(げだつ)は教えによっては得られないと!

(p.48)

シッダールタは仏陀の教えを否定したのではありません。仏陀が自身の思索や苦行の末に悟りを開いたように、シッダールタ自身も、誰かの示した道ではなく、自分の道をひたすら進み続けることによって彼なりの結論に達したいと考えていました。彼にとっては、「いっさいの教えと師を去って、ひとりで自分の目標に到達する」ことが、悟りへのただ一つの道だったのです(p.49)。

友と別れ、師から離れたシッダールタは俗世間に出て、そこで遊女カマーラと出会います。高級娼婦である彼女の愛を勝ち得るために、彼はそれまでの貧しく禁欲的な沙門の生活から一変、町でいちばん裕福な商人のもとで働き始め、実業家としての才覚を発揮し成功を収めます。

商売に勤しみ、ぜいたくな暮らしをし、女性の愛に満たされていたシッダールタですが、やがてその生活にも虚しさを感じ始めます。多忙と享楽の人生は、いわば「遊戯」であり、延々と繰り返される「輪廻」であった。そのサイクルに自ら終止符を打ち、彼は家を捨て、町を捨て、あてもなく森の中をさまよい歩きます。

自分はもはやもどることはできない、長年いとなんできた生活は過ぎ去り、嘔吐をもよおすほどに味わいつくし、吸いつくした、(・・・)彼はもう飽き飽きしていた。みじめさと死とでいっぱいだった。彼を誘い、喜ばせ、慰めうるものは、この世にもう何ひとつなかった。

(p.110-111)

一時は死を望んでいた彼でしたが、再び悟りを模索すべく森に留まります。そして以前知り合った渡し守ヴァズデーヴァの世話になり、川のほとりでの穏やかな生活を送った末、流れゆく川のようにあるがままを受け容れる境地に辿り着いたのです。彼は再会した親友ゴーヴィンダに、自身の世界観を語ります。

世界は不完全ではない。完全さへゆるやかな道をたどっているのでもない。いや、世界は瞬間瞬間に完全なのだ。あらゆる罪はすでに慈悲をその中に持っている。(・・・)それゆえ、存在するものは、私にはよいと見える。(・・・)いっさいはただ私の賛意、私の好意、愛のこもった同意を必要とするだけだ。

(p.183)

世の中はどこに向かって、どう動いていくべきなのか。何が正しくて、何がまちがっているのか。そういった事象や選択に一喜一憂するのではなくて、今この瞬間に存在し、起こっている物事のいっさいには意味があり、慈悲があり、そして愛が介在していることに思いを馳せてみる。

おだやかな流れ、激しい流れ、水が見せるあらゆる様相が世の中の断片であり、それらが川という一つの道に集約されている。僕たちが目にしているその流れの一瞬一瞬こそが、既に完成された世界であり、受容に価する人生である。おそらくはそういうことなのでしょう。

シッダールタがこのような結論に辿り着き、彼の目指すところの「唯一のもの」を知り得たのは、かつて俗世間において様々な人生経験を積んだことが大きかったのではないでしょうか。若き沙門の頃、もしも彼が何の疑問も抱かず仏陀の弟子になり、彼の教えに忠実に従い続けるだけの人生を送っていたなら、彼は仏陀の提唱する救いの中では幸福になれたかもしれません。

しかしシッダールタ自身が純粋に疑問を抱き、目指すべきと感じていた道筋はそこで閉ざされてしまい、ありのままの自分を生きることは叶わなかったはずです。彼は他人から学ぶよりも、あらゆることを体当たりで経験する生き方を選びました。彼はこう考えます。

「知る必要のあることをすべて自分で味わうのは、よいことだ」

(p.126)

紆余曲折の道のりに、無駄なことなど何ひとつない。むしろ、それらの血の通った経験の一つ一つから、その人にしか語り得ない真実、というか人生の醍醐味を見出すことができるのだと思います。

濁流のごとく時の過ぎゆく不透明な時代において、僕たちは常に正しい答えやよりよい方法を最速で得ることを意識するあまり、他人の提唱する情報や意見に惑わされがちです。そんな中でも、まずは自分の軸をしっかりと持って、自分自身の経験として成功も失敗も等しく積み重ね、そこから己の目指す道を確立していけたなら……この作品を読み、そんなふうに思わされます。

ヘルマン・ヘッセ『シッダールタ』、是非とも読んでみてください。

それでは。

 


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#52 グリルパルツァー 『ウィーンの辻音楽師』 ~懐古の旋律~

「おすすめ文学 ~本たちとの出会い~」

第52回目。まずは台風19号の被害に遭われた皆様に、心より御見舞い申し上げます。そして僕なりにできることと言えば、やはりいつもと変わりません。今は大変な状況に置かれている方も、いつか落ち着いたときに、秋の夜長のささやかななぐさめになればと思い、ご紹介させていただきます。

ウィーンの辻音楽師 (岩波文庫)
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#52 グリルパルツァー 『ウイーンの辻音楽師』 ~懐古の旋律~

19世紀オーストリアを代表る劇作家グリルパルツァーFranz Grillparzer, 1791-1872)が残した2作の短編小説の一つ、「ウィーンの辻音楽師Der arme Spielmann)」をご紹介します。「哀れな音楽師」とも訳されている、孤独なヴァイオリン弾きの老人の人生を描いた物語です。

出典:グリルパルツァー作/福田宏年訳 『ウィーンの辻音楽師 他一篇』 岩波文庫, 1994年, 第4刷

 

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舞台は19世紀中期のウィーン。年に一度の教会開基のお祭り「ブリギッタ祭」が行われ、町は人々の喧騒と音楽で賑わっていました。流しの音楽師たちが路上に立ち、歓楽に酔いしれる人々の投げ銭に与かろうと、手にしたさまざまな楽器を景気よく奏でていました。

そんな中で語り手の「私」の目に留まったのが、七十は過ぎたと思われる老音楽師。譜面台の上にぼろぼろの楽譜を置いて、「ひどい調子外れ」のヴァイオリンを懸命に弾いていたのです。人々からは馬鹿にされ、笑われ、足もとに置いた彼の帽子には銅銭の一枚も入っていません。

しかし彼が奏でていたのは、過去の偉大な音楽家たちの曲でした。他の芸人たちのように流行りの曲やワルツなどは一切やらず、彼の技量では何を弾いているのかも伝わらない古典の難曲を、全身全霊を込めて弾いていたのです。

その姿に興味をそそられた「私」は老人に銀貨を与え、話をします。一見すると乞食のような風体の老ヴァイオリン弾きは、実に上品な物腰で、自身の音楽観についてこう語ります。

こういう曲を弾きながら(・・・)とっくにこの世を去った、地位も名誉もある偉い作曲の大家たちに敬意を表し、自らも満足を味わい、同時に、さなくとも八方誘惑だらけで邪道に陥りがちなお客様方の趣味や心を浄化して、慈悲深いお恵みに多少なりとも御恩返しができるかと、嬉しい希望を抱いて生きているのです。

(p.21-22)

俗っぽいトレンドに流されることなく、古き良き芸術を現代の人々に伝えることが自身の使命である、そんな高尚な考えを、こんなに下手くそな演奏によってでも堂々と打ち出している老人の人間的な魅力に惹かれたのでしょう。「私」は日を改めて老人の粗末な住居を訪ね、そこで彼が辿ってきた人生を知るのです。

老人は、元々はエリート階級の家の出身でした。宮中顧問官の父親から英才教育を叩き込まれましたが、他の兄弟たちと違って不器用な彼は、真面目に勉強しても成績は振るわず、職に就いても要領の悪さから怠け者扱いされ、ついには生家から追い出されてしまうのです。

そんな彼も、恋をしていました。仕事から帰れば誰にも相手にされずに家に籠っているばかりの日常を送っていたある日、隣の家の庭から、女の子の歌声が聞こえてきたのです。

何度聞いてもその度に、いいなぁと思いました。しかし、頭の中にはちゃんと入っているのに、歌おうとすると二声と正しくは歌えないのです。ただ聞いているだけでは我慢ができなくなってきました。その時、子供の頃から使わないまま、古い鎧のように壁に掛けたままにしてあったヴァイオリンが眼についたのです。

(p.40)

おそらく彼は音感が人一倍なかったのでしょう。歌うにしても弾くにしても、耳コピのできない彼には楽譜が必要でした。そのためにもまずは、歌っていた女の子に会わなければいけません。むしろ音感がないことが、彼とヴァイオリンとを結び付け、大切な人との出会い、そして音楽師としての運命へと導いたのでした。

こうして彼は、歌声の主であるバルバラとの出会いを果たします。彼の下手くそなヴァイオリン同様、誰よりも不器用で一途な恋愛をしたことは、皆さんのご想像に難くないと思います。その恋物語の顛末は、是非とも作品を読んで知っていただければと思います。

数十年後、老人はバルバラの歌っていた当時のありふれた流行歌を、心を込め、涙を流しながら「私」に演奏して聞かせます。辻音楽師としては古典しか演じない彼の、それは唯一の例外であり、彼の生きた時代と彼自身をつなぐたった一つの架け橋である、大切な思い出なのです。

「バルバラは長い年月の間にすっかり変わり、肥ってしまって、音楽のことなど気にも止めていないのですが、あの頃と変わりないいい声で歌います」そう言って老人はヴァイオリンを手にして、例の歌を弾き始め、もう私がそこにいることも忘れて、いつまでも弾き続けた。

(p.85)

少々ネタバレになりますが、老人は最期、町が洪水に見舞われた際、自分一人なら助かる命を他人のために投げ打ち、天国へと旅立ちました。世渡り下手で、そして誰よりも優しかった男の、懐古に捧げた幸薄い生涯。物語を読み終えて、そんな風に思われるかもしれません。

けれども、少なくとも僕はこう思います――懐古とは、現実を生きる人間の熱い血の通った行為であり、祈りである――だからこそ老人が奏でる古の旋律は、時代を越えて僕たちの心の琴線に触れ、そして今を生きることの悲しみと喜びを鮮明に示してくれる。

下手くそ加減なら負けず劣らずの「おすすめ文学」も、僕にとっては皆さんとの大切な架け橋です。お客様が一人もいない日だって、書き続けています(笑)。

それでは、今日はこれにて失礼します。

 


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