#71 ヘンリー・ジェイムズ 『ねじの回転』 ~不明瞭の重ね塗り~

「おすすめ文学 ~本たちとの出会い~」

第71回目。物事を多角的に見ることは、情報社会を生き抜くうえで必要不可欠である――そんなことは分かっている、と仰る皆さんが、19世紀末に書かれたこの怪談をどう読まれるのか、興味があります。

ねじの回転 (新潮文庫)
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#71 ヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転』 ~不明瞭の重ね塗り~

アメリカで生まれ、ロンドンを拠点に多くの名著を残したヘンリー・ジェイムズHenry James, 1843-1916)の中編小説「ねじの回転The Turn of the Screw, 1898)をご紹介します。田舎屋敷に亡霊が出るというあらすじだけを見て、古くさい怪談話と侮るなかれ。ストーリーそのものよりも、語りの複雑怪奇な構造によって読者を混乱・恐怖させる手法は、今の時代、一周まわって斬新かもしれません。

出典:ヘンリー・ジェイムズ作/蕗沢忠枝訳 『ねじの回転』 新潮文庫,平成17年第53刷

 

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たとえマスメディアで発信される内容でも、大なり小なり伝える側の主観が反映されているので、単純な事実だけを述べているわけでは決してない。巷にはびこる無数の情報を逐一疑ってかかることに慣れつつある僕たち現代人にとって、それはもはや常識のようにも思えます。が……

意外と盲点になりがちなのが、フィクションです。そもそもが「作り話」であるにもかかわらず、それを語る作中人物が、すべての出来事を客観的かつ正確に読者に伝えてくれているという保証が、いったいどこにあるのでしょうか? この「ねじの回転」という作品を読むときも、同様の注意が必要です。

本作品は、あらすじだけを見るなら実にシンプルです。ある田舎の古い屋敷に家庭教師として雇われた若い女性が幽霊を目撃する。どうやら幽霊は、彼女の教え子である幼い兄妹(マイルズフローラ)に悪い影響を与えているらしい。子どもたちを救うため、彼女は善良な家政婦のグロース夫人と力を合わせ、悪しき存在と対峙する。

子供達は二人とも、それはそれは優しく、(・・・)ほとんど非自己的で、(・・・)。彼等はまるで逸話の中に出てくる子供達のようで――少なくとも倫理的には――非の打ちようがなかった!

(p.61)

語り手である「わたし(家庭教師の女性)」は、そう言っています。僕たち読者は、この女性の証言を通じて物語の9割以上を追っていくので、彼女がそう言うならそうなのだろう、と信じてしまいがちです。というか、これを疑ったら、何を根拠として話の筋道を把握して行けばよいのか途方に暮れますよね。

そんな彼女の周囲では、不可解な変事が次々と起こります――彼女の前に現れる男女の幽霊、何かの理由で学校を退学処分になったマイルズ、幽霊を見て見ぬ振りをしている(らしい)フローラ――これらについて作者は、「わたし」を通じて事の真相を明らかにするどころか、むしろ混乱した彼女の曖昧な言動によって煙に巻くのです。

「たしかにマイルズよ、あの男(注:幽霊のこと)の探していたのは」
「でも、どうしてそれがお判りになります?」
「それは判るわ、判るわ、よく判るわ!」と、わたしはますます昂奮して言った。
「そして、あなただって、お判りのはずよ!」
グロースさんは否定はしなかった。が、わたしには、彼女がそれを口に出して言う必要さえないように感じられた。

(p.81)

上記は「わたし」がグロース夫人に幽霊について説明している場面ですが、彼女の感情的で無根拠なものの言い方に、グロース夫人は置いてけぼりになっています。一方のグロース夫人も、屋敷にまつわる過去のいわくを「わたし」から問われても、その純朴でお人好しな性格から、なかなかはっきりした答えを言わないのです。

二人の話の流れから、目撃された男女の幽霊は、かつて屋敷で働いていた下男クイントと、「わたし」の前任のジェスル先生であるらしい、ということは概ね確定したものの(それでも100%ではない)、彼らの生前の素行や死の原因など、読者が突っ込んで知りたいと思う部分の大半は伏せられたまま、ちっとも核心に至りません。

「さあ、話して頂戴な。あの女(ひと)は何で死んだの? ねえ、何かクイントとの間にあった筈だわ」
「ありとあらゆることがございました」

(p.103)

いやだから、その「ありとあらゆること」を今すぐ、具体的に教えてくれや――そうやって僕みたいにフラストレーションを溜めてしまうのも、作者の思うツボかもしれません。語り手に対する不信感が募るほどに、僕たちが聞かされてきた話はどこまでが事実で、どこまでが嘘(や誤解、はたまた妄想)なのか、いよいよ分からなくなってきます。

確かな情報の拠り所をいち早く掴みたいという読者の欲求をあざ笑うかのように、物語は、相も変わらずヒートアップする「わたし」目線で暴走していきます。終盤、一連の事件の解決のためマイルズと二人きりで対峙する、その決意に燃える「わたし」を前にしたグロース夫人の台詞が印象的です。

「お坊ちゃまがだめでも、わたくしが先生をお救いいたしますよ!」

(p.255)

いつの間にか、「救われる」側になっている語り手の「わたし」。もはや読者は、冷静な視点の拠り所を完全に見失ってしまいます。そこからは、あらゆる解釈を可能にする事件の全容が、読者の脳内に無限大に展開してゆく……幽霊などではなく、この話の構造そのものの不明瞭さこそが、この怪談を真に恐怖たらしめているのです。

今さらですが、この物語で信用できないのは家庭教師だけではありません。そもそもこの奇譚、実は彼女が僕たち読者に直接語っているのではないのです。

自身の体験を記した手記を、彼女は死ぬ前に、ダグラスという人物に委ねます。それから二十年後、ダグラスは友人の「私」にそれを読み聞かせます。さらに時が経ち、ダグラスの死に際して「私」にその原稿が託され、それを書き写したものを「私」が我々読者に伝えるという、実に念の入った構造なのです。

「私」はなぜ、ダグラスから託された原稿をわざわざ「書き写した」のでしょう。そもそもダグラス本人が読み聞かせていたものだって、体験者の女性の書いたオリジナルなのか、甚だ怪しいものです。いったい誰が、何を語っているのか。疑えば疑うほど、真実はいよいよ闇に呑まれてゆく……

明確な答えの出ないものを延々と考え続ける機会は、昨今、めっきり少なくなったように思います。あらゆる情報を最速で、最適解として求めることに慣れきっている僕たちの凝り固まった頭をほぐしてくれる不朽の名作――ヘンリー・ジェイムズ「ねじの回転」を、よろしければ読んでみてください。

それでは。

 


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#67 ジェームズ・ケイン 『郵便配達は二度ベルを鳴らす』 ~自己受容と自由~

「おすすめ文学 ~本たちとの出会い~」

第67回目。ほんの10分かそこら留守にしている間に、不在票が郵便受けに入っていた。これを運命の悪戯と呼ぶにはいささか詩的要素に乏しい――などと言っている場合ではなく、ただただ配達員の方に申し訳なく思います。忙しい中、何度ベルを鳴らしただろう。そんなとき、ふと頭に浮かんだ小説をご紹介いたします。

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#67 ジェームズ・ケイン 『郵便配達は二度ベルを鳴らす』 ~自己受容と自由~

アメリカの作家ジェームズ・ケインJames Cain, 1892-1977)の代表作とされる長編小説で、1934年に発表された「郵便配達は二度ベルを鳴らすThe Postman Always Rings Twice。ハードボイルド小説の萌芽期に生まれた名作の一つとして、今日まで読み継がれています。実は作中で郵便配達人がいっさい登場しないのも、ハードボイルドの趣というやつでしょうね。

出典:ジェームス・ケイン作/田中西二郎訳 『郵便配達は二度ベルを鳴らす』 新潮文庫, 昭和55年第26刷

 

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流れ者のフランクと、食堂の女房コーラ。罪を犯してでも結ばれようとする若い二人の、欲望と本能むきだしの血なまぐさい不倫劇……手短に説明してしまえばそんなストーリーが、ヘミングウェイやチャンドラーを彷彿とさせる超ドライな文体で綴られています。

あらすじだけを見ると、似た者同士がめぐり逢うべくしてめぐり逢い、共に破滅の一途をたどる物語に思えるかもしれません。でも実際は、二人は本質的には真逆のタイプで、だからこそ互いに強く惹かれ合ったのです。

「高校の美人コンテストに一等になったの、(・・・)ご褒美に、ハリウッドへ旅行させてもらったの。急行を降りたときは十五人もの男があたしの写真をとりに来たけど、二週間たったら、あたしは安料理屋ではたらいてたわ」

(p.21)

そう過去を振り返るコーラは、華やかな世界に憧れながらも「あたしなんか」と気後れし、映画女優になる夢も早々に諦め、やがて食堂を経営するギリシア人と結婚。良くも悪くも世間体を気にしており、ささやかな生活の安定に留まりながら、若くして己の人生の行き詰まりを傍観しています。

そんなコーラのもとに流れ着いた風来坊のフランクは、その日暮らしの不安定さの中にも自分の芯をしっかり持っています。放浪の人生を謳歌する人間らしく、他人に自分の価値や立場を定めてもらう必要のない、いわゆる承認欲求とは無縁の男――自分にはないものを持っている彼に、コーラが惹かれるのは必然でした。

「ほれたのよ。あんたがシャツ一枚もってなくっても、あたしはほれたわ。」

(p.24)

二人の恋は瞬く間に燃え上がり、邪魔者(コーラの夫)をひそかに殺害する計画へと移ります。そんな彼らの関係が最終的に破滅を迎えるのは、悪事に手を染めた結果という道義上の点を抜きにすれば、単に彼らの価値観の不一致が招いたものにすぎません。コーラの次の台詞にもあるように、それは初めから分かりきったことでした。

「あたしはジプシーみたいな、旅がらすの気分になれないの。いえ、ほかのどういう気持にもなれなくて、ただ、恥ずかしくってたまらないの、(・・・)」

(p.46)

「あんたはあたしと知りあってから、ずうっとあたしを風来坊にしようとして来たけど、そうはいかないわよ。前にも言ったでしょ、あたしは風来坊じゃないって。あたしは何かになりたいのよ。ふたりでここにいるの。どこへも行かないの。」

(p.141)

過ちを犯し、もう後戻りはできない状況にあっても、コーラはフランクとどこか別の土地に行こうとはせず、物理的にも精神的にも今まで自分が生きてきた(というか夫に築いてもらった)基盤の上で人生をやり直そうとします。そんな状況において、彼女の「何かになりたい」という言葉はとても印象的です。

その「何か」というひどく曖昧な認識、いつまで経っても自分では明言することのできないであろうその言葉は、彼女自身をさしおいて世の中に自分の居場所や価値を決めてもらおうとする現代人的なスタンスの表れです。

一方のフランクは、誰も自分を知らない世界に生きたいと願っています。それは彼がコーラと出逢う前からずっと変わることのなかった、流れ者としての本能でした。罪を犯したことで周囲の目を気にせずにはいられなくなった状況ではなおのこと、彼は誰にも自分を知られていない環境を渇望します。フランクは別の女性とも浮気をするのですが、

(・・・)この娘はおれが何者だか知らないことがわかったので、もう何も不足はなかった。(・・・)娘にはおれの名は何の意味もなかった。ああ、ちきしょう、まったく、あんなにほっとしたことはなかった。

(p.143)

この独白からも、彼が「何者でもない」自分をどれだけ強く望んでいたかが伝わってきます。周囲の疑いや好奇の目にさらされることは、もとよりフランクのような身軽さが命の人間には耐えがたい苦痛です。彼がコーラと辿る運命の末路は想像にかたくないかもしれませんが、具体的にどんな悲劇の結末が描かれるのか、皆さん是非とも作品を読んで確かめてみてください。

意図的にしろ成り行きにしろ、自分の行動や存在を世に広く知らしめ人々の記憶に留めることは、その時点で時が止まった自分を他人に印象づける重責を自発的に負うことに同じです。あらゆることが変わり続ける人生において、変わらない(いつまでも残る)自身の記録は、その長い一生において勲章にも足枷にもなり得ます。

フランクのように、他人に自分を知られることの欲求に対して自由でいられる人間こそが、本当の自由人かもしれません。個人的には、そういう人間は幸せだと思います。もちろん、その風任せの日々の行きつく先で世間を騒がす犯罪に手を染めてしまっては目も当てられません。とりわけ現代のようなデジタル社会においては。

余談ですが、フランクは写真にうつることすら好まない人間のような気がします。もし彼が今の時代に生きていたら、きっと誰よりも窮屈な思いをしただろうなと想像してしまいます。

それでは、今回はこの辺で失礼いたします。

 


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