ミスター・ベネット礼讃(おすすめ文学#62 番外編)

前回(おすすめ文学#62)、ジェーン・オースティン『自負と偏見』をご紹介しましたが、個性豊かな登場人物がたくさん出てくる中で、僕の敬愛するミスター・ベネットについて触れる機会があまりに少なく心残りであったので、ここに改めて書かせていただければと思います。

自負と偏見
自負と偏見 (新潮文庫)
(↑書名をタップ/クリックするとAmazonの商品ページにリンクできます。)※出典は前回記事に同じです。

 


ベネット氏は、主人公エリザベスを含む5人姉妹の父親です。彼女たちのうち何人かの未来の夫となる若者たちも含めた恋物語のメインキャラクターに自身の活躍の場を譲ることも多かった氏ですが、個人的にはもっとたくさん登場してもらいたかった魅力的な中年紳士なのです。

①【謎めいた性格! 女心を捉えて離さない】

ミスター・ベネットという人物は、抜け目のない機敏さと、ちょっぴり皮肉と、用心深さと、そして気まぐれとが、不思議に入り混った男だった。おかげで、夫婦生活二十三年の経験をもってしてさえ、いったいどんな人間なのか、奥様にもよくわからないのだった。

(p.9)

すべてを曝け出すことなく、適度に謎を残しておく男ほど、女性の心を掴んで離さぬものはありません。それは何も、出会ったばかりの恋人たちの専売特許ではないのです。結婚23年目を迎えた妻ミセス・ベネットをして未だ「よくわからない」と思わしめる氏の態度こそ、夫婦の絆の強固たる所以なのであります。

妻への言葉ひとつ取っても、褒めているのか、けなしているのか、その本心はまったく分かりません。娘たちよりお前の方が若い男たちにとって魅力的かもしれないよ、などと持ち上げてみたかと思えば、その直後、(お前は)かんじんの顔のほうがいっちまってるからな」と直球をぶつけてみたり(p.7)、緩急の使い分けが甚だしい色男なのです。

若い時の美貌をとうに失った古女房とはいえ、彼女に面と向かって「顔がいっちまってる」と無礼千万なことを口にしたのに、言われた方は特に傷ついた様子もない。これは夫婦の間に確かな信頼関係があり、互いに相手のことを適度に諦めているからこそ、始終平和に成り立つ会話なのです(実際のところは、ミセス・ベネットがほとんど相手の話を聞かない人だからです)。

② 【諦めこそ男の証! 背中で語るその半生】

人の話を聞かず、自分ばっかり半永久的に何かをしゃべり続ける妻。愛おしいながらも、時には鬱陶しく、世話の焼ける年頃の娘たち。家族の中で、男は自分だけ。自分が死ねば屋敷は限定相続の規定により甥の手に渡ってしまうという世知辛い状況はともかく――ああ、わたしに息子があったなら、時には酒でも酌み交わし、我が家の騒々しい女どもについて愚痴の一つもこぼしてみたい。

氏がそう思っていたかは知りませんし、そんなことは物語には書かれていません。氏は孤独な人です。その眼鏡にかなうマトモな話し相手は(年の割に老成した物言いをするエリザベスが辛うじて候補に挙がるものの)、家には一人もいないのです。妻など、まるで話にならない。結婚はみんごと失敗でした。若かりし頃の氏は、

若さと美貌と、それにたいてい若い美人がもっているに決っている表面(うわべ)だけの朗らかさに惹かれて、結婚してしまったのだった。ところが、その妻は、知能も弱く、心もさもしいとあっては、ほんとうの愛情は、結婚するとまもなくさめてしまった。(・・・)ただミスター・ベネットという人は、自分の無思慮からまねいた失望のかわりに、(・・・)その慰めを、ほかのいろいろな快楽に求めるような、そんな性質の男ではなかった。彼は、もっぱら田園、そして本を愛した。

(p.361)

氏は妻に対してではなく、自分自身に失望しました。しかしその心の隙間を世俗的な楽しみによって手っ取り早く埋めてしまうほど、氏は浅はかな男ではありません。浮気もせず、酒にも溺れず、ただひたすら美しい田舎の自然に身をゆだね、ひとり静かに書斎に引きこもる。己の人生の失敗の責任は、すべて己が墓場まで持ってゆく。そんな思いが、言葉少なな孤高の背中からにじみ出ているようではありませんか。

③【打算は無用! 情熱ひとつに誠実たれ】

確かに、氏個人の結婚生活は失敗だったかもしれない。しかし、希望は残されている。それはかけがえのない、何よりも尊い希望――他でもない、愛娘たちの幸せです。

物語も中盤にさしかかる頃、次女エリザベスはある男から求婚されるのですが、この男、聡明で自由闊達な彼女とはとうてい愛を深めることなどできようはずもない、世間に迎合しがちな、鈍感で考えの狭い、自惚れ屋の、どうにも人間的魅力に欠ける小物でした。ただ、経済的にはうま味のある将来性を備えている等の理由から、母親は何が何でも二人の結婚を取り決めてしまおうと躍起になります。

愛を取るか、生活の安定を取るか。何だかんだで世間並の生活をすることの重要性を理解している「大人」であれば、後者を選ぶことは決してまちがいではないと判断するでしょう。しかし、エリザベスは好きでもない、むしろ心底軽蔑している男と結ばれることを断固拒否し、そのせいで母親の機嫌を大いに損ねてしまいます。ここでベネット氏は、5人の愛娘の中でいちばんのお気に入りである彼女にこんなことを言うのです。

「これは、どうも困ったことになったわけだな、エリザベス。きょうからというもの、お前は両親のどちらかと、親子の縁を切らなきゃならないわけだからな。お母さんは、お前があの×××と結婚しなければ、もう二度とお前の顔を見るのもいやだというし、わたしはわたしで、お前がもしあんな男と結婚するようなら、こんどはこのわたしがね、もう二度とお前の顔など見るもんかと思っているのだから」

※求婚者の男の名は「×××」としています。
(p.179-180)

個人的に気に入らない男だから反対しているのではなく、当人が最初から愛してもいない相手との未来に幸せなど訪れないと、それだけのことを言っているのです。そうでなくても氏自身のように、最初は妻を愛していたとしても時が経てば冷えきってしまうことだってあります。しかし氏の結婚生活がどんなかたちであれ現在まで持続できているのは、失敗の責任をすべて自分で背負って生きているからです。

覚悟と責任感と、あとはいくらかの想像力さえあれば、その後のいかなる失敗も、もはや失敗ではなくなる。逆に、最初から気乗りがしないのに打算や妥協だけで先へ進もうとすれば、後々言い訳の余地も生まれ、いずれは自分で自分が許せなくなる時期が来て、今度こそ本当に取り返しのつかない失敗をする。結婚に踏み切る当初、氏は理性ではなく直観を重んじる人でしたが、それ自体はまったく問題ではなかったのです。

常識も、世間体も、義理も、礼節も、すべてどうでもよろしい。自分の気持ちひとつに素直に従った上で、その後のどのような結果をも自己責任で受け容れる覚悟を、氏は娘に求めたと言えましょう。そしてエリザベスは物語の終盤、彼女自身が心から愛する男と一緒になりたいという願いを、自ら父親に打ち明けます。

「つまり、(・・・)ぜひとも結婚したいというんだな。なるほど、彼は金持だよ。ジェーンよりは、いい服も着られるだろうし、りっぱな馬車を持てるかもしれない。だが、そんなもので、幸福になれると思うのかね?」

「お父様は、わたしのほうに気がないと思ってらっしゃる。でも、そのほかにも、なにか反対の理由がおありになるんですか?」

「いや、なんにもない。そりゃ、奴が高慢ちきで、まことに不愉快な男であることは、わたしたち、みんな知っている。だが、ほんとに、もしお前が好きだというのならばだな、そんなことは話にならん」

「ええ、好きなんですの。好きなんですのよ」 彼女は、涙をいっぱい浮かべて答えた。

(p.574)

エリザベスが富や社会的地位に目がくらんで男を選ぶような娘でないことは、先の一件で証明されています。それでも好きなんですの、好きなんですのよと全身全霊で訴える彼女の、その美しい涙ひとつを信頼しない愚かな父親が、この世のどこにいるというのか。

結局のところ、相手のことが好きで好きでどうしようもないということ以外に、結婚すべき理由などない。あってはならぬ。氏ははじめから、一貫してそう思っていたはずです。時とともに愛情が失われることもあるでしょうが、それならそれで、いろいろと角度を変えて物事を見てみるならば、その都度幸福などはいくらでも作り出せるものではありませんか。

【最後に】

氏を単なるロマンチスト経由の厭世家だと言ってしまえば、それまでです。しかし小生はいち読者として、氏の夷険一節、己の直観を信じどのような未来においても責任を負い、単なる結果論としての世俗的な人生選択の正解・不正解に一喜一憂する薄っぺらい人生を静かに否定する、そのゆるぎない態度に畏敬の念を抱くものであります。

あくまで余談、勝手な後日談の想像ですが、もし氏が妻ミセス・ベネットに先立たれた場合、彼は少しの皮肉も冗談もまじえることなく、ものすごく悲しむだろう思います。特に根拠はありませんが、読んでいて、なんとなくそう感じ、胸さえ痛くなります。

特定の登場人物への偏愛にまみれた、このような奇妙な感想文が皆さんのご参考になるとはとても思えませんが、改めまして、ジェーン・オースティン『自負と偏見』を、ぜひとも読んでみてください。

それでは。

 


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#62 オースティン 『自負と偏見』 ~障壁は心の中に~

「おすすめ文学 ~本たちとの出会い~」

第62回目。好きだったのに、思っていた人と違っていた。信じていたのに、裏切られた。いい人なんて、どこにもいないんじゃないか。だからと言ってもう二度と恋なんかしないと殻に閉じこもってしまうのは、やはりもったいない。誰目線でそんなことを言うのかと突っ込むのはご勘弁いただき、とにかく、恋に悩み愛に生きるすべての人に読んでほしい一冊です。

自負と偏見
自負と偏見/中野好夫訳 (新潮文庫)
(↑書名をタップ/クリックするとAmazonの商品ページにリンクできます。)※当記事の出典は中野好夫訳。絶版のようですが、おすすめです。

 

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#62 オースティン 『自負と偏見』 ~障壁は心の中に~

原題はPride and Prejudice――『高慢と偏見』とも訳される本作は、イギリスの作家ジェーン・オースティンJane Austen, 1775-1817)の長編小説です。何やらお堅いイメージのタイトルと、それなりの分厚さ(新潮文庫版の邦訳で約600ページ)から、なかなか手が出ないという方もいらっしゃるかもしれませんが、ご心配なく。時代を超えて共感できる人間観察の描写に、ユーモアあふれる生き生きとした会話がふんだんに盛り込まれた、奥深くも読みやすい恋愛小説です。

出典:オースティン作/中野好夫訳 『自負と偏見』 新潮文庫,平成17年第12刷

 

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舞台は18世紀末頃のイギリス。ハーフォードシャーはロンボーンという田舎町に住むベネット一家は、年頃の娘ばかり5人もいる賑やかな大家族。母親のミセス・ベネット――見栄っ張りで、おしゃべりとゴシップが大好きな愛すべき田舎のおばちゃん――は、娘たちを適齢期のうちに嫁がせることを唯一の使命とばかり、日々あれこれと気を揉んでいました。

長女のジェーンは無類のお人よしで奥手だが、器量は姉妹の中で一番。主人公で次女のエリザベスリジー)は頭の回転が速く、やや斜に構えるところは父親似、活発で好奇心旺盛なところは母親ゆずり。三女メアリーは本の虫で、目下色恋には興味なし。四女キャサリンキティ)と五女リディアは、駐屯地の若いイケメン軍人たちをアイドルか何かのように追っかけている、いわゆる「おきゃん」。父親のミスター・ベネットに言わせると、

「(・・・)いずれを見ても山家育ち。バカで、無学で、そんじょそこいらの娘たちと、どこに選ぶところがある? そこへゆくと、リジーの奴は、ほかの連中よりは、たしかに頭のいいところがある」

(p.8)

我が子に対してずいぶんな評価ですが、そこは毒舌と皮肉を愛する英国紳士。彼なりに5人の娘を、特にエリザベスをとても可愛がっているのです。「頭が悪くて、物知らずで、しかもひどいお天気屋」である妻(p.9)を筆頭に、個性豊かな女たちに度々うんざりさせられながらも、ミスター・ベネットの家庭はまずまず平和なのでした。

そんな折、近所に引っ越してきたのがミスター・ビングリーという若い紳士。お金持ちでハンサム、社交的で人あたりもよく、しかも独身という、願ったり叶ったりの人物です。町の舞踏会(娘たちにとっての出会いの場)では、ビングリーはロンドンから友人や身内も引き連れて現れ、会場は大盛り上がり。そのロンドン組の中でも、ビングリー以上に注目を浴びたのが、彼の親友であるミスター・ダーシー

背の高い見事な骨柄、ととのった眼鼻立ち、上品な物腰、おまけに彼が入ってきて、ものの五分とたたないうちに会場全体に広まってしまった、なんでも年収一万ポンドはある金持だという噂が、たちまち満座の注意を彼ひとりに集めてしまった。

(p.16)

これは町の娘たちが放っておかぬ、と思いきやこのミスター・ダーシー、男っぷりはビングリーと双璧を成すも、性格はまるで反対。不愛想で、気位が異様に高く、洗練された都会人たる上から目線の態度がいちいち鼻につく(田舎の人たちはこういうのにすごく敏感)ものだから、皆からたちまち嫌われます。ほら、あの子(エリザベス)なんか可愛いじゃないか、一緒に踊ってみたらどうだい、と親友ビングリーから勧められても、

「まあ相当じゃあるねえ。だが、とても心を動かされるほどのもんじゃない。おまけに、ほかの男から無視されているような女に、いまさら僕が箔をつけてやる気は、いまのところないねえ。(・・・)」

(p.18)

本人に聞こえるところで、こう言い放つ始末。姉のジェーンとビングリーがさっそく相思相愛のいい雰囲気を見せている中で、エリザベスのダーシーに対する第一印象は最悪でした。そのくせ、後にダーシーの方で彼女に惹かれていくことになるのですが、「いくら好きでも、家柄ちがいということがあれば、やはり理性的に考えて、そう簡単に結ばれるわけにはいかぬという彼の結婚観」が邪魔をします(p.294)。

もっとも、家柄や財力、教養の高さなどがつり合った相手でなければ結婚の対象にはならないという考えは、当時としては普通でした。そして、愛の告白は即プロポーズを意味するという事情からしても、初対面からほぼ一貫していたダーシーのエリザベスに対する冷ややかな態度も、むしろ彼の誠実な人柄の現れと言えなくもないわけです。

時代の価値観に加えて、女には女の、男には男の自負と偏見があり、それらがお互いの本質を見抜く、あるいは尊重することの障壁となるのは、今の世も根本的には変わりません。エリザベスを取り巻く恋愛は、ダーシーの他にも登場する男たちによっていよいよ山場を迎えるわけですが、フィクションの世界はともかく、現実の恋愛においても、果たしてどの男が「本物」で、どいつが「偽物」なのか、見極めるはとても難しいですよね。

つまり、わたしはね、この世でほんとうに愛せる人間なんて、ほとんどいないと思うの。まして、ああ、りっぱだと思う人なんて、いよいよいないわ。世間というものが、知れば知るほど、いやになっちゃったのよ。人間なんて、ほんとうにわからないものねえ。いくら表面りっぱそうに見えたり、もっともらしく見えたりしたからって、あてになんかなるものかって気持が、日に増して強くなるの。

(p.214)

エリザベスもこんなことをぼやいていますが、もとより二十歳そこそこで「世間を知る」などという芸当ができるはずもありません。彼女自身、なまじ頭が良すぎるが故に、経験に先回りして抱いた偏見のせいで危うく真実を見失いそうになるのですが、それでも相手に(そして自分自身にも)最後まで向き合うことで、幸せを手に入れるのです。

恋に悩む人も、これから悩む予定の人も、ジェーン・オースティン『自負と偏見』を、是非とも読んでみてください。それでは。

追記:本記事(おすすめ文学#62)番外編もよろしければどうぞ。

 


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