#36 マイヤー=フェルスター 『アルト=ハイデルベルク』 ~僕たちは青春だ~

「おすすめ文学 ~本たちとの出会い~」

第36回目。先日の寒波に見舞われ、雪かきをして筋肉痛になりました。今から20年ほど前、瀬戸内地方に住む後輩が「(新潟は)毎日のように雪が見れて、ロマンチックでうらやましいっす」と言っていたのをふと思い出します。現場を知らぬ奴めと内心で小馬鹿にしたものですが、今となっては彼のその屈託のない言葉(と、月並みの馬鹿をやらかした10代の日々)が、ただひたすら懐かしく思える――そんな感じの本です、今回ご紹介するのは(笑)。

アルト=ハイデルベルク (岩波文庫)
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#36 マイヤー=フェルスター 『アルト=ハイデルベルク』 ~僕たちは青春だ~

ドイツの作家マイヤー=フェルスターWilhelm Meyer-Förster, 1862-1934)の代表作。アルト(alt)は「古い」、ハイデルベルク(Heidelberg)はドイツの都市名です。すなわち、「古き良き(懐かしき)ハイデルベルク」――19世紀後半のドイツ帝国成立期当時の活気に満ちた大学都市ハイデルベルクを舞台に繰り広げられる若者たちの青春と、その終わりを描いた戯曲です。

出典:マイヤー=フェルスター作/丸山匠 訳 『アルト=ハイデルベルク』 岩波文庫, 1990年第4刷

 

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主人公のカール・ハインリヒは、ザクセン・カールスブルク公国の皇太子。両親を亡くした彼は、現大公である叔父のもと、次期大公となるべく帝王学を学び育ちました。古めかしく陰気な城から出たことがなく、世間を知らないまま20歳を迎えた皇太子ですが、近年の大公国の慣例に従い、1年間の大学留学をすることになりました。

もちろんセレブの王子様ですから、単身というわけにはいきません。彼にお供して留学先のハイデルベルクに赴くのは、長年彼の教育係を務めてきたユットナー博士と、内侍のルッツ。若者は勉学一辺倒ではなく、たくさん遊んで青春を謳歌してなんぼと考えるユットナー博士は、宮廷の秩序と規律を重んじる堅物のルッツをはじめとした城の大半の人間からは疎まれる存在でした。

けれども皇太子はユットナー博士のことを「じいさん先生」と親しみを込めて呼び、博士もまた自分の教え子を「カール・ハインツ」と愛称で呼びます。人間味が失われている殺伐とした雰囲気の城中で、二人はお互いを心から信頼する(精神的な意味においては親子と言ってもいい)間柄なのです。そんなじいさん先生いわく、留学先のハイデルベルクという場所は、

あれは、そう、シャンペンを飲むようなものだ――いやちがう、ばかばかしい、シャンペンどころか、バーデンのワイン、五月ワイン、それに加えて女の子たちとばかさわぎの学生を足したようなものなんだよ。

(p.26)

そんなすばらしい環境に王子を放り込むと決めておきながら、一方でやれ学習計画書だの、やれ日課表だのと、厳格で退屈きわまるルールを押し付けようとする宮廷の方針を、ユットナー博士は「ばかばかしい」と言っているわけです。

かくしてハイデルベルクでの学生生活は始まり、カール・ハインツは気のいい学生連中と友達になり、そして下宿先で働くケーティという女の子と恋仲になるのでした。

下宿の1階の居酒屋のアイドル的存在であるケーティもまた、両親を亡くし、故郷のオーストリアに許婚がいるにもかかわらず家を飛び出してきた、いわば青春時代の「自分探し」のような状況にありました。

いずれは王位を継ぐカール・ハインツ、故郷に戻り結婚するケーティ――それぞれのレールに敷かれた陳腐な未来をよそに、若い二人は全力で今というこの瞬間をめいっぱい楽しみ生きるのです。

いま、ぼくたちは若いんだ、ケーティ。ぼくたちは青春なんだ。(・・・)――笑ってくれ、ケーティ。そうだ、どえらいことをやらかすんだ。ぼくたちで、いまだかつてないような――ふたりで世界を一周しよう――せめてパリぐらいへは。

(p.89-90)

パリでええんかい(笑)と思ってしまいますが、彼らは自分たちを縛る運命から、彼らなりの精一杯の美しい「逃避」を試みているわけです。大人の常識や社会のルールに逆らうことが唯一の道徳規範と言っても過言ではない、そんな若者の不安定で甘酸っぱい気持ちは、今なお青春時代の思い出を大切にしているほとんどの大人たちにとって共感できるところではないでしょうか。

待ち受ける未来は、思いのほか早くにやってきます。大公である叔父が病に倒れ、カール・ハインツは規定の留学期間を半分以上も残したまま公国に戻るのです。彼が再びハイデルベルクを訪れる日は来るのか、そして愛しいケーティとの再会を果たすことはできるのか。青春の1ページが今まさに失われようとしているこの場面で、健康を損ねて同行できないユットナー博士が教え子に託した言葉が心に響きます。

いつまでも若くあってほしい。カール・ハインツ。わたしがきみに望むのはそれだけだ。いまのきみのままでいてくれたまえ。(・・・)断固戦うんだ。いつまでも人間のままでいるんだ。カール・ハインツ、若々しい心を持った人間で――

(p.102-103)

若々しい心。年を重ねれば重ねるほどに、それを維持するのがどれほど難しいことか、おっさんの僕も分かっているつもりです。楽しかった青春時代そのものは、二度と戻ることはない。二度と戻らないものと向き合い、心の中で大切にし続けていくことは、生きていくうえで中々に苦しく、勇気がいることだとも思います。

話をいちばん最初まで戻して――新潟に住んでいると、雪かきの苦労から目をそらすことはできません。けれども、冬中うんざりするほど降り続けるその雪を「ロマンチック」だと感じて生きていけたなら。……あの時の後輩の言葉が、懐かしい思い出と共に胸によみがえってくる今日この頃でした。

ところで、太宰治も「(アルト)ハイデルベルヒ」という短編を残しています。本作品へのオマージュ的な位置づけになるのでしょうか、楽しかった(そして二度と戻らない)青春時代への懐古というテーマで共通していますので、興味のある方はぜひぜひ読み比べてみてください(下記の作品集に収録されています)。

新樹の言葉 (新潮文庫)
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それでは、今日はこれにて。

 


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#35 ルナアル 『にんじん』 ~雪の下に愛を~

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第35回目。寒くなってきましたね、風邪など引いていませんか。この前、実家で温かいポトフを食べさせてもらいました。大きく切ったにんじんが、僕の皿にだけごろごろと盛られていました。にんじんが嫌いな母は、変わりないようでした(笑)。

にんじん (岩波文庫)
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#35 ルナアル 『にんじん』 ~雪に下に愛を~

フランスの作家ルナアル (Jules Renard, 1864~1910) の代表作にんじん (Poil de Carotte)』。髪の毛が赤く、そばかすだらけの顔をしているため家族全員から「にんじん」とあだ名で呼ばれている少年の物語です。『赤毛のアン』の男の子版と言えなくもないのですが、こちら「にんじん」一家はシニカルで荒んだ雰囲気の中、血縁者同士の愛情もほとんど感じさせない――それだけに、妙にリアルな家族像の裏側を考えさせられる作品です。

出典:ルナアル作/岸田国士訳 『にんじん』岩波文庫, 2007年第78刷

 

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ルピック夫妻には、三人の子どもがいました。長女のエルネスチイヌ、長男のフェリックス、そして末っ子の「にんじん」。物語を読み進めていくうちに本名が出てくるのかなと思っていましたが、結局彼は最後まで「にんじん」でした。家族の中で彼だけが浮いた存在であることは、ルピック家のアルバムを見ても分かります↓

姉のエルネスチイヌと兄貴のフェリックスは、立ったり、腰かけたり、他処行きの着物を着たり、半分裸だったり、笑ったり、(・・・)

「で、にんじんは?」

「これのはね、ごく小さな時のがあったんですけれど……」と、ルピック夫人は答えるのである――「そりゃ可愛く撮れてるもんですから、みんな持ってかれてしまったんですよ。だから、一つも手許には残ってないんです」

ほんとのところは、未だ嘗て、にんじんのは撮った例しがないのだ。

(p. 244-245)

いまだかつて撮ったためしがない。……撮ったけれど捨てたという話なら、まだしも情が感じられます。

意地悪な想像ですが、ちょろちょろと動き回る末の子が入ってこないように他の子どもたちだけを写真に収めるには、親はそれ相応の「労力」を傾けてシャッターを切ったことでしょう。これなら『人間失格』の子ども時代の大庭葉蔵みたいに、一人だけ奇妙に笑っている異質な存在だとしても、家族と一緒に並んで写っているだけ上等というものです。

それでは家族全員が寄ってたかってにんじんをいじめているのかと言うと、少し違います。

父親や姉などはいくらか同情を示すこともあり(基本的には我関せずの姿勢ですが)、兄貴のフェリックスはずる賢くて傲慢なところもありますが、自分が常に優位に立っているのでわざわざ弟を目の敵にはしません――それをしているのは、母親のルピック夫人なのです。

ルピック夫人は、体罰はもちろんのこと、他の二人の子どもの嫌がる仕事をにんじんに押し付けたり、彼の寝室用のトイレ壷をわざと隠したりと、陰湿ないじめを繰り返しています。おそらくは物心ついた時からこうだったのでしょう、表立って反抗することのできないにんじんには、自分を押し殺して他人の顔色をうかがう卑屈な態度が染み付いていたのです。

彼は固く禁じられてでもいるように、決してお代りをしない。一度よそった分だけで満足しているらしい。だが、もっとあげようといえば、それは貰うのである。飲みものなしで、彼は、嫌いな米を頬張る。ルピック夫人の御機嫌を取るつもりである。一家のうちで、たった一人、彼女だけは米が大好きなのである。

(p. 88-89)

自分をいじめる母親の機嫌を取ってでも「いい子」を演じるにんじん。しかし心の底では、他の誰でもなく、やはり母親の愛情を欲しているのだということも伝わってきます。そんな愛憎入り混じった泥沼の母子関係は、物語の最後まで続くのです。進展があるとすれば、物語の終盤、にんじんが母親のことを、

「おれはお前が大嫌いなんだ!」

(p. 242)

と大声で叫ぶところでしょうか(本人の前ではありませんが)。これによって彼が母親への心的依存を完全に断ち切ることができたのかといえば、そうではないと思います。母親との関係はこれからも変わらない、けれども今後はそのことに真っ向から向き合っていこうという、にんじんの決意と悲しみの叫びのように、僕には感じられました。

にんじんの父親をはじめ、時にはにんじんの味方になってくれる人間でも、結局のところ彼らはみな自分本位で、自分の立場や状況を犠牲にしてまで他の家族の人間を助けようとはしません。同じ屋根の下に暮らす家族とはいえ、人はみな孤独なのだということも、物語のテーマの一つになっているように思います。

最後に――雪の下で育った甘くて栄養価の高い人参を、ふと思いました。愛情の冷え切った家庭で育ったにんじんは、人の心の痛みを身をもって体験してきました。けれどもいつの日か、その痛みを自身のやさしさと強さに変えて、彼が将来築くかもしれない家庭にたくさんの明るい愛情をそそぐこともまた、非現実的な話ではないわけです。

ルナアル『にんじん』を、よろしければ読んでみてください。

それでは。

 


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