#32 フーケー 『水妖記(ウンディーネ)』 ~幸せの涙~

「おすすめ文学 ~本たちとの出会い~」

32回目。悲しいことや辛いこと、世の中の出来事は人々の心から潤いを奪い去り、この夏も終わろうとしています。時代に流される急ぎ足を少しだけゆるめて、清らかな水の妖精の物語に思いを馳せてみませんか。

水妖記―ウンディーネ (岩波文庫)
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#32 フーケー 『水妖記(ウンディーネ)』 ~幸せの涙~

ドイツのロマン派作家フーケーFouqué, 1777-1843)の代表作。美しい少女の姿をした水の精ウンディーネが、人間の若者と結ばれ、人間の世界にはびこる気まぐれや不誠実といった側面を体験していきながらも自身は最後まで純愛を貫く、せつなくも美しい物語です。幻想的な雰囲気の中にも、僕たち人間が実人生において大切にすべき心を深く思い出させてくれる作品です。

出典:フーケー作/柴田治三郎訳 『水妖記(ウンディーネ)』 岩波文庫、1983年第21刷

 

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森の奥の湖畔にひっそりと暮らす、善良な老夫婦。彼らには可愛らしい養女がいました――名はウンディーネ、水の妖精である彼女は、人間の女の子と外見は少しも変わりません。十五年前に老夫婦の小屋の前にびしょぬれで立っているところを拾われて以来、彼らの娘として大切に育てられました。

もうすぐ十八になるウンディーネは、森をさまよい老夫婦の家に辿り着いた若い騎士フルトブラントと出会い、二人は結ばれます。魂を持たない水の精は人間と結ばれることで魂を得て、人間と同じように愛にまつわる様々な感情に目覚めることができるのです。婚礼の翌日、ウンディーネは夫に自分の正体を打ち明けました。

(・・・)私たちに魂の得られる道は、あなたがた人間の一人と愛でもってぴったり結びつくほかないのです。私にはもう魂があります。言葉で言いあらわすことができないほど愛しいあなたのおかげで魂が得られたのです。たといあなたが私を一生みじめな目に会わせたとしても、私はあなたのことをありがたかったと思うでしょう。

(p.69)

フルトブラントは、妻が水の精だと知らされてもそれを拒むことなく、彼女への生涯の愛を改めて誓いました。

二人がいつまでも幸せであってほしいと願う読者は僕だけではないでしょう。しかし老夫婦の小屋を出て、城での生活をはじめようとする二人の前に現れたのは、以前からフルトブラントに思いを寄せていたベルタルダという地方有力者の娘でした。……人間が誓う愛と誠の、なんと脆いことか。それを僕たち読者は、これより先の物語で知ることになるのです。

人間と同じ魂を得たウンディーネを待ち受けていたのは、いつの世も人間たちが繰り広げる愛の悲劇。フルトブラントとベルタルダが人としての心の弱さや醜さをさらけ出すほどに、ウンディーネの夫に対するひたむきな愛情とベルタルダに対する誠実な友情は、切ないほどに純粋な輝きを増してゆくのです。ウンディーネは、決して自分の運命を悔やむことはありませんでした。

愛の喜びと愛の悲しみは、たがいによく似た優しい姿の、親しい姉妹の仲であって、どんな力もそれを割くことができない(・・・)。涙の中からもほほえみは湧いて来ますし、ほほえみは潜んだ涙を誘い出すこともありますのに。

(p.106-7)

魂を持つということは、傷つく心を持つということ。そしてその苦しみや悲しみの先にしか感じることのできない幸せが、確かにある。それこそが、水の精だった自分が選んだ人間としての運命なのだと、彼女は最初から分かっていたのかもしれませんね。

そして物語の終わりは、人間としてではなく、水の精として彼女が背負っていたとある宿命(掟)によって、静かに幕を閉じます――その時に僕たち読者が心で流す涙は、決して悲しさだけに満ちたものではないと思うのです。

これは幸福の涙です。誠のある魂が胸の中に生きている者にとっては、どんなことも幸福になりますもの。

(p.138-9)

フーケー『水妖記(ウンディーネ)』、是非とも読んでみてください。

それでは。

 


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#28 ヘミングウェイ 『ギャンブラーと尼僧とラジオ』 ~聞こえるか、聞こえないかの慰め~

「おすすめ文学 ~本たちとの出会い~」

28回目。ヘミングウェイの作品は二十代の頃に一通り読んでいて、自分の中で好きな作品がほぼ固まっていたつもりだったのですが、やっぱり年を重ねると変わるものですね。当時は1、2回読んで「?」だった作品の面白さが少しだけ分かった気がしたので、今回はその一つをご紹介したいと思います。

勝者に報酬はない・キリマンジャロの雪: ヘミングウェイ全短編〈2〉 (新潮文庫)
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#28 ヘミングウェイ 『ギャンブラーと尼僧とラジオ』 ~聞こえるか、聞こえないかの慰め~

「ギャンブラーと尼僧とラジオ (The Gambler, the Nun, and the Radio, 1933)は、ヘミングウェイが三十代の時に書いた短編の一つです。はじめて読んだときは、世界恐慌下の1930年代当時の世相を反映させたような重苦しい雰囲気が作品の端々ににじみ出ていて、正直取っつきにくいなと思ったものです。

その印象は、今読んでみてもあまり変わることはありません。でも、その世界に生きる登場人物たちの抱く思想に僕自身いくらかは理解が及ぶようになったことと、登場人物たちの繰り広げる人間模様にある種の救い(温かみ)を感じられたことは、再読して得たうれしい発見でした。

出典:高見浩 訳 『勝者に報酬はない・キリマンジャロの雪 ―ヘミングウェイ全短編2―』 新潮文庫,平成15年第9刷

 

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物語の舞台は病院。落馬して足を折ったフレイザー氏、拳銃で撃たれ重傷を負ったメキシコ人ギャンブラーのカイェターノ、病院に出入りする尼僧のシスター・セシリアが、主な登場人物です。

3人とも、言わばそれぞれ孤独な人たちです。

神経衰弱のフレイザー氏は、一晩中一人きりの病室でラジオを聞いています。カイェターノには同郷の友人が一人もおらず、死ぬかもしれない大怪我なのに誰にも見舞いに来てもらえない。陽気なシスター・セシリアは、彼女をよく知らない人からは「すこし左巻き」と思われています(p. 196)。

そんな彼らの個性的なキャラに注目して読むのも良いのですが、僕が面白いと思ったのは、登場人物たちを取り巻く状況において「彼らに不足しているものが何らかの形で補われている」という構図です。

たとえば、友達のいないカイェターノには、彼に同情したシスター・セシリアの計らいでメキシコ人の見舞客が(サクラみたいなものですが)寄こされ、礼拝堂でのお祈りが忙しくてフットボールのラジオ中継が聞けない彼女のためには、フレイザー氏が看護婦を介して試合経過を逐一伝えてやるのです。

足を怪我して移動することのできないフレイザー氏は、ベッドの中で各局のラジオ放送を聞いて、遠く離れた現地の情景を頭に思い描きます。

午前六時ともなると、ミネアポリスの、朝の陽気なミュージシャンたちの放送が聞こえる。(・・・)フレイザー氏は朝の陽気なミュージシャンたちがスタジオに到着する様子を思い浮かべるのが好きだった。(・・・)フレイザー氏はこれまでミネアポリスにいったことはないし、今後もきっといくことはないだろう、と信じていた。が、あれほど早い朝の様子がどんなものか、想像はついたのである。

(p. 186-87)

自分に足りないものや近くにないものがそっくりそのままの形で補われるわけではないにしても、何かしらの代替的な救済がなされる。それはフレイザー氏が真夜中に聞く音量をしぼったラジオのように、耳を澄ませば、生きることの希望のような音がかすかに聞こえてくる。そんな感じでしょうか。

たとえ彼ら登場人物たちが心底満たされることはないにしても、それをしみじみと噛みしめる程度には、人生に望みを託すことはできるのかもしれませんね。それが人生なのだと、ヘミングウェイが考えていたかどうかは分かりませんが。

「ギャンブラーと尼僧とラジオ」 、ぜひとも読んでみてください。

それでは、今日はこの辺で<(_ _)>

 


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