#22 フィリップ 『ビュビュ・ド・モンパルナス』 ~夜の果てに~

「おすすめ文学 ~本たちとの出会い~」

22回目。フランスの作家シャルル=ルイ・フィリップ (Charles-Louis Philippe, 1874-1909) の作品をご紹介します。都会の底辺で暮らす貧しい人々のありのままの生活を描いたフィリップの作品を、今の時代に生きる人たちにも知ってもらえれば幸いです。

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#22 フィリップ 『ビュビュ・ド・モンパルナス』 ~夜の果てに~

『ビュビュ・ド・モンパルナス (Bubu de Montparnasse, 1901) は、フィリップが二十七歳の時に発表した作品です。それから十年と経たずに、彼は三十代半ばの若さでこの世を去りました。華やかな都パリで、貧しい勤め人として生活しながら執筆活動を行っていた作家フィリップ。その人生の終わりに僕自身の年齢が並んだ今、彼の作品にますます関心が高まってきました。

出典:フィリップ作/淀野隆三 訳 『ビュビュ・ド・モンパルナス』 岩波文庫, 昭和42年第7刷

 

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題名の「ビュビュ」というのは、登場人物の一人であるモーリスという若者のあだ名です。彼はいわゆる街のごろつきで、自分は働かずに売春婦のベルト・メテニエの「ヒモ」になって、彼女の稼ぎで食わせてもらっている男です。

タイトルに名前が出てくるあたり、主人公の一人と言えばそうなのかもしれませんが、僕はこのモーリスという男が(特に結末において)個人的にどうしても好きになれないので、これ以上彼のことには触れません。ご了承ください。

物語のテーマは「都会で生きる貧しい若者たち」でしょうか。そこにロマンスの要素を見るなら、主人公は先ほどの売春婦ベルトと、彼女と夜の街で出会ったピエール・アルディという青年の二人、ということになります。

製図工としてパリで働き始めたばかりの、純朴で世間知らずの青年ピエール。夜の女として生きながらも、まだあどけなさの残る黒髪の少女ベルト――そんな二人が、都会の底辺の生活に渦巻く欲望、貧困、病気といった共通の苦しみの中で、身も心もボロボロになりながら絆を深めてゆく……そんなお話です。

ベルトは街娼としての自分の生活のいろんなことをあれこれと考えていた。今晩はピエールを取ってから、もうひとり稼がねばならない。(・・・)明後日は衣装代をこさえるために、次の日は帽子を買うために稼ぐわけだが、そうこうしているうち、靴がまた駄目になってしまうだろう。

(p. 45)

衣服のこと一つとっても、ベルトは女の子として純粋にファッションを楽しむ以前に、まず夜の女として稼ぐために自分の身なりを気遣わなくてはなりません。手元に残るわずかなお金は家賃と食費にすべて消える。こういう血の通った生活苦の描写が、作品には無数に出てきます。

そして貧しい生活のドラマの果てに待っているのは、ハッピーエンドではありません。その結末に僕自身、何度読んでも心を痛めてしまいます。けれども、これはこれで意義のある終わりという見方も出来なくはないと思うのです。

――苦しみを乗り越えたその先に待っているのは、幸せか、不幸か。

そのことについて結論を出すのは、今回は難しいと思います。でも、同じ痛みを分かち合ってくれる人との出会いだったり、その人との時間の共有だったり、それが結果としてほんのわずかなひと時の出来事であったとしても、何よりも愛おしくて大切なものだと信じさせてくれる……僕にとって、『ビュビュ・ド・モンパルナス』はそんな作品なのです。

よろしければ、読んでみてください。それでは。

 


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#20 ゴールズワージー 『林檎の樹』 ~春の追憶~

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20回目。春にぴったりの物語をひとつ。心に添える一輪の花となりますように。

林檎の樹(新潮文庫)
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#20 ゴールズワージー 『林檎の樹』 ~春の追憶~

今回はイギリスの小説家ゴールズワージーJohn Galsworthy, 1867-1933)の作品から『林檎の樹 (原題:The Apple Tree)をご紹介します。春という季節に繰り広げられる若い男女の恋、その甘く切ないフィーリングに自然の情景描写をふんだんに織り込んだ、味わい深い中編小説です。

出典:ゴールズワージー 著/渡辺万里 訳 『林檎の樹』 新潮文庫、平成17年第76刷

 

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舞台はイングランド南西部のデボン州、銀婚式(結婚25周年)を迎えたアシャースト夫妻が、荒原のはずれの田舎道を車で通りがかります。二人の思い出の地に向かうドライブの途中でした。

ひと休みするため車を停め、春の陽のふりそそぐ新緑の木立の中でおだやかなひとときを過ごす二人。幸福そのものに描かれる中年夫婦ですが、そこで夫のフランク・アシャーストは、ひとり妙に心が騒ぐのを感じています。

彼は今日、この銀婚式ともあろう日に、ふと、なにか切ない憧れにかられた――が、それが何にであるか解らなかった。

(p. 7)

こうして物語のメインとなる回想シーン、26年前の若きフランク・アシャーストの青春が語られるのです。

が、ここまで紹介文を書いていて僕自身、妙な胸騒ぎを覚えました。……というのもこの作品、部分的にでもあらすじを語ろうとすると急にネタバレを起こしてしまいそうで、なかなか難しいのです。

物語の続きは是非とも皆さんで読んでいただければと思いますので、あとは作品の内容にあまり触れない程度に、僕がこの物語を読んで思ったことについて書いておこうと思います。

さて、恋する女性の描写、というか女性の美しさそのものをどう表現するかということについて、『林檎の樹』のヒロインであるミーガン・デイヴィットという十七歳の少女は、まさに僕にとっての一つのお手本だったりします。

初登場のシーンでの彼女の描写は、意外にもファッションからはじまるのです。

風が彼女の脚に黒い羅紗のスカートをからませ、形のくずれた孔雀色の大黒帽をなぶった。着古した灰色のブラウスは少し綻びていたし、靴も破れていた。彼女の小さな両手は赤く荒れていて、首筋は日焼けして小麦色だった。

(p. 12)

これは単に粗末な衣服とか、化粧っ気のなさとか、そういう田舎娘の素朴な魅力を観念的に示しているのとはちがうと思います。ミーガンは農場で働く娘なので、自然と共に日々を生きている人間の証として、彼女の衣服は汚れ、手は荒れ、肌は日焼けをしているわけです。

そこに少しも人為的な装飾がなく、ありのままの姿で描かれる彼女こそが魅力的なんだと思います。

作者ゴールズワージーが自然の情景描写(花の香りとか、草木のざわめきとか、月の神秘的なひかりとか)をこれでもかと使ってミーガンの心身の美しさを際立たせる意図が、自分なりに分かるような気がします。

彼女こそ純真な自然の美しさそのままであり、あの生々した花のようにこの春の夜の一部だというのなら、どうしてその彼女の与えるすべてを奪わずにいられようか――

(p. 62)

彼女に恋する男にこうまで言わせるほど、自然の魅力をまとった女性とは美しいものなのでしょうか。

果てしなくロマンチック、それでいてどこか背徳的な情調も感じさせる……そんな春の恋の行方を追って、ゴールズワージー『林檎の樹』を、是非とも読んでみてください。

それでは、今日はこれにて失礼します。

 


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