#64 モーパッサン 『メゾン テリエ』 ~大人たちの涙~

「おすすめ文学 ~本たちとの出会い~」

第64回目。若かったあの頃は、今と違って大した悩みも苦労もなく、すべてが輝いていた。で、もう一度あの頃に戻りたいかと訊かれると、実はそんなこともない。そう思える人は、今の自分に誇りを持って生きている素敵な大人にちがいありません。そんな皆さまに願わくは僕自身もあやかりたく(笑)、時々この作品を読み返しています。

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#64 モーパッサン 『メゾン テリエ』 ~大人たちの涙~

当ブログで既に何度か取り上げているモーパッサンGuy de Maupassant, 1850-93)ですが、今回は彼の中編小説『メゾン テリエLa Maison Tellierをご紹介します。今を笑顔で生きるためにこそ、二度と戻らぬ美しき日々に、時には思いきり涙する――そんな大人の人生の哀歓を、素朴な人間味で包み込んで語ってくれる名作です。

出典:モーパッサン作/河盛好蔵訳 『メゾン テリエ 他三編』 岩波文庫,1980年第18刷

 

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フランスはノルマンディ地方の港町フェカンにある、一軒の娼家「メゾン・テリエ」。1階が「一種の曖昧カフェー」、2階がサロンという意味深なつくりになっていて、夜の楽しみを求める町の男たちの憩いの場として愛されてきました。

経営者のマダムテリエ夫人)は、店で働く個性豊かな5人の女性たちの母親代わりとして、皆から慕われる存在でした。彼女は聡明で品格に満ちた魅力的な未亡人で、町のお偉い旦那がたからも一目置かれていました。マダムとの友情を勝ち得ることは、彼らにとって誇らしいステータスでさえあったのです。

船問屋、乾魚屋、水夫、保険屋、銀行家、収税官、判事、元町長まで…あらゆる職業・地位の男たちも、夜の女性たちの前では誰も彼もあったものではなく、店通いという共通の後ろめたさが取り持つ奇妙な連帯感さえ生まれるほど。

昼間のうち商売の用事で顔を合わす時にも、彼らはきまりで、「では今晩、ご存じの処で」と言い合った。あたかも「カフェーで、いいですね、夕飯のあとで」と言い合うかのように。

(p.13)

ある土曜日の晩、いつものように「ご存じの処」を訪れた男たちの目の前には、なんと臨時休業の貼り札が…というのも、マダムの姪っ子コンスタンスの初聖体拝領の儀式に立ち会うため、弟家族の住む遠方の田舎まで、店の女性たちも全員連れて出かけてしまったのです。

時間をさかのぼること、その日の昼頃――フェカンの町から80キロほど離れた田舎の一本道を、派手に着飾った女性たちをぎゅうぎゅうに乗せた不思議な馬車が通りました。言わずもがなのメゾン・テリエ御一行です。

見渡す限りの野原には、菜の花の黄色、矢車菊の紺色、ひなげしの赤……夜の蝶たちに負けないくらいの色とりどりの春の花々が、太陽の下でありのままの姿を咲き誇っている。そんな風景描写に(僕が)心奪われるうちに、一行は村に到着します。

村の人々は門口に現われ、子供たちは遊戯をやめ、(・・・)松葉杖をついた、ほとんど眼の見えない老婆が、ありがたい行列に行き会わしたかのように十字を切った。誰もかれもが、(・・・)遠い遠いところからやって来た町の美しい婦人たちを、永い間見送るのだった。

(p.29)

まるで神の遣わした使者か何かでも迎えるような雰囲気ですが、マダムの弟ジョゼフにしても、姉の商売については村人に多くを語らずにいたのです。それでも、彼らの無知こそが一行への偏見にとらわれない態度の根拠だと片づけてしまうのは、たとえフィクションの世界であっても野暮というものですよね。

人を見る目というものは、本質的には、知識や先入観の有無とは関係のないところで、その人の心の純粋な部分から育まれるものなのかもしれないと思うことがあります。何でも受容すればよいわけではないにせよ、僕はこの作品の登場人物のほぼ全員――生まれも育ちも、社会的地位も生活環境も異なる人々が、メゾン・テリエの人々の存在を祝福していることに、何だか救われる気持ちを覚えます。

さて、マダム一行が押しかけた弟の家は、皆の寝る場所の確保もままならず、いつもは母親と一緒に寝ているコンスタンスも叔母やお姉さま方に寝室を明け渡し、自分は狭い屋根裏部屋に一人ぼっちで眠ることに。夜、不安にすすり泣く彼女の声を聞いた「あばずれのローザ」が、自分の寝床に少女を連れてきて添い寝するシーンはとても印象的です。

ローザは(・・・)、ぽかぽかと暖かい自分の寝床に連れて帰り、その子をしっかりと胸の上に抱き締めながら、いろいろと甘やかしたり、大げさな仕草で可愛がったりしたが、やがて彼女自身も気が鎮まって、いつのまにか寝入ってしまった。そうして明け方まで、聖体を拝領する女の児は、淫売婦の裸の乳房の上に額をつけて眠ったのである。

(p.31)

絵画のモチーフになりそうな場面ですね。聖体拝領の儀式当日も、ローザは集まった村の子どもたちを眺めながら、自分の母親や生まれ故郷、そして自身の遠い少女時代のことを思い出し、そっと涙を流します。彼女の涙は同僚たちやマダム、はては会場のすべての大人たちにまで伝染し、村の教会にはすすり泣きと嗚咽の合唱が清らかに響き渡ります。

マダム一行と、村の人々、それぞれ流した涙の向こう側には異なる人生背景があるにせよ、行きつくところは皆、同じ思いを共有していたのではないでしょうか。時を経て誰もが大人になり、酸いも甘いも経験し、いいかげん体も心もガタが来はじめている今、何もかもが輝いていたあの頃には、どうしたって戻れやしない。

けれどもそれは哀惜や悔恨ばかりではなく、これまでたくさん傷つき傷つけながらも生きてきた自負と、周囲の人々への感謝、そしてこれからも自分なりに精一杯生きていこうという決意が流させた、大人の涙なのだと思います。

儀式が終わると、マダム一行はその日の晩に店を開けるため、慌ただしくフェカンへと出発します。田舎で過ごした一昼一夜の出来事は幸福な夢と過ぎ去り、いつもの騒々しい夜の町の生活が、今日もまた始まるのです。

さても懐し昔はこれで
引く手あまたの色ざかり。
言うも詮ないことながら
腕はむっちり肥り膩(じし)
脚はしなやかすんなり伸びて
それも返らぬ夢かいな。

(p.45-46)

彼女たちのように、こんなバカ歌を泣いて笑って声を限りに歌いながら、自分の人生に自分なりの誇りを持って、年を取っていきたいですね。

今を懸命に生きるすべての大人たちにおすすめする、モーパッサン『メゾン テリエ』。ぜひとも読んでみてください。

それでは。

 


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#63 W・アーヴィング 『リップ・ヴァン・ウィンクル』 ~老いは万代の宝~

「おすすめ文学 ~本たちとの出会い~」

第63回目。「時代遅れ」「寝てばかりいる人」という意味で使われる言葉、リップ・ヴァン・ウィンクル(Rip Van Winkle)。その由来となるのが、今回ご紹介する同名の短編小説。アメリカ版浦島太郎とも言われている物語で、日本の浦島さん同様、本作品の主人公リップも愛すべき好人物です。

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#63 W・アーヴィング 『リップ・ヴァン・ウィンクル』 ~老いは万代の宝~

19世紀前半に活躍したアメリカの作家、ワシントン・アーヴィングWashington Irving, 1783-1859)の作品集『スケッチ・ブック』に収録されている短編「リップ・ヴァン・ウィンクル」をご紹介します。一晩のつもりが20年も眠り続け、世の中の劇的な変化に置いてけぼりにされながらも、自分らしさを失うことなく自分の居場所を見つけて生きる呑気な男の、どこかほっとさせてくれる物語です。

出典:ワシントン・アーヴィング作/吉田甲子太郎訳 『スケッチ・ブック』 新潮文庫,平成12年第33刷改版より, p.37-67「リップ・ヴァン・ウィンクル」

 

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舞台は18世紀後半、独立前のアメリカです。キャッツキル山脈(作中表記はカーツキル山脈。ニューヨーク州に位置するアパラチア山系の支脈)のふもと、ハドソン川近くのとある村――この地がまだイギリスの領地であった頃、そこにリップ・ヴァン・ウィンクルという、怠け者だが心の優しい男が住んでいました。

オランダ移住民ヴァン・ウィンクル家の子孫であるリップは、その由緒正しき血脈を誉れとするにはいささか頼りない人物――世の中の動向にあまり関心がなく、自分や家族のためにあくせく働くことを嫌い、たとえ貧しくとものんびりと心穏やかに生きることを信条とする、人のよさだけが取り柄のしがない中年男でした。

彼は近所の人には親切で、また、女房の尻に敷かれた従順な亭主でもあった。じっさい、この女房に頭があがらないという事情のおかげで、あんなに気立てが優しくなり、だれにでも好かれるようになったのかもしれない。

(p.40-41)

リップは自分の仕事はサボってばかりなのに、他人のためならどんな頼みごとも喜んで引き受ける人間でした。家では妻から働け働けこの甲斐性なしと怒鳴られっぱなしの気の毒なダメ夫ですが、誰にも見返りを求めない、いい意味でぼんやりとした彼の無垢な人柄は、村じゅうの老若男女から非常に好かれていたのです。

ある日のこと、妻の小言に耐えかねたリップは、おもむろに猟銃を携えると、愛犬ウルフを連れてカーツキル山脈の森に避難しました。美しいハドソン川をのぞむ丘の上で寝ころんで時間をつぶしていると、夕刻、谷底の岩場を歩いている見知らぬ老人から声をかけられます。

背の低い角ばった体格の老人で、(・・・)服装はずっと古いオランダ風で、(・・・)酒がいっぱい入っているらしい頑丈な樽をかついでいて、こっちへきて荷物に手をかしてくれとリップに合図した。

(p.49)

他人の頼みを断れないリップは、まるで大昔の自分たちの先祖のような風貌の怪老人の荷物持ちを引き受けました。やがて二人は渓谷の奥の窪地へとたどり着きます。そこでは、怪老人と同じような古風な衣服を身にまとった男たちが、酒を飲みながら黙々とナインピンズ(テンピン・ボウリングの起源とされる)に興じているのです。

暗い森の奥深く、男たちの無言の饗宴に恐れおののきながらも、リップは老人の持っていた樽酒を一口、また一口と盗み飲むうちに、いつしか酔いがまわりその場に眠り込んでしまいます。目を覚ますと辺りには誰もおらず、お供のウルフの姿もありません。手入れの行き届いていたはずの持参の猟銃も、まるで何年も放置したかのように錆だらけになっていたのです。

村に戻っても、馴染みの顔ぶれは一人も見当たらず、人々の服装も何やら変わっている。そしてなんと、中年の自分が、顎髭の伸びた老人へと変わっていることに気づいたのです。我が家は荒れ果てて廃虚と化し、人の気配もない。村人たちからは不審者扱いされる。かみ合わない問答の末、ようやく一人の老婆がリップの顔を見て言いました。

「たしかにそうだよ。リップ・ヴァン・ウィンクルさんだよ。あの人だよ。よくまあお帰りなさった、あんたさん。ほんにまあ、二十年もの長いあいだ、どこへ行ってなさった」

(p.62)

彼が神隠しのような目に遭っていた間に、世の中は大きく変わっていました。独立戦争を経たアメリカはもはやイギリスの支配下にはなく、自由の国へと生まれ変わっていたのです。しかし20年間の情報が抜けているリップには、英雄ワシントンだの、ストーニー・ポイントの戦いだの、皆の言っていることがさっぱり理解できません。

ただでさえ世間に無頓着な中年男が、時代の流れにも取り残され、さらに年を取ってしまった。成長した子どもたちには再会できたが、妻は亡くなっていた。これからどうすればいいのか。何を頼りに生きていけばいいのか。いよいよ何の役にも立たない人間になってしまったかに思えたリップ老人ですが、意外な第二の人生が彼を待っていました。彼は、

以前の親しい友達を大ぜい見出したが、みなどうやら寄る年波で弱っていた。そこで彼は好んで若い人たちと交わるようにしたので、間もなく彼らから大へん好かれるようになった。(・・・)これといって家でする仕事もなく、怠けていてもどうこういわれぬ、いわゆるありがたい年齢にもなっていたので、(・・・)村の長老の一人として敬われ、「独立戦争前」の古い時代の年代記として崇められた。

(p.64)

戦争について語ることができなくても、戦争を知らないが故に、それ以前の時代を彼自身の純粋な視点でまっすぐ振り返ることができる、そんな唯一無二の語り部に、リップはなっていたのです。他人に対して垣根を作らないという彼の人柄が、若い世代とも打ち解け、人々に自ずと聞く耳を持たせたということも想像に難くありません。

知識も経験も乏しくたって、何だか寝ぼけたことばかり言っていたって、その人間味ひとつで、人は立派な生き字引になれる――「時代遅れ」のリップ・ヴァン・ウィンクルに、時代がようやく追いついたのです。じつに年を重ねるということは、それだけでその人の価値を高めるということなのでしょう。

老リップの語る歴史には戦争という惨絶な事実が欠けている分、そこから人々に襟を正させる教訓や、現実問題に対処するための知恵などを得ることはあまり期待できないかもしれません。それでも、彼の口から語られる古き良き時代に、ある種の安らぎを見出すことはできます。それが甘い夢想に過ぎないとしても、人々に愛着をもって永く語り継がれることは間違いありません。

最後に、リップが山奥で目にした、あの不思議な男たちの酒宴の光景が何だったのかということについては、是非とも作品を最後まで読んでいただければと思います。植民地時代のアメリカに渡ったオランダ人移民たちの間に伝えられた民間伝承が、物語の最後を幻想的な余韻で締めくくってくれます。

ワシントン・アーヴィング「リップ・ヴァン・ウィンクル」、おすすめいたします。

それでは。

 


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