#33 山本有三 『米百俵』 ~未来を託す~

「おすすめ文学 ~本たちとの出会い~」

33回目。9月も中旬を過ぎましたね。僕がいつも買い物をしているスーパーにも、新米が続々と並び始めています。さて、おいしいお米を味わう前に、ちょっとこの作品を読んでみませんか。

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#33 山本有三 『米百俵』 ~未来を託す~

幕末から維新の萌芽期にかけて活躍した越後長岡藩の藩士、小林虎三郎という実在の人物を扱った戯曲形式の作品です。戊辰戦争後に焼け野原となった長岡を立て直すべく奮闘した虎三郎は、河井継之助と同年代の藩の要人――にもかかわらず、僕はこの「米百俵」を読むまで、継之助は知っていても虎三郎のことは恥ずかしながら知りませんでした(お米が大好きな新潟県民なのに……)。

出典:山本有三 『米百俵』 新潮文庫, 平成20年第9刷

 

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時は明治3年、先の戊辰戦争で幕府側として戦い敗れた長岡藩は、石高を大幅に減らされ深刻な財政難にありました。藩士たちは日々の食べ物も満足に確保できず、治安は悪化し、藩と自分たち武士の行く末を憂えていました。

そんな折、分家の三根山藩から長岡藩に見舞いの米百俵が届きます。しかしその米は飢えた民に分配するのではなく、学校を建てるために使われる、とのこと――憤慨した藩士たちは、大参事・小林虎三郎のもとに夜分殴り込みのような形で押しかけます。

いったい、藩の政治というものは、第一に藩士を養ってゆくことだ。まず家中の者を食えるようにしろ。武士の体面をたもてるようにしろ。それを差しおいて、学校を立てるなどとは、なんたることだ。

(p.71)

いちいちもっともな藩士たちの言い分に、虎三郎は一定の共感を示します。しかし彼は、分量にしてせいぜい一日か二日きり凌ぐことしかできない米をただ食いつぶしてしまうよりも、先々のことを考え、教育の資金に換えるべきと説くのです。

まあ、よく考えてみい。いったいなぜ、われわれはこんなに食えなくなったのだ。(・・・)国がおこるのも、ほろびるのも、町が栄えるのも、衰えるのも、ことごとく人にある。だから、人物さえ出てきたら、人物さえ養成しておいたら、どんな衰えた国でも、必ずもり返せるに相違ないのだ。

(p.74, 76)

自分のやろうとしていることは回りくどいかもしれない、と認めながらも、未来を担う人材を育てることを第一義とする虎三郎の信念は揺るぎません。その精神は、かくして「米百俵」を通じて僕たち現代の人間にも語り継がれているわけです。

……小林虎三郎という名前すら知らなかった大学生の僕が、この作品を読んだ当時、胸に抱いたもの。それは、難しいことはさておいて、自分を学校に行かせてくれ、学校から帰れば毎日おいしいごはんを食べさせてくれ、そしてブンガクとの出会いへと導いてくれた、両親への感謝の気持ちでした。

あれからまたしばらく経ち、30代のおっさんはその時の気持ちを忘れかけていました。だから、今回この作品をご紹介させていただきました――うむ、今日のお米は、ちと塩っぱいな(笑)。

そんな感じで、山本有三「米百俵」を是非とも読んでみてください。あと、新潟でとれた新米も皆さんいっぱい食べてください。

それでは。

 


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#32 フーケー 『水妖記(ウンディーネ)』 ~幸せの涙~

「おすすめ文学 ~本たちとの出会い~」

32回目。悲しいことや辛いこと、世の中の出来事は人々の心から潤いを奪い去り、この夏も終わろうとしています。時代に流される急ぎ足を少しだけゆるめて、清らかな水の妖精の物語に思いを馳せてみませんか。

水妖記―ウンディーネ (岩波文庫)
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#32 フーケー 『水妖記(ウンディーネ)』 ~幸せの涙~

ドイツのロマン派作家フーケーFouqué, 1777-1843)の代表作。美しい少女の姿をした水の精ウンディーネが、人間の若者と結ばれ、人間の世界にはびこる気まぐれや不誠実といった側面を体験していきながらも自身は最後まで純愛を貫く、せつなくも美しい物語です。幻想的な雰囲気の中にも、僕たち人間が実人生において大切にすべき心を深く思い出させてくれる作品です。

出典:フーケー作/柴田治三郎訳 『水妖記(ウンディーネ)』 岩波文庫、1983年第21刷

 

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森の奥の湖畔にひっそりと暮らす、善良な老夫婦。彼らには可愛らしい養女がいました――名はウンディーネ、水の妖精である彼女は、人間の女の子と外見は少しも変わりません。十五年前に老夫婦の小屋の前にびしょぬれで立っているところを拾われて以来、彼らの娘として大切に育てられました。

もうすぐ十八になるウンディーネは、森をさまよい老夫婦の家に辿り着いた若い騎士フルトブラントと出会い、二人は結ばれます。魂を持たない水の精は人間と結ばれることで魂を得て、人間と同じように愛にまつわる様々な感情に目覚めることができるのです。婚礼の翌日、ウンディーネは夫に自分の正体を打ち明けました。

(・・・)私たちに魂の得られる道は、あなたがた人間の一人と愛でもってぴったり結びつくほかないのです。私にはもう魂があります。言葉で言いあらわすことができないほど愛しいあなたのおかげで魂が得られたのです。たといあなたが私を一生みじめな目に会わせたとしても、私はあなたのことをありがたかったと思うでしょう。

(p.69)

フルトブラントは、妻が水の精だと知らされてもそれを拒むことなく、彼女への生涯の愛を改めて誓いました。

二人がいつまでも幸せであってほしいと願う読者は僕だけではないでしょう。しかし老夫婦の小屋を出て、城での生活をはじめようとする二人の前に現れたのは、以前からフルトブラントに思いを寄せていたベルタルダという地方有力者の娘でした。……人間が誓う愛と誠の、なんと脆いことか。それを僕たち読者は、これより先の物語で知ることになるのです。

人間と同じ魂を得たウンディーネを待ち受けていたのは、いつの世も人間たちが繰り広げる愛の悲劇。フルトブラントとベルタルダが人としての心の弱さや醜さをさらけ出すほどに、ウンディーネの夫に対するひたむきな愛情とベルタルダに対する誠実な友情は、切ないほどに純粋な輝きを増してゆくのです。ウンディーネは、決して自分の運命を悔やむことはありませんでした。

愛の喜びと愛の悲しみは、たがいによく似た優しい姿の、親しい姉妹の仲であって、どんな力もそれを割くことができない(・・・)。涙の中からもほほえみは湧いて来ますし、ほほえみは潜んだ涙を誘い出すこともありますのに。

(p.106-7)

魂を持つということは、傷つく心を持つということ。そしてその苦しみや悲しみの先にしか感じることのできない幸せが、確かにある。それこそが、水の精だった自分が選んだ人間としての運命なのだと、彼女は最初から分かっていたのかもしれませんね。

そして物語の終わりは、人間としてではなく、水の精として彼女が背負っていたとある宿命(掟)によって、静かに幕を閉じます――その時に僕たち読者が心で流す涙は、決して悲しさだけに満ちたものではないと思うのです。

これは幸福の涙です。誠のある魂が胸の中に生きている者にとっては、どんなことも幸福になりますもの。

(p.138-9)

フーケー『水妖記(ウンディーネ)』、是非とも読んでみてください。

それでは。

 


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