#29 中島敦 『山月記』 ~一流の代償~

「おすすめ文学 ~本たちとの出会い~」

29回目。芸術に限らずあらゆる分野で「一流の作」を残すことの、ある種の極致が描かれている。そんな風に思わせられる作品です。

李陵・山月記 (新潮文庫)
(↑書名をタップ/クリックするとAmazonの商品ページにリンクできます。)

★     ★     ★

#29 中島敦 『山月記』 ~一流の代償~

中島敦(1909~1942)の代表作『山月記』は、「人虎伝」という中国の古典を下敷きに創作された短編小説です。現代の小説と比べて難しい漢字や熟語が多くて読みづらいかもしれませんが、簡潔、強烈なメッセージ性を持つ名作です。

原典のタイトル通り人が虎になるという話で、虎の姿とその獰猛性が、人間の内面で肥大した「自尊心」や「羞恥心」の表象として描かれています。そのような感情とどう向き合えばいいのかという疑問をふまえて、ご紹介してみたいと思います。

出典:中島敦 『李陵・山月記』 新潮文庫、平成20年第74刷

 

★     ★     ★

若きエリート官吏の主人公・李徴は、詩人になる夢を叶えるため一度は仕事を辞めたものの、名は売れず生活は苦しくなり再就職。その時はもう、以前の同僚たちは彼よりも遥かに出世していました。

夢破れ、かつて自分が見下していた人間のもとで働かなくてはならない屈辱に、エリートとしての李徴の自尊心は深く傷つきました。彼は発狂し、その姿は「人喰虎」へと変貌してしまったのです。

虎となった李徴はかつての友人と出会い、草むら越しに己の思いを語ります。

自分は元来詩人として名を成す積りでいた。(・・・)曾て作るところの詩数百篇、(・・・)自分が生涯それに執着したところのものを、一部なりとも後代に伝えないでは、死んでも死に切れないのだ。

(p. 13-14)

猛獣に成り果てた今でも、李徴は高名な詩人になる夢を諦めきれず、自分の作品を友人に口述筆記させるのです。その執念はまさに獲物を執拗に狙う虎の姿勢に重なります。しかし、李徴の詩について友人は、一流の作として今一歩及ばないと感じるのです。

おそらくは李徴自身、そう感じていたのでしょう。今度は自嘲気味に本心をさらけ出し、即興で自分の気持ちをありのまま詩にすると、それは聞く人々の心に「粛然として」響いたのです(p. 15)。

恥も外聞もかなぐり捨てた瞬間に、李徴は一流の詩人になれた、と解釈できるわけですが、彼がそこにたどり着くまでには、やはり凡庸なプライドや羞恥心を自分の内部に増幅させる過程を避けて通ることはできなかったと思うのです。

誰かに認めてほしい、有名になりたい、そういった欲望を抱き続けるからこそ見えてくる世界がある。それが唯一の道ではないにしても、一流の仕事を完成させるために人は虎になってしまうこともあるのだとしたら、その代償の大きさはいかばかりでしょう。

この胸を灼く悲しみを誰かに訴えたいのだ。(・・・)天に躍り地に伏して嘆いても、誰一人己の気持を分ってくれる者はない。

(p. 17)

李徴は、虎になった自分がふと口ずさんだ即興詩が彼の生涯の最高傑作であることに気付いていたのでしょうか。もしそうだとしたら、この台詞は、さらなる悲しみを重ねて友人の胸を打ったのだろうと思うのです。

今回はこれまでにします。中島敦『山月記』、ぜひとも読んでみてください。

ではでは。

 


おすすめ文学作品リスト
https://shinovsato.biz/recommendation-list/

佐藤紫寿 執筆・作品関連の記事(更新順)
https://shinovsato.biz/category/information/works/

 

#28 ヘミングウェイ 『ギャンブラーと尼僧とラジオ』 ~聞こえるか、聞こえないかの慰め~

「おすすめ文学 ~本たちとの出会い~」

28回目。ヘミングウェイの作品は二十代の頃に一通り読んでいて、自分の中で好きな作品がほぼ固まっていたつもりだったのですが、やっぱり年を重ねると変わるものですね。当時は1、2回読んで「?」だった作品の面白さが少しだけ分かった気がしたので、今回はその一つをご紹介したいと思います。

勝者に報酬はない・キリマンジャロの雪: ヘミングウェイ全短編〈2〉 (新潮文庫)
(↑書名をタップ/クリックするとAmazonの商品ページにリンクできます。)

 

★     ★     ★

#28 ヘミングウェイ 『ギャンブラーと尼僧とラジオ』 ~聞こえるか、聞こえないかの慰め~

「ギャンブラーと尼僧とラジオ (The Gambler, the Nun, and the Radio, 1933)は、ヘミングウェイが三十代の時に書いた短編の一つです。はじめて読んだときは、世界恐慌下の1930年代当時の世相を反映させたような重苦しい雰囲気が作品の端々ににじみ出ていて、正直取っつきにくいなと思ったものです。

その印象は、今読んでみてもあまり変わることはありません。でも、その世界に生きる登場人物たちの抱く思想に僕自身いくらかは理解が及ぶようになったことと、登場人物たちの繰り広げる人間模様にある種の救い(温かみ)を感じられたことは、再読して得たうれしい発見でした。

出典:高見浩 訳 『勝者に報酬はない・キリマンジャロの雪 ―ヘミングウェイ全短編2―』 新潮文庫,平成15年第9刷

 

★     ★     ★

物語の舞台は病院。落馬して足を折ったフレイザー氏、拳銃で撃たれ重傷を負ったメキシコ人ギャンブラーのカイェターノ、病院に出入りする尼僧のシスター・セシリアが、主な登場人物です。

3人とも、言わばそれぞれ孤独な人たちです。

神経衰弱のフレイザー氏は、一晩中一人きりの病室でラジオを聞いています。カイェターノには同郷の友人が一人もおらず、死ぬかもしれない大怪我なのに誰にも見舞いに来てもらえない。陽気なシスター・セシリアは、彼女をよく知らない人からは「すこし左巻き」と思われています(p. 196)。

そんな彼らの個性的なキャラに注目して読むのも良いのですが、僕が面白いと思ったのは、登場人物たちを取り巻く状況において「彼らに不足しているものが何らかの形で補われている」という構図です。

たとえば、友達のいないカイェターノには、彼に同情したシスター・セシリアの計らいでメキシコ人の見舞客が(サクラみたいなものですが)寄こされ、礼拝堂でのお祈りが忙しくてフットボールのラジオ中継が聞けない彼女のためには、フレイザー氏が看護婦を介して試合経過を逐一伝えてやるのです。

足を怪我して移動することのできないフレイザー氏は、ベッドの中で各局のラジオ放送を聞いて、遠く離れた現地の情景を頭に思い描きます。

午前六時ともなると、ミネアポリスの、朝の陽気なミュージシャンたちの放送が聞こえる。(・・・)フレイザー氏は朝の陽気なミュージシャンたちがスタジオに到着する様子を思い浮かべるのが好きだった。(・・・)フレイザー氏はこれまでミネアポリスにいったことはないし、今後もきっといくことはないだろう、と信じていた。が、あれほど早い朝の様子がどんなものか、想像はついたのである。

(p. 186-87)

自分に足りないものや近くにないものがそっくりそのままの形で補われるわけではないにしても、何かしらの代替的な救済がなされる。それはフレイザー氏が真夜中に聞く音量をしぼったラジオのように、耳を澄ませば、生きることの希望のような音がかすかに聞こえてくる。そんな感じでしょうか。

たとえ彼ら登場人物たちが心底満たされることはないにしても、それをしみじみと噛みしめる程度には、人生に望みを託すことはできるのかもしれませんね。それが人生なのだと、ヘミングウェイが考えていたかどうかは分かりませんが。

「ギャンブラーと尼僧とラジオ」 、ぜひとも読んでみてください。

それでは、今日はこの辺で<(_ _)>

 


おすすめ文学作品リスト
https://shinovsato.biz/recommendation-list/

佐藤紫寿 執筆・作品関連の記事(更新順)
https://shinovsato.biz/category/information/works/