#65 エロシェンコ 『魚の悲しみ』 ~信じるべきもの~

「おすすめ文学 ~本たちとの出会い~」

第65回目。ウクライナの作家エロシェンコの作品をご紹介します。未来には何の保証も約束もなく、心から信じていたものにさえ裏切られる――それでも生きていくことの意味を、あえて厳しい結末をつきつけることで読者に考えさせる、かなり強烈な「童話」です。

嘘 (百年文庫 62)
(↑書名をタップ/クリックするとAmazonの商品ページにリンクできます。)

 

★     ★     ★

#65 エロシェンコ 『魚の悲しみ』 ~信じるべきもの~

日本とも縁の深い「盲目の詩人」ヴァシーリー・エロシェンコVasilii Y. Eroshenko, 1890-1952)の著作より今回ご紹介する『魚の悲しみ』は、作者が日本に滞在している時期に日本語で口述筆記された作品の一つで、故に日本文学のカテゴリーに属すると言えます。エロシェンコについては、7月の記事で多少詳しく取り上げていますので、よろしければご覧ください(→記事はこちら)。

出典:ポプラ社 百年文庫62 『嘘』, 2011年第1刷より、エロシェンコ作/高杉一郎訳 『魚の悲しみ』

 

★     ★     ★

池に住んでいる鮒(ふな)の子ども鮒太郎は、冬の冷たい水の中での生活に耐えられず、いつも泣いていました。彼の親や他の魚たちとてどうすることもできず、辛い日々を生き抜くための希望といえば、やがて訪れる暖かい春をじっと待つことのみ。

しかし聡明で理屈っぽいところのある鮒太郎は、春が本当に来るのか、信じることができません。春が来なければみんな凍え死ぬという現実を前に、いくら季節が巡るものだとしても、次の春もまちがいなく訪れる保証があるのか、疑問を抱きます。

自分たちは死ぬとどうなるのか、母親に尋ねたところ、「魂が遠い国へいって」「いつも春のように暖かい」ところで楽しく暮らす、とのこと(p,138)。なんだ、そんな良い国があるのならすぐにでも行きましょうと、鮒太郎は母親を急かします。

「ああ、困ったね。」お母さんはためいきをついて、「死ななければ、その国へいくことはできないと言ったじゃないか。」

「そんなら、はやく死にましょう。さあはやく、さあ。」

「そんなことを言うものじゃないよ。」

「言うものじゃないったって、死にましょうよ。さあ、私はこの池がいやなのですから。」

(p.139)

子どもゆえの素直で残酷な考えが、どれだけ母親の心を痛めたことでしょう。むしろ人生の苦しみを多く経験してきた大人であればこそ、鮒太郎の言うことに対して、そりゃあ、できることならわたしだって…と心密かに共感したとしても、決して責められるものではありません。

それでも自暴自棄になることを許さず、この世は生きるに値する、生きるべきだということを子どもたちに伝えなければいけない、そのとてつもない重責を大人は何をもって果たしてきたのかといえば、それは道徳であり、信仰です。

「坊っちゃん、魚は、この池にわがままをしにきたのではありません。だから私たちは、あの立派な国の神様のお言いつけどおり、生きていて泳がなければなりません。(・・・)また一生懸命に勉強して、立派な魚にならなければなりません。そうすると、あの国の神様が坊っちゃんを呼んで、その美しい大きな池のなかに住まわせてくださるでしょう。」

(p.140-141)

そう鯉のお爺さんに諭された鮒太郎は、どんなに辛くても前向きに生きるようになりました。すべては、「あの立派な国」に迎えられるため。人生そのものを忍苦の冬にたとえ、死後の世界を永遠の春と認識することで心の平穏を保つ。それは良くも悪くも、道徳や信仰の存在意義のゆるぎない側面です。

鮒太郎は誰よりもやさしく賢い魚の子に成長しました。そんな彼が模範とする生き物、「あの国」に一番近いとされている存在は、人間でした。人間が神を崇めるように鮒太郎は人間を敬い、いつか彼らに会ってみたいと願うようになりました。

しかしその人間に、鮒太郎たちはあっけなく裏切られてしまいます。鮒太郎の大切な仲間たちは次々と人間の坊っちゃんに連れ去られ、解剖の実験台にされてしまうのです。その子は、皮肉にも牧師の子どもでした。

「地上にいる人間の兄さんたちは、えらいにはえらいが、ときどきいろんなずるいことをするのだ。」

(p.149)

父親からそんなことを聞かされた鮒太郎は、それでも人間を憎むどころか、彼らがそんな罪を犯していたら「あの国」に行けなくなってしまう、そのことを心配します。自分たちを迫害する存在さえも、愛することをやめようとしないのです。

何とか人間と話し合いをするため、蝶の姉さんが生き物たちを代表して教会を訪ね、坊っちゃんの暴挙を止めてくれるよう交渉に向かいます。しかし帰ってきた蝶の姉さんは、絶望とともにこう言います。

「すべてのことはウソです。」

(・・・)

「私どもはただ人間をよろこばせるために、人間の食物になるためにつくられたものだそうです。」

(p.152-153)

人間たちの言うには、動物には魂というものがなく、したがって「あの国」に行くこともできない。かくして鮒太郎たちが信じていた存在、夢見ていた平和の世界は、無残にも打ち砕かれてしまうのです。すべてを奪われた鮒太郎には、もはや怒りと悲しみしか残されていません。彼は人間の坊っちゃんに向かって叫びます。

「さあ、私をつかまえてくれ! ほかの者をとらないうちに私をつかまえてくれ。ほかの者がとらえられて殺されるのを見るのは、私には自分が殺されるより苦しいのだ。」

(p.156)

何かを信じ、実践することで、いつかは報われる――そのような人生観は、生きることを少しでも楽に、また豊かにすることもある一方、度が過ぎてしまえば、まだ見ぬ未来にのみ希望を託し、今という時間をただひたすら耐え忍んで生きる、いわば現状に対する思考停止の状態にも陥ってしまいます。

誰かに提示された価値観や行動指針にすがるあまり、自身の知恵や力で自分らしく精一杯生きることから遠ざかってしまうのは危険なことです。我慢、思いやり、努力といった美徳は自分の中からこそ生まれるものであり、また未来ではなく今を生きるためにこそ必要なのだと、この物語を読んでいて思わされます。

未来に保証はない。善人も悪人も死ねば一緒。天国も地獄も、賞罰もない。仮にそうだとして、だから好き勝手にやりたい放題生きていいという理由にはならないと思います。互いに寄り添わなければ生きていけない弱い存在として、僕たちは他者を愛し思いやることから逃げることなどできません。

死後の世界で評価され報われるために、この世に踏ん張っていい子ぶっているわけじゃない。人にやさしくするのは、「今」その人が好きだから。人を憎むのは、「今」その人に自分のことを理解してほしいから。あの世ではなく、どれもこの世における需要と供給です。

鮒太郎が信じるべきだったものは、人間が勝手に創り出した「あの国」ではなく、彼の住む冷たい水の中で共に身を寄せ合って生きている家族や仲間たちの血の温もり――この瞬間を生きている、この世のたった一つの証ではないでしょうか。

エロシェンコ『魚の悲しみ』、よろしければ読んでみてください。

それでは。

 

#64 モーパッサン 『メゾン テリエ』 ~大人たちの涙~

「おすすめ文学 ~本たちとの出会い~」

第64回目。若かったあの頃は、今と違って大した悩みも苦労もなく、すべてが輝いていた。で、もう一度あの頃に戻りたいかと訊かれると、実はそんなこともない。そう思える人は、今の自分に誇りを持って生きている素敵な大人にちがいありません。そんな皆さまに願わくは僕自身もあやかりたく(笑)、時々この作品を読み返しています。

メゾンテリエ―他三編 (岩波文庫)
(↑書名をタップ/クリックするとAmazonの商品ページにリンクできます。)

 

★     ★     ★

#64 モーパッサン 『メゾン テリエ』 ~大人たちの涙~

当ブログで既に何度か取り上げているモーパッサンGuy de Maupassant, 1850-93)ですが、今回は彼の中編小説『メゾン テリエLa Maison Tellierをご紹介します。今を笑顔で生きるためにこそ、二度と戻らぬ美しき日々に、時には思いきり涙する――そんな大人の人生の哀歓を、素朴な人間味で包み込んで語ってくれる名作です。

出典:モーパッサン作/河盛好蔵訳 『メゾン テリエ 他三編』 岩波文庫,1980年第18刷

 

★     ★     ★

フランスはノルマンディ地方の港町フェカンにある、一軒の娼家「メゾン・テリエ」。1階が「一種の曖昧カフェー」、2階がサロンという意味深なつくりになっていて、夜の楽しみを求める町の男たちの憩いの場として愛されてきました。

経営者のマダムテリエ夫人)は、店で働く個性豊かな5人の女性たちの母親代わりとして、皆から慕われる存在でした。彼女は聡明で品格に満ちた魅力的な未亡人で、町のお偉い旦那がたからも一目置かれていました。マダムとの友情を勝ち得ることは、彼らにとって誇らしいステータスでさえあったのです。

船問屋、乾魚屋、水夫、保険屋、銀行家、収税官、判事、元町長まで…あらゆる職業・地位の男たちも、夜の女性たちの前では誰も彼もあったものではなく、店通いという共通の後ろめたさが取り持つ奇妙な連帯感さえ生まれるほど。

昼間のうち商売の用事で顔を合わす時にも、彼らはきまりで、「では今晩、ご存じの処で」と言い合った。あたかも「カフェーで、いいですね、夕飯のあとで」と言い合うかのように。

(p.13)

ある土曜日の晩、いつものように「ご存じの処」を訪れた男たちの目の前には、なんと臨時休業の貼り札が…というのも、マダムの姪っ子コンスタンスの初聖体拝領の儀式に立ち会うため、弟家族の住む遠方の田舎まで、店の女性たちも全員連れて出かけてしまったのです。

時間をさかのぼること、その日の昼頃――フェカンの町から80キロほど離れた田舎の一本道を、派手に着飾った女性たちをぎゅうぎゅうに乗せた不思議な馬車が通りました。言わずもがなのメゾン・テリエ御一行です。

見渡す限りの野原には、菜の花の黄色、矢車菊の紺色、ひなげしの赤……夜の蝶たちに負けないくらいの色とりどりの春の花々が、太陽の下でありのままの姿を咲き誇っている。そんな風景描写に(僕が)心奪われるうちに、一行は村に到着します。

村の人々は門口に現われ、子供たちは遊戯をやめ、(・・・)松葉杖をついた、ほとんど眼の見えない老婆が、ありがたい行列に行き会わしたかのように十字を切った。誰もかれもが、(・・・)遠い遠いところからやって来た町の美しい婦人たちを、永い間見送るのだった。

(p.29)

まるで神の遣わした使者か何かでも迎えるような雰囲気ですが、マダムの弟ジョゼフにしても、姉の商売については村人に多くを語らずにいたのです。それでも、彼らの無知こそが一行への偏見にとらわれない態度の根拠だと片づけてしまうのは、たとえフィクションの世界であっても野暮というものですよね。

人を見る目というものは、本質的には、知識や先入観の有無とは関係のないところで、その人の心の純粋な部分から育まれるものなのかもしれないと思うことがあります。何でも受容すればよいわけではないにせよ、僕はこの作品の登場人物のほぼ全員――生まれも育ちも、社会的地位も生活環境も異なる人々が、メゾン・テリエの人々の存在を祝福していることに、何だか救われる気持ちを覚えます。

さて、マダム一行が押しかけた弟の家は、皆の寝る場所の確保もままならず、いつもは母親と一緒に寝ているコンスタンスも叔母やお姉さま方に寝室を明け渡し、自分は狭い屋根裏部屋に一人ぼっちで眠ることに。夜、不安にすすり泣く彼女の声を聞いた「あばずれのローザ」が、自分の寝床に少女を連れてきて添い寝するシーンはとても印象的です。

ローザは(・・・)、ぽかぽかと暖かい自分の寝床に連れて帰り、その子をしっかりと胸の上に抱き締めながら、いろいろと甘やかしたり、大げさな仕草で可愛がったりしたが、やがて彼女自身も気が鎮まって、いつのまにか寝入ってしまった。そうして明け方まで、聖体を拝領する女の児は、淫売婦の裸の乳房の上に額をつけて眠ったのである。

(p.31)

絵画のモチーフになりそうな場面ですね。聖体拝領の儀式当日も、ローザは集まった村の子どもたちを眺めながら、自分の母親や生まれ故郷、そして自身の遠い少女時代のことを思い出し、そっと涙を流します。彼女の涙は同僚たちやマダム、はては会場のすべての大人たちにまで伝染し、村の教会にはすすり泣きと嗚咽の合唱が清らかに響き渡ります。

マダム一行と、村の人々、それぞれ流した涙の向こう側には異なる人生背景があるにせよ、行きつくところは皆、同じ思いを共有していたのではないでしょうか。時を経て誰もが大人になり、酸いも甘いも経験し、いいかげん体も心もガタが来はじめている今、何もかもが輝いていたあの頃には、どうしたって戻れやしない。

けれどもそれは哀惜や悔恨ばかりではなく、これまでたくさん傷つき傷つけながらも生きてきた自負と、周囲の人々への感謝、そしてこれからも自分なりに精一杯生きていこうという決意が流させた、大人の涙なのだと思います。

儀式が終わると、マダム一行はその日の晩に店を開けるため、慌ただしくフェカンへと出発します。田舎で過ごした一昼一夜の出来事は幸福な夢と過ぎ去り、いつもの騒々しい夜の町の生活が、今日もまた始まるのです。

さても懐し昔はこれで
引く手あまたの色ざかり。
言うも詮ないことながら
腕はむっちり肥り膩(じし)
脚はしなやかすんなり伸びて
それも返らぬ夢かいな。

(p.45-46)

彼女たちのように、こんなバカ歌を泣いて笑って声を限りに歌いながら、自分の人生に自分なりの誇りを持って、年を取っていきたいですね。

今を懸命に生きるすべての大人たちにおすすめする、モーパッサン『メゾン テリエ』。ぜひとも読んでみてください。

それでは。