#11 ビアス 『チカモーガの戦場で』 ~現実への進軍~

「おすすめ文学 ~本たちとの出会い~」

11目。アメリカ文学としては2作目のご紹介です。

ビアス短篇集 (岩波文庫)
(↑書名をタップ/クリックするとAmazonの商品ページにリンクできます。)

 

★     ★     ★

#11 ビアス 『チカモーガの戦場で』 ~現実への進軍~

アメリカの作家・ジャーナリストのアンブローズ・ビアスAmbrose Bierce, 1842-1914?)。南北戦争に参戦した経験をもとにした作品群をはじめ、切れ味鋭い短編小説の書き手として現代までその名を残しています。今回ご紹介するビアスの短編 『チカモーガの戦場で (Chicamauga, 1889)は、その題名から、テネシー州チャタヌーガ南東の小川チカモーガ・クリークにて繰り広げられた南北戦争の激戦のひとつ、「チカモーガの戦い (Battle of Chickamauga, 1863年9月)」を題材とした作品と考えられます。

出典:大津栄一郎編訳 『ビアス短篇集』 岩波文庫、2002年第2刷

 

★     ★     ★

チカモーガとは、先住民チェロキー族の言葉で「死の川」を意味します(ブルース・キャットン著 『南北戦争記』 バベルプレス, 2011 p. 173参照)。南北両軍に多くの死傷者をもたらした当時のチカモーガ・クリークには、いにしえの呼び名通りの凄惨たる光景が広がっていたことが想像されます。

作品冒頭の淡々とした描写は、戦いの前の不気味な静けさを感じさせます。主人公は農民の子である六歳ほどの男の子。木で作ったおもちゃの剣をふりまわしながら、近くの森で想像上の敵を相手にひとり戦争ごっこをして遊んでいます。勇猛果敢に進軍する男の子は、

「川の岸からさらに奥へと進むと、急に、新たな、いっそう恐ろしい敵に遭遇しているのを知った。(・・・)一匹の兎が体をまっすぐ立て、耳をまっすぐ立て、両前足を体の前で宙に浮かせて、座っていた。」

(p. 115)

そのウサギに驚き、泣いて逃げてしまうのです。臆病な子供と言ってしまえばそれまでですが、薄暗い森の中で出逢った(多分まっ白な?)ウサギは、この世のものとは思えない異様な雰囲気をもって子供の目に映ったはずです。

森の中の子供とウサギ。幻想絵画を思わせる、現実と夢のはざまを描いたような情景は、男の子の無知と、それ故に大人とは比べ物にならないほど繊細な感受性を表現しているように思えます。

ウサギから逃れた男の子は、川近くの岩陰で眠り込み――目が覚めたとき、そこは本物の戦場と化していました。事態を正しく理解できない男の子は、傷を負い撤退する大勢の兵士たちが森の中を這い進んでいる光景を目の当たりにしても、ちっとも恐がりません。それどころか、

「彼らの間を自由に歩き回って、(・・・)子供らしい好奇心でひとりひとりの顔をのぞきこんだ。彼らの顔はどれも異様に白く、多くのものの顔には赤い血の縞ができ、血の固まりがついていた。(・・・)彼(男の子)は彼らをみつめながら笑い出した。」

(p. 119、下線部分は補足)

顔面蒼白で血を流している男たちの容貌から、サーカスの道化のメイクを連想して可笑しがっているのです。無垢な故に、戦争を理性的に知る大人の目には地獄絵図そのものでしかない光景にさえ、純粋な美しさを見出しているのです。

けれども、そんな男の子とて現実を突きつけられる時がやってきます。男の子の戦争ごっこがいつまでも彼を幻想の世界に留めておくほど、現実は遠い存在ではありません。では、何をもってその幼い幻影の世界が打ち砕かれるのか。

その答えは、自らが指揮官となって血まみれの兵士たちの先頭に立ち、川をわたり森を抜け、そうしてたどり着く進軍の果てのリアリティ――物語の結末にて、皆さんそれぞれ、見つけてみてください。

それでは。

 


おすすめ文学作品リスト
https://shinovsato.biz/recommendation-list/

佐藤紫寿 執筆・作品関連の記事(更新順)
https://shinovsato.biz/category/information/works/

 

#10 バルザック 『ゴリオ爺さん』 ~親父の中の親父~

「おすすめ文学 ~本たちとの出会い~」

10回目。偶然にもこの作品を「父の日」に紹介することになりました。

ゴリオ爺さん
ゴリオ爺さん (新潮文庫)
(↑書名をタップ/クリックするとAmazonの商品ページにリンクできます。)

 

★     ★     ★

#10 バルザック 『ゴリオ爺さん』 ~親父の中の親父~

フランスの作家バルザックHonoré de Balzac, 1799~1850)の代表作である『ゴリオ爺さん (Le Pére Goriot, 1835) 。「父性のキリスト」と称されるゴリオ爺さんのように、愛する娘に「与えるばかり」をモットーに、父の日はむしろ娘さんに贈り物をするのもアリかもしれません。

出典:バルザック著/平岡篤頼訳 『ゴリオ爺さん』 新潮文庫、平成十八年34刷

 

★     ★     ★

製粉業者として財を成し、パリの上流階級に二人の娘を嫁がせたゴリオ爺さん。舞踏会だの、晩餐会だの、セレブの社交界で娘たちの虚栄心を満たすのに必要な大金を援助してやるため、自分は薄汚い下宿の最下等の部屋で爪に火をともすような倹約生活に甘んじています。

そんなゴリオ爺さんに娘たちは感謝をするどころか、労働階級の垢抜けない父親の存在を疎んじ、お金をせびる時でもない限り会おうともしません。ツンデレとかそういう次元ではなく、もはや虐待に近いと言えます。それでも、父は娘が喜んでくれさえすれば自分のことなどどうでもいいのです。

「あの子たちの喜ぶのが、わしの生き甲斐じゃでな。(・・・)夕方、あの子たちが舞踏会へ行くために家を出るとき、わしが娘たちに会いに行くのが、法律にそむくとでもいうのかね?(・・・)ある晩などは、二日前から会っていなかったので、ナジー(長女)の顔を見るために、朝の三時まで待ちましたな。嬉しくて危うく死にそうでしたわい。」

(p. 204~205、下線部分は補足)

ゴリオ爺さんの娘への依存度はすさまじいものがありますが、娘を持つ父親なら、彼のこの気持ちがまったく理解できないなんてことはない筈です。けれども、ゴリオ爺さんは普通の父親とは少し違うところもあるようです。

というのも、とかく世の父親という生き物は、娘の恋人(なぜか婿というよりも)に対して奇妙なライバル心のようなものを抱き、必要以上によそよそしく接したり、自分を誇示するような態度をとったりと、ある種の威嚇めいた言動をしがちです――しかし我らがゴリオ氏は、娘に笑顔をもたらす男のためならば、喜んでその男の「長靴を磨き」、「使い走り」(p. 230)をする人なのです。

その恋人の男こそ、本作品のもう一人の主人公で、ゴリオ爺さんと同じ下宿の隣人である貧乏学生、ウージェーヌ・ド・ラスティニャックです。情熱的で心の優しい青年は、ゴリオ爺さんの苦しみを理解し労わる「親孝行の息子」の側面を持っています。

「あの気の毒な老人はずいぶんつらい思いをしてきたんだ。彼は自分の苦しみについてはひと言も言わないが、それが察しられない男がいるだろうか? よし! おれが自分の父親みたいに面倒をみてやろう、彼にうんと楽しい思いをさせてやろう。」

(p. 346~347)

もちろん、パリという人生の戦場で一旗揚げようと目論む野心家としてのラスティニャックを、優しさだけで語れるものでは到底ありません。そもそもこの小説は、そこに描かれるテーマにしても、数多くの魅力的な登場人物たちが織りなすドラマにしても、はてしなく複雑で濃厚な作品なのです。

今回はやはり「父の日」を意識した紹介文になりました。最後に――父親として、男として、日々の努力の汗に滲んだ無口な後ろ姿を、子供たちはこちらが思っている以上に理解し、感謝してくれている……僕はそう信じています。ラスティニャックがゴリオ爺さんに対してそうであったように。

それでは。

 


おすすめ文学作品リスト
https://shinovsato.biz/recommendation-list/

佐藤紫寿 執筆・作品関連の記事(更新順)
https://shinovsato.biz/category/information/works/