注文の多い「ら」抜き言葉

「食べれる」「見れる」など、いわゆる「ら」抜き言葉に対して違和感とも新鮮味ともつかないものを感じつつ、一方で日常的には普通に使ったりもしています。

最近の若者の日本語は乱れておる、と上の世代は眉をひそめ、そういう連中は古臭い、と下の世代はやり返す。年齢的に、僕は彼らの板挟みになりがちな世代なのでしょう。

年輩の方の前では意識して「ら」を抜かず、年下にはこれまた意識して「ら」を抜いて会話をしている自分がいて、我ながら気を遣っているのだなと思います。

しかし、どちらの側に対しても忖度できる人間がいないと、言葉の変化は文化として継承されません。なにも八方美人になりたくて、こんな低姿勢でいるのではない。言葉の運用にだって、哀しき中間管理職は必要なのです。

どちらが正しいとかではなく、感覚的に使い分けて楽しめるといいですね。

宮沢賢治の「北守将軍と三人兄弟の医者」という作品で、ちょっとお見せしたい箇所があります。二人の登場人物(将軍と、医者の助手)のやり取りなのですが、「ら」抜き言葉に注意して読んでみてください。

「おまえが医者のリンパーか、早くわが輩の病気を診ろ。」

「いいえ、リンパー先生は、向うの室に居られます。けれどもご用がおありなら、馬から下りていただきたい。」

「いいや、そいつができんのじゃ。馬からすぐに下りれたら、今ごろはもう王様の、前へ行ってた筈なんじゃ。」

「ははあ、馬から降りられない。そいつは脚の硬直だ。そんならいいです。おいでなさい。」

(出典は下記 p.190 ※旧仮名遣いのみ修正)

新 校本 宮澤賢治全集〈第12巻〉童話5
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さて、上記3・4番目の台詞の「下(降)りる」という動詞に注目してみると、可能の意味を表すのに「おりれる」と「おりられる」で表記ゆれしています。リズムがきれいに取れていることからも、誤植ではないと思います(ちなみに2番目の台詞の「居られる」は尊敬語なので、ら抜きはもちろん不可)。

宮沢賢治は必要に応じて、「ら」抜き言葉を効果的に使い分けていたのかもしれません。将軍の「下りれたら」は、彼の尊大で野暮ったい、そして間抜けな態度を表現するのに合っていますし、リンパー先生の助手の「降りられない」は、落ち着き払った、やや冷笑的な彼の口ぶりをイメージさせます。

賢治の生きた明治後期から昭和初期の時代だと、「ら」抜き言葉に対する世間の風当たりは今よりもっと激しかったのかな、などと想像します。ある文献によれば、ちょうど大正時代あたりから、「ら」抜き言葉が見られるようになってきたそうです。

基本的には文法ミスとされることをテクニックとして使いこなすというのは、やはり言葉を扱う人間の度量が広くないと出来ないことです。実験的な賢治だからこそ、というわけではないのですが、以下の将軍のこんな台詞一つにも、今の若い読者が予期せず楽しめてしまうものがあったりします。

「それではこれで行きますぢゃ。からだもかるくなったでなう。」

(p.196)

末尾の、感嘆の意を表す終助詞「なう」は、「のう」と読めばいいわけです。が、少し前に流行ったツイッター用語の「なう」としてそのまま読んでも、何となく意味が通じるんですよね。ただの偶然ですが、お笑いキャラである将軍の台詞としてマッチしています。

「ら」抜き言葉に話を戻します。

「ら」抜き言葉は大まかに言って、「可能」の意味を表す場合にのみ起こる現象です。例えば「見れる(=見ることができる)」は、「ら」抜き言葉です。ただし、可能の意味の他に、受け身や尊敬の意味としても用いたい場合は「ら」を抜いてはいけません。「恋人に秘密を見れる」「先生は部屋に居れる」などとなるわけです。

これならわかる図解日本語
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「可能」の意味で用いる場合のみ許容されつつある、という「ら」抜き言葉の事情を知っておかないと、十分に味わい尽くせない文章もあります。最後に、かの有名な「注文の多い料理店」の一節を読んで、今日はおしまいにしたいと思います。

料理はもうすぐできます。

十五分とお待たせはいたしません。

すぐたべられます。

(前掲書 p.34)

ここはもちろん、「たべれます」ではだめですよね。「可能」と「受け身」、いずれの意味も含む「たべれる」だからこそ、この物語のメインディッシュ的面白さが生きてくるというわけです。まだ読んだことがない方は、是非ともこの点を意識して読んでみてください。

注文の多い料理店
注文の多い料理店 (新潮文庫)
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それでは。

 

暴夜な物語

古典文学の作品をご紹介することが多い当ブログですが、短編など、ボリュームの少ない作品をよく取り上げています。

紹介文を書くうえで原典を読み返すのに自分が楽だというのが一番の理由ですが、興味を持ってくださる皆さんにとっても、なるべく手に取りやすい作品をと考えています。

源氏物語など、一度はじっくり読んでみたいけれど、原典は長いし読みにくそうだからなかなか手が出ないというのは、皆さん以上に僕自身が思っていることです。

自称ブンガク好きですが、漫画やダイジェスト本、子ども向けリライトなどにさっと目を通して、しれっと原典を読んだことにしている有名な古典がいくつもあります。

アラビアン・ナイトという名前でおなじみの『千一夜物語』もそうです。船乗りのシンドバッドの冒険や、アラジンの魔法のランプ、アリババと盗賊のお話などが有名ですよね。これが岩波文庫の完訳版だと、全13巻にも及ぶ大作です。

千一夜物語 1(完訳) (岩波文庫)
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本棚の肥やしにするには十分すぎる厚みで、全巻ずらりと並べた光景はなかなかに良い眺めでありましょう。その分、読み切れなかった場合の後ろめたさは深刻です。

その場合、同じ岩波文庫でも、少年文庫の助けを借りることを考えます。こちらは上下巻のダイジェスト版なので、ずっと早く読み終わります。

アラビアン・ナイト 上 (岩波少年文庫)
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しかし、大人としてこれでは物足りない。かの有名な「千一夜」を読破したと豪語するには、いささか心細い。確かに上記の少年文庫には、アラジンもシンドバッドもアリババも登場します。一見すると、これだけでもアラビアン・ナイトの世界を満喫している気分になれるものです。

しかし、「千一夜」の代表作だと思われがちなアラジンやアリババの物語は、アラビア語の原本にはありません。近世にフランス語や英語などに翻訳される過程で追加された、いわばおまけのような作品なのです。

そこで「千一夜」のことをもう少し網羅的に、かつコンパクトに教えてくれる本を探していたところ、こちらに辿り着きました。

千一夜物語―幻想と知恵が織りなす世界 (アテナ選書)
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少し古い本ですが、解説としてもダイジェストとしても良書です。

収録されている十数話の作品も、明らかに有名どころだけを押さえたという感じではなく、どろどろした恋愛物から、歴史・宗教色の濃い作品まで、限られた紙面でもバランスよく千一夜の世界観を伝えてくれている印象がありました。

個人的には恋愛物が好きです。ただ美男子であるというだけで他に何の取柄もないダメ男のために、自らは武装し故郷である王国の軍勢と戦い実の兄三人の首をはねた美女の物語など、唖然としました。

しかも、波乱に満ちたそのカップルが迎える結末が、「末長く幸せに暮らす」というもの。やはり物語とは本来こうでなくてはいけないと、改めて思わされました。

少年文庫の解説で読んだと記憶していますが、明治時代に「千一夜物語」が初めて邦訳されたときのタイトルが、『開巻驚奇暴夜物語』。「暴夜」と書いて強引に「あらびや」と読ませたそうですが、さっきの殺戮美女の物語などを思えば、言い得て妙な当て字ですよね。

このようにして、完訳の全集を読むことを断固拒否し、何冊かの薄い本を読むだけでも、いくらかは本家本元の世界を知った気になれるものです。本好きのアプローチとしてはもちろん悪例です。お許しください。

それでは。