戻りました。

二か月以上もごぶさたしてしまいました。

生活のための仕事とはいえ、こんなに長いこと物書きの世界を留守にしてしまっては、のこのこと姿をさらすのもさすがに気が引けます。

いつも僕をあたたかく見守ってくれた小説の神様も、今回ばかりはオカンムリと見え、てめえ、どの面さげて戻ってきやがった、なんていつになく口調も荒々しい。言い訳もそこそこに、これからは性根を入れ替えて精進いたしますから、どうかもう一度、私を小説の世界に戻らせてください。平身低頭、ゆるしを請うも、虫のいいこと言うんじゃないよ、今度ばかりはたっぷりとお灸を据えてやるから覚悟しやがれ。どこから持ち出したのか、六尺棒なんて物騒なモノをぶん回して追いかけてきた。その鬼のような形相に、神様の威厳も何もあったもんじゃなく、逃げ回っているこっちが気の毒になってきた。いつの世も、我が子を改心させようと思ったら、ここまでやるのが親心。お後がよろしいようで……

落語っぽく書いてみました(笑)。

モチーフは「六尺棒」という古典落語で、夜遅くに酔って帰った道楽息子に怒り心頭の父親が、六尺棒を持って我が子を追いかけまわすという話。下記のダイジェスト本に面白い話がたくさんあります。

滑稽・人情・艶笑・怪談 古典落語100席 (PHP文庫)
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ようやく、創作活動を再開できそうです。ブランクが長すぎて変な文章しか書けませんでしたが、少しずつ慣らしていきたいと思います。皆さま、どうか引き続きよろしくお願いいたします。

それでは。

 

忘れてはいけない、忘れられない。

ブンガクの世界に閉じこもっている。それだけが理由ではないけれど、現実に痛ましい出来事が多すぎる世の中で、そのつど自分の気持ちを露わにすることにも嫌気がさす。

そんな僕でも、何か言わずにはおれないこともあります。

先日、NHKのドキュメンタリー番組で、九州大学の研究室で自殺したとみられる元大学院生の事件を見ました。たしか以前にも放送されていて、そのときも、番組を見た後、思い起こすたびに涙が止まらなくなり、それが一週間くらい続いたのを覚えています。

非常勤講師の仕事やアルバイトをかけもちし、奨学金などの借金を背負い、ぎりぎりの生活に耐えながら、それでも研究に一生を捧げようとした、その人の死が、僕のような半端者の物書き風情の共鳴するところとなったことは、故人にしてみれば迷惑な話かもしれませんが。

少し、僕自身のことを話します。

大学・大学院と、文学を専攻していました。修士課程の最後の年、学位論文執筆のさなか、このまま博士課程に進学し文学の研究を続けるか、自分で文学作品を生み出す道に進むか、迷った時期がありました。

大学講師か、小説家か。僕の能力ではいずれも茨の道に変わりはない、何とも無謀な二択でした。もとより、博士号を持っている人でも正規雇用の研究職に就くのが容易ではない状況は、僕が現役院生の当時(2000年代前半)でも周知のことだったので、生活の安定は望めない可能性もいくらかは覚悟していました。

望みの薄い二択なら、やりたいことをやって絶望したい。小説を書くことが夢でした。だから僕は修士課程までで研究生活を終えると、非正規やフリーランスとして食いつなぎながら物を書いてゆく人生を選びました。実際は、食うための生活、奨学金やローンの返済に追われて思うように執筆時間が取れず、著作も10年の活動期間で2冊きり。それでも後悔はしていません。

もしもあの時、夢を諦めて経済の安定にすがる算段のみで博士課程に進み、研究職を志していたら――卒業後、専任のポストに至らず、非常勤やアルバイトだけで糊口をしのぐ日々が続いていたら――皮肉にも、今よりなお苦しい状態になっていたかもしれない。九州大学の事件を知って、改めてそう思いました。

あの元大学院生にとっては、研究こそが生き甲斐であり、人生のすべてだったはずです。その夢が、非正規・貧困という条件付きでしか叶わなかった状況でも、たとえ終わりのない苦悩から抜け出せなくても、己の選んだ道を力尽きる直前まで貫いた。事件の面影に滲んだその生き方に、胸が痛みます。

こんな人が報われない世の中はまちがっている。頑張っている人間が評価されないのはおかしい。はばかりながら、どこか似ていると言えば似ている人生を歩んでいる人間として、単にそう嘆くことしかできないのが残念でなりません。

そして何より、番組が伝えた、他者への思いやりに満ちた故人の人柄を感じさせるエピソードの数々に、僕は涙しました。結果として事件を起こしてしまったとはいえ、多くの人から愛される人物だったことは、疑いないと思うのです。

今後、同じような悲劇が繰り返されないために、個人としても社会としても何ができるのか。

ただ言えることは、あなたの分まで、頑張らなくてはいけない――勝手ながらそう誓い、はかり知れない苦しみを自分なりに少しでも引き継ぎ、悲劇の爪痕なんかではなく、ほんのわずかな希望やなぐさめでもいいから未来に残したいと思っている人間が、ここにも一人いるということ。どうか、安らかに。

それでは、今日はこれで失礼いたします。