定員のない狭き門

『フランス小ばなし集』という古い民話集を読んでいたところ、「聖ペテロの母親」というコルシカ島の民話が目に留まりました。

ペテロといえば、キリストの一番弟子であり、初代ローマ教皇とされている人物です。ところが、かの聖人ペテロの母親がなんと生前は性悪女だったと、そのコルシカ民話は伝えていたのです。

民話によると、死後、地獄に落ちてしまった母親を憐れんだ聖ペテロは、主イエス・キリストに母親を天国に入れてくれるよう懇願します。彼女が生前、何か一つでもいいから善行をしていなかったかと尋ねられたペテロは、彼女の生前の全記録(閻魔帳みたいなものでしょうね)を調べます。

さんざん探しまくった挙句、彼女は餓死寸前の男にネギの葉一枚だけを恵んでいたという、どうにか善行と呼べなくもない功績が見つかりました。よかった、俺のおっかさんも生粋の鬼婆ではなかった! 喜び勇んで報告したペテロはキリストの許しを得ると、さっそくネギの葉を天上から地獄の底までロープのように長く垂らし、それに掴まるよう母親に声をかけます。

ところが、ネギの葉を掴んで引き上げられていく母親に、他の罪びとたちも次々としがみつきます。これに腹を立てた母親は、彼らに足蹴りをくらわせるのです。ああ、そんな乱暴しないで、お友だちも一緒に上がらせておやりなさい、そう母親を諭すペテロ。

しかし彼女は息子の言うことに聞く耳を持とうとしません。横からひしひしと感じる、キリストの冷ややかな視線。やんぬるかな、ネギの葉を持った手をそっと離す、憐れな聖ペテロ……

ちなみにこの話に似た有名な小説が日本の古典にもありますよね。芥川龍之介『蜘蛛の糸』です。なお、芥川が『蜘蛛の糸』を書くにあたって直接の題材としたのはこのコルシカ島の民話ではなく、別の作品とされています。

蜘蛛の糸
蜘蛛の糸・杜子春
(↑書名をタップ/クリックするとAmazonの商品ページにリンクできます。)

 

どの作品かというのは諸説あるようですが、そのことについては勉強不足の僕が語っても仕方ありませんので、話をコルシカ民話に戻します。

「聖ペテロの母親」のようなキリスト教にまつわる民話や伝説は、類似の話がヨーロッパのいたるところで昔から数多く語り継がれていることは想像にかたくありません。スウェーデンの作家セルマ・ラーゲルレーヴSelma Lagerlöf, 1858-1940)の『キリスト伝説集』にも、「わが主とペトロ聖者」という作品が収録されています。

この短編がコルシカ民話「聖ペテロの母親」を題材にしたものなのか、そこまでは調べていないので分かりませんが、話の筋は概ね一緒です。『蜘蛛の糸』も含めて、国や時代を超えたそれぞれの作品に接点や繋がりがあるのは、ブンガクの面白いところだと改めて思います。

さて、コルシカの民話と大きく異なる点として、ラーゲルレーヴの「わが主とペトロ聖者」では、ペテロの母親は息子の差し出すネギの葉ではなく、キリストに遣わされた天使によって地獄から引き上げてもらうのです。

ペテロはキリストとともに天上からそれをじっと見守るわけですが、ここでも容赦なく性悪な人間に描かれる母親は、やはり自分だけ助かろうとして、彼女にしがみついてくる大勢の亡者たちの手を無理やりもぎ離そうとします。

このときペトロ聖者は声をあげて、おっかさん慈悲をかけて、と訴えたが、母親はすこしも耳をかそうとせず、同じしわざをつづけていた。

(『キリスト伝説集』岩波書店, p.304 ※1985年出版の大活字本による)

我が子が自分のためを思って心を砕きながら進言しているのに、まったく受けつけようとしない親。老いては子に従うべし、などと言いますが、いつの世にもありがちな親子関係の難しさですよね。

コルシカ島の民話もラーゲルレーヴの作品も、悪人は地獄に落ちるという単純な教訓ではなく、むしろ「どうしようもない親を持つ子どもの苦悩」に焦点を当てているように感じます。母親を引っぱり上げ(てから落とす)のが息子本人でない分、ラーゲルレーヴの方がペテロに対して同情的な視点で物語を描いているように感じます(あるいは真逆の解釈もあるかも)。

天使は深い悲しみの目で老婆を見おろすと、そのからだを支える手がゆるみ、そして天使は老婆を落してしまった、いまひとりきりとなってしまった老婆は、天使には持ちきれぬ重荷とかわりでもしたように。

(p.305)

天使には持ちきれない重荷、というのがとても意味深ですよね。物理的な重量でいえば、おそらく天使は何人でも楽々と抱え上げることができたはずなのに、たった一人の人間の心の醜さが生み出す「重さ」がもたらした悲劇の、なんと大きなことか。

天国というものが存在するのか僕には分かりませんが、もしあるとすれば、そこに定員はなく、必要なのは当人の心がけ一つということでしょうか。つまるところ、あの世でもこの世でも、人間として大切にすべきことは同じということですかね。

長くなりました。今日はこれにて失礼いたします。

 

一期一会、だからこそ

ある本や作者が注目を浴び、世間を賑わすたびに、人々は挙ってその著作を手に取る。

普段は本を読まない人たちでさえ、何かの大きな流れに身を任せるようにして、必要経費の名目で財布の紐を緩め、取りあえず目を通してみる。

店頭の書棚に次々と現れては消えていく、話題の本たち。

発売からほどなくして、新品にほぼ近いコンディション・価格で、古本屋の看板商品にしれっと早変わりしているのを目にする。

一方で、世の熱狂が過ぎ去ってもなお、その本は、ある人たちにとっては座右の一冊として残り、手垢でページが黒光りするまで愛読されることだって、もちろんある。

話題になった旬の一冊、そしてまた次の一冊を、渡り鳥のように軽やかに追いかけていく。そんな読書のスタイルも素敵だと思う。

大事なのは、手段じゃない。結局のところ、これだという一冊、この人はという書き手に出会えたなら、それが本との巡りあわせにおける何よりの幸運なのだから。

話題に乗っかって、時代の波に流されているようで、自分らしい自分、ブレない自分に予期せず辿り着けたりすることもある。ヘッセの「書物」という詩に、こんなことが書いてある。

書物はひそかに お前をお前自身の中に立ち帰らせる。

お前自身の中に、お前の必要とする一切がある、

(高橋健二訳 『ヘッセ詩集』 新潮文庫, 昭和63年第77刷, p.130)

読んでいて、心から面白いと思える本。そこから得られるのは、まったくの未知なる知識などではなく、読み手の奥底でくすぶっていた自身の可能性が文字として具現化された、その懐かしさにも似た共鳴の喜びだ。

書物とは、自分の姿を映し出す鏡。読書とは、新しい発見ではなく、自分との再会。

数多くの本の中から、もしもそんな一冊に出会えたなら、世の中の流行り廃りからはちょっとだけ距離を置いてみたい。そして、その作者の書いた他の作品も、片っ端から読んでみる。

あなたをほんとうにとらえて離さない作者を見つけたら、その人の全著作をお読みなさい。(・・・)これと決めたひとりの作者があなたに与えてくれるものを読む。(・・・)こうするうちに、あるひとつの観点から見た世界像が見えてくるのです。

(飛田茂雄訳 『神話の力』 早川書房, 2019年第8刷, p.220-221)

神話の力
神話の力
(↑書名をタップ/クリックするとAmazonの商品ページにリンクできます。)

 

情報過多の時代、人も本も、一期一会の出会いが飽和状態で提供されている今だからこそ、これはと思った一冊を、一度きりの人生の大切なきっかけにしたいもの。

大好きな作家を、まずは一人、思い定めてほしい。そしてその全作品を、心ゆくまで読み尽くすべし。秋の夜長の、読書のススメです。

それでは。