前回(2)の続きです。
長編小説『絵描きのサトウさん』は完成しましたが、これをもってその方からのご恩に報いたとはとても言えません。それは気持ちの問題ばかりでなく、その方と二人三脚で練り上げていこうとしていた作品が、実はもう一つあったからです。
『絵描きのサトウさん』
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目下、新約聖書のエピソードを題材にした、発表されれば2作目となる予定の長編に取りかかっています。この作品も7年前には構想が出来上がっていて、書きかけの「サトウさん」同様、その方に何度も相談にのっていただきました。
最初の短編集『felicidad フェリシダ』収録の「水辺に献ぐ」もそうですが、この系統の作品が僕にとって創作の一番のモチベーションになっています。無宗教の人間なので信仰心はないのですが、聖書は読み物として面白いと思います。太宰治が聖書を「サイレント」と表現したように、端的で無機質なエピソードにひそむ人間ドラマに対して想像力を刺激されるわけです。
『felicidad フェリシダ』
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話を戻して、その聖書モチーフの長編の概要をその方にお見せしたところ、こちらもさっそく様々なアドバイスを授けてくださいました。作中の情景描写の話になると、「砂ぼこりがすごく歩けば足に砂がつき、家に入れば水洗いしたのだろうか」、「今は灌漑技術が発達しているが、昔の農地はどんなだったのか」、「飲み水の環境はどうだったのか」等々、もはや作者本人よりも作品世界に没入されていました。
その時代・生活環境をどれだけ臨場感をもって語れるかというのは、僕自身も大切にしてきたことです。しかし理論として律義に守っているだけの僕とちがい、その方は心からフィクション世界の住人になりきって思いを馳せていました。筆が進まないのは頭でっかちのせいだと痛切に自覚していた僕は、その方を羨ましく思ったものです。
お互いに関係性の深い立場において、編集側が書き手に転身するというのは当然あるわけですが、僕にかかわってくれたその編集者の方も、僕なんぞよりはるかに作家としての(経験までは分かりませんが)適性があると思いました。編集者というポジションから、どんな心境で僕に助言をしてくださったのだろう。ふと、要らぬことを考えたりもしました。
「近くて遠い存在」ということを思うとき、『絵描きのサトウさん』の語り手とサトウさんの関係性がまさにそうであることは、物語の完成にかかわってくれた人と僕自身とのそれと決して無関係ではない――少し気障かもしれませんが、こんな押しつけがましい思い込みも、これからますますよい思い出になっていきそうな予感がします(笑)。
今、その方は同じ業界にいらっしゃるのか、あるいは当時のメールの文面からにじみ出ていた老練研究者のような雰囲気からすると、すでにリタイアされたのかもしれないとも思い、いずれにしても、お元気でいてくだされば何より嬉しいです。
約束は道半ば。もう一つの長編を完成させることを目標に、これからも書き続けます。その節は、大変ありがとうございました。改めて、この場を借りて御礼申し上げます。
それでは。