戦利品(埃やカビとの戦い)

実家のあれこれを片付けていたところ、古本が出てきました。

古本1

父親(か叔父さん)が子どもの頃に読んでいた本のようです。

こういうのも読んでたんか、って今さら驚くくらい、家族とは本の話は全くしたことがなかったですね。

古本2

乱歩もありました。表紙絵がまた、ザ・レトロでいいですねえ。

左の人物ばっかり、カメラが顔認識しようとがんばってました(笑)。

古本3

奥付によると、昭和38年発行。今からちょうど60年前ですね。

僕も小学生のときに図書館でポプラ社のぼろぼろの蔵書を全シリーズ読みました。多分それよりも古い版ですね。定価200円ですって。

古本4

お、真理先生だ。これは僕も大好きな本です。

文系ですらない父親や叔父さんが、少年時代に同じ本を読んでいたなんて、血は争えません。

ページをめくるたびに目が充血して、鼻水がたれてくるのは、はたして埃やカビのアレルギーのせいでしょうか?

 

戦利品のお披露目でした。

それでは。

 

(↓こちらもどうぞ)

#19 武者小路実篤 『真理先生』 ~自分らしく生きる~

 

#68 ガルシア=マルケス 『予告された殺人の記録』 ~誰のせいでもない悲劇の中心~

「おすすめ文学 ~本たちとの出会い~」

第68回目。ラテンアメリカの文学としては初めてのご紹介(のはず)。運命とは自分の意思や行動で変えられるものなのか、それとも見えない力によって決定づけられているものなのか、そんなことを深く考えさせられる作品です。

予告された殺人の記録
予告された殺人の記録 (新潮文庫)
(↑書名をタップ/クリックするとAmazonの商品ページにリンクできます。)※画像は単行本の書影です。

 

★     ★     ★

#68 ガルシア=マルケス 『予告された殺人の記録』 ~誰のせいでもない悲劇の中心~

コロンビアの作家ガブリエル・ガルシア=マルケスGabriel García Márquez, 1928-2014)の中編小説をご紹介します。1951年、作者自身もかつて暮らしていた南米の田舎町スクレで実際に起きた殺人事件を題材とした作品で、冒頭からすでに確定している主人公の死――そこに至るまでの顛末が、作者が影響を受けたというフォークナー(→おすすめ文学#26)を彷彿とさせる時間軸をばらばらに切り分ける独特の手法によって、おびただしい数の登場人物の証言をまじえながら、現実と非現実・真実と嘘が交錯するパズルのピースによってつながり合い、複雑怪奇に語られます。

出典:G・ガルシア=マルケス作/野谷文昭訳 『予告された殺人の記録』 新潮文庫, 平成28年第17刷

 

★     ★     ★

舞台はカリブ海地方のとある田舎町。21歳の若者サンティアゴ・ナサールが殺される1時間半前から、物語はスタートします。昨晩から続く町をあげての結婚披露宴の熱気からひとまず解放され、その朝に祝福のため船で町にやってくる司教を迎えるまでの間、町はほんの一時の静けさに包まれていました。

司教が行う華やかな教会の儀式を楽しみにしていたサンティアゴは、昨夜のどんちゃん騒ぎによる寝不足も物ともせず、きちんと礼服を着て早々に出かけようとします。しかし、あと2時間足らずのうちに帰らぬ人となる運命のサンティアゴに向かって、彼の母親はもの憂げにこう言います。

「(司教は)船から降りて来やしないわ」
「型通りの祝福を、いつものようにね、そうしたらまた引っ返してしまうわよ。この町を嫌ってるもの」

(p.12)

町全体が神から見捨てられているのだと言わんばかりの彼女の象徴的な台詞は、この後すぐに起こる惨劇を暗示しているようでした。いえ、暗示だけでなく、実際にこの町の人々の多くは、サンティアゴが命を狙われていることを事前に知っていたのです。

サンティアゴを殺したのは、目下行われていた婚礼の新婦であるアンヘラ・ビカリオの兄で、双子のパブロペドロ。殺害の理由は、結婚初夜にてアンヘラが処女ではなかったことが発覚し、彼女の操をけがした相手の男がサンティアゴ・ナサールであるとアンヘラ自身が告白した、というものでした。

その告白が真実かどうかという疑問が後々まで残るものの、妹を辱められた怒りに燃えるビカリオ兄弟は、サンティアゴへの報復を決意します。それは彼が殺される、ほんの数時間前のことでした。二人は屠殺用のナイフを家から持ち出し、人々がぼちぼち出勤し始める明け方の肉市場に行き、何人もの人間に目撃されながら堂々とナイフを研ぎ、彼らにこう言いました――おれたちはサンティアゴ・ナサールを始末するんだ(p.63)。

けれども普段は善良な人間で通っているビカリオ兄弟について、

誰も彼らの言葉を気にかけなかった。「おれたちは、酔っ払いのたわごとだと思ったんです」(・・・)その後彼らに会った多くの人々同様、何人もの肉屋はそう証言している。

(p.63)

突拍子もない殺害予告でしたが、あるいは本気かもしれないと訝しんだ一部の人々の中には、ビカリオ兄弟に馬鹿なことを思いとどまらせるため、警官に知らせたり、そんなことは止せと直接進言したりする者もいたのです。

そんな中、サンティアゴを待ち伏せるため、教会に面した広場の牛乳屋に入ったビカリオ兄弟は、その店の女主人クロティルデ・アルメンタや、牛乳を買いに来た警官に対しても、あけっぴろげに彼らの計画を話してしまいます。直ちに警官から報告を受けた町長のラサロ・アポンテ大佐も一応は店に顔を出すのですが、まだ居座っていたビカリオ兄弟からナイフを取り上げ、もう帰って寝ろとだけ告げると、二人を野放しにしたまま一件落着としてしまったのです。

ビカリオ兄弟は自分たちの計画を、牛乳を買いに来た十二人を超える人々に話した。その客たちによって広められたため、彼らの計画は六時前には町中に知れ渡っていた。(・・・)そこで彼女[クロティルデ・アルメンタ]は、誰かれかまわず、彼[サンティアゴ]を見かけたら用心させるように頼んだ。

(p.70)

もはや自分たちの犯罪を未然に防いでもらうため、それこそ誰かれかまわずアピールしているとしか思えないビカリオ兄弟。そのあまりにも非現実的で芝居じみた言動に、聞く側もリアリティの感覚を失うのでしょうか、結局は町の住民の誰一人として、サンティアゴの公然と予告された死を阻むための決定的な行動を起こすことができなかったのです。

あと数時間のうちに、この町に身の毛もよだつ惨劇が繰り広げられる。わたしたちの誰もが、すでにそれを知っている。それでも神よ、あなたは止めてくれないのか。わたしたちのうち誰かを導いて、止めてくださることはできないのか――「神の不在」を嘆く人々の声が聞こえてくるようです。

面白がって傍観しているわけではないが、率先して止めるわけでもない。学校や職場など集団の中でのいじめもそうかもしれませんが、周知の事実だからこそ、誰もがそのことに対して主体性を失い、誰かに判断を委ねてしまう。自分が関わるべきだ、それが自分の役割だという発想には辿り着かない。事態を点と点で結ぶのではなく、平面で共有することで、責任の所在がうやむやになってしまう。

犯行を阻むために何かできたはずでありながら、それをしなかった人々の大方は、名誉にかかわる事柄は、当事者しか近づくことのできない聖域であるということを口実にして、自らを慰めた。

(p.115)

精神に異常をきたす者、身を持ち崩す者、病気になる者……物語は彼らの辿るその後の人生に様々な困難を描いています。そんな町の人たちを、僕は責める気にはなれません。何かの渦中に率先して飛びこんで行くことの難しさは、個人の勇気の欠如とか思いやりのなさとか、いつもそんな単純なことで説明できるとは限らないからです。

程度の差こそあれ、誰もがサンティアゴやビカリオ兄弟を救いたいと願い、しかしそれができなかった。そのことが彼らの心の傷になっていることが、彼らの誰もが善良で誠実な人間であることの何よりの証になっている。それでも悲劇が起こってしまうことが、この世界の悲劇なのだと思います。

自分たち一人一人のどんな些細な行動も、ある出来事の結末にかかわっている(否、かかわってしまう)。プリーストリー『夜の来訪者』(→おすすめ文学#43)にも通じる世界観だと思うのですが、何か大きな流れに巻き込まれて生かされ(殺され)ているような漠然とした感覚を、本作品は僕たち読者に冷徹に知らしめているようにも思えます。とても難しいテーマですよね。

今回はここまでにします。ガブリエル・ガルシア=マルケス『予告された殺人の記録』を、是非とも読んでみてください。

それでは。

 


おすすめ文学作品リスト
https://shinovsato.biz/recommendation-list/

佐藤紫寿 執筆・作品関連の記事(更新順)
https://shinovsato.biz/category/information/works/