#48 コリンズ 『グレンウィズ館の女主人』 ~悲しみと慈しみの番人~

「おすすめ文学 ~本たちとの出会い~」

第48回目。ウィルキー・コリンズの短編の中で僕がいちばん好きな作品をご紹介します。ちなみに今年初の投稿です。新年のごあいさつが遅れたことをお詫び申し上げようにも、遅すぎるが故に言わぬが花の、すばらしい1年のスタートです(笑)。でも、どうせ時間に置き去りにされるなら、とことん置き去りにされていたい。過去に留まる人間だけが語れる「今」を、2019年も貫きたいと思います。

夢の女/恐怖のベッド―他六篇 (岩波文庫)
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#48 コリンズ 『グレンウィズ館の女主人』 ~悲しみと慈しみの番人~

イギリス推理小説の元祖とも言われるウィルキー・コリンズWilkie Collins, 1824-89)ですが、彼の作品のいちばんの魅力は、ヒューマニティあふれる人物描写にあります。作中にいくつかの謎をちりばめ、物語の進展とともに伏線を回収するという現代にも通ずるミステリーの要素は、はかなくも美しい古の人間ドラマの味わいを引き立てる小道具でしかない…そう思います。

出典:ウィルキー・コリンズ作/中島賢二訳 『夢の女・恐怖のベッド 他六篇』 岩波文庫, 2006年第3刷

 

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舞台はイギリスの片田舎。農村のはずれに、蔦におおわれた古い屋敷が建っています。「グレンウィズ館」とよばれるその屋敷のあるじの名は、ミス・ウェリン。慈悲深い人柄で近隣の小作人たちにも慕われている彼女ですが、深い悲しみの過去を背負い、時代の流れに心を閉ざしたまま、館の中でひっそりと日々を過ごしているのです。

ミス・ウェリンの屋敷を訪ねることを許されている数少ない人たちは、彼女の心と同様に時の止まったままの部屋の内部を目にします。書棚には流行りの本は一冊も置かれておらず、壁を飾る絵画も、楽譜台の楽譜も、みんな昔のものばかりです。

つまり、これらの物の所有者は、過去の中にのみ生きている、過去の記憶、過去を連想させるものの中にのみ生きている、そして、現在と関連のある全てのものからは、自らの意思で身を引いて生きている(・・・)。

(p.91)

そんな謎めいた女主人の過去を、僕たち読者に愛情を込めて語ってくれるのは、彼女の古くからの友人ガースウェイト氏。物語は、ミス・ウェリンがアイダという少女の名で知られていた頃にまでさかのぼります。

感受性豊かで物静かな性質のアイダは、一緒に遊ぶ友だちやきょうだいもおらず、最愛の母親を唯一の友として十一歳まで過ごしてきました。しかしその年、母親は二人目の娘ロザモンドを授かると、そのわずか二、三か月の後にこの世を去ってしまうのです。

たった一人の心の支えであった母親の死に直面し、その悲しみとともに彼女の意思を継いだアイダは、自らの早すぎる青春をも捨て去り、幼い妹ロザモンドの母親代わりとして生きてゆく道を選びます。ガースウェイト氏は、その頃のアイダを次のように回想しています。

少女は自分の前に赤ん坊を支えて立たせていました。歩く練習をさせようとしていたのです。子供の私にも、そのような仕事を引き受けるには、彼女自身がまだ小さすぎるように見えました。それに、彼女の着ている黒い子供服が、彼女のような小さな子供には、不自然なほど重々しい服のように見えました。

(p.100)

アイダとて、年頃になれば自身の花の盛りを謳歌したかったはず。けれども彼女は持ちかけられた縁談をすべて断り、妹のロザモンドを教養豊かなレディに育て上げるため母親の役割に徹し続けたのです。アイダが一人の女性として胸に秘めていたであろう、おそらく彼女自身も忘れかけていた寂しさ――そのもっとも身近な共感者であるべきロザモンドは、まだ若く、そして守られる者ゆえに無知でした。

かくしてアイダの自己犠牲的な努力は実を結び、ロザモンドはロンドンのみならずパリの社交界にもデビューし、やがてフランヴァル男爵というフランス人貴族と出会います。男爵は若くして故郷のノルマンディーを出たのち、15年の歳月を経て財を成し凱旋帰国したという、社交界がこぞって注目する人物でした。

ロザモンドにとってこの上ない相手と思われたフランヴァル男爵。しかし、彼の非の打ちどころのない紳士然たる物腰に皆が称賛の意を表する中で、語り手のガースウェイトとアイダだけは、男爵に何やら得体の知れない不穏なものを感じ取っていました。

彼はどんな些細なことを口にする場合でも、心に何かを隠している人物という印象を私に与えました。(・・・)私がアイダに、彼に対する私の印象を打ち明け、彼女にも率直なところを言ってみてほしいと迫ったとき、彼女も、そんな私の気持ちを認めるようなことを言ってくれたと記憶しています。

(p.111)

二人の心配をよそに、ロザモンドはフランヴァル男爵と結婚します。花嫁の希望もあり、母親代わりの姉アイダも夫婦とともに館で暮らすことになりました。そんな中、男爵の度重なる不振な行動、そして彼の正体が、少しずつ明るみに出てくるのです。

しかしロザモンドは、今や出産を間近に控えている。アイダは妹の夫への疑念を何度頭から振り払おうと思ったことでしょう。しかしその不安は、その後の彼女自身の悲しみに満ちた運命を決定づける形で、不幸にも的中するのでした。その悲劇の全容は、皆さんどうか作品を読んで確かめてください。

悲劇から十年後の現在、アイダはある「幼い少女」の面倒を見ながら、グレンウィズ館の女主人として一人寂しく暮らしています――今はもうアイダではなく、僕たち読者の記憶に永遠に刻まれるところのミス・ウェリンとして――おそらくは死が彼女を憩わせるその日まで、過去に置き去りにされた「今」という時を、ひっそりと生き続けてゆくのでしょう。

……けれども、悲しみに暮れ孤独に生きているどんな人間にも、心ひとつでそっと寄り添い、陰ながら見守り続けてくれる者はきっといるはずです。語り手のガースウェイト氏が物語の最中に思わずこぼした率直な台詞が、僕にはとても印象に残っています。最後にその台詞を引用して、今回はおしまいにします。

私はアイダがとても好きでした。たぶん、今思う以上に本気で好きだったんだと思います。でも、そんなことはどうでもよろしい。

(p.108)

 

それでは、また。

 


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一酔千日 ~今年もありがとうございました~

今年も残すところあとわずか。ようやく一息つけました。

とりあえず、飲みましょうか。

フォアローゼス1

今年は、どんな一年でしたか。

いえ、どんな一年なんて、無理やりこの時期で区切ることもないですよね。

どこで区切りをつけるかは、人それぞれ。年の瀬だろうと何だろうと、誰かが何かの目標に向かって走り続けているのなら、その人は他のみんなと一緒に立ち止まることもないわけです。

フォアローゼス2

その反面、ことあるごとに立ち止まりたくて仕方がなくなる時もある。僕だけじゃないはずです。

信じる生き方は、ある。でも、その周りに確固たる現実があって、そのまた周りに時代があって――視野を広げれば広げるだけ、ただでさえちっぽけな自分自身を見失う。

そうして本当の自分を見つめ直すために、あえて背伸びをして壁に挑み、よじのぼり、その先に見えてくる未知なる自分の姿――信じた可能性の分だけ幾重にも屈折した自身の姿を、万華鏡のようにのぞき込む。

故に、美しきかな、この世界(笑)。

複雑さを楽しもうとすれば、いくらかは救われるようです。みんな、この複雑さを楽しんでいるのかな。それならそれで、人のたくましさだと言い切った方が、むしろ希望が持てますからね。

イタリアの作家ブッツァーティの短編「神を見た犬」を、ふと思い出しました。

道路開通式
七人の使者・神を見た犬 他十三篇 (岩波文庫)
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神を信じない町の住民たちが、神の存在におびえるという奇妙な話。

本当は自堕落な生き方をしたいのに、信じる気もない神の罰におびえ続け、しかもそのことは互いにひた隠しに隠し、何食わぬ顔で生きている人間たちが描かれています。

こういうのって、すごく現代的だと思います。

でも、こんなふうにして幾重にも心に膜を張らなければ、人は生きていけないのかもしれませんね。

結局のところ、誰にも理解されない「かもしれない」、自分の中の核、本当の自分を守るために。

フォアローゼス3

お酒をいただいている時は、それでもいくらかは素直になれるような気がしませんか?

特に一人で飲んでいる時にふとこぼれ落ちる一言が、何よりも真実味のある今の自分の有り様を言い得ている。

でもそれは、誰も聞いていないからこそ言えることだし、夜が明けて眠りから覚めれば、口にした本人もけろりと忘れている。

フォアローゼス4

少し飲み過ぎて、グラスの周りに妖精が見えてきました。今日は、ぐだぐだ書かせていただきました。

それでも、節目で立ち止まり、世の中の喧騒のさなかで自分自身を静かに見つめ直していたい。そう思っている誰かのためにこんな文章を書いてみました、などと言ったなら、少しは喜んでいただけるものでしょうか。

酒の肴にもならんですか(笑)。

それは失礼いたしました。でもこれこそが、僕の書いているもの。これからも書き続けていきたいものですから、どうぞ悪しからず。

あとはもう、何も考えないで、ゆっくり休みましょう。あたたかくしてお過ごしください。

今年も一年、誠にありがとうございました。

それでは、また。