#63 W・アーヴィング 『リップ・ヴァン・ウィンクル』 ~老いは万代の宝~

「おすすめ文学 ~本たちとの出会い~」

第63回目。「時代遅れ」「寝てばかりいる人」という意味で使われる言葉、リップ・ヴァン・ウィンクル(Rip Van Winkle)。その由来となるのが、今回ご紹介する同名の短編小説。アメリカ版浦島太郎とも言われている物語で、日本の浦島さん同様、本作品の主人公リップも愛すべき好人物です。

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#63 W・アーヴィング 『リップ・ヴァン・ウィンクル』 ~老いは万代の宝~

19世紀前半に活躍したアメリカの作家、ワシントン・アーヴィングWashington Irving, 1783-1859)の作品集『スケッチ・ブック』に収録されている短編「リップ・ヴァン・ウィンクル」をご紹介します。一晩のつもりが20年も眠り続け、世の中の劇的な変化に置いてけぼりにされながらも、自分らしさを失うことなく自分の居場所を見つけて生きる呑気な男の、どこかほっとさせてくれる物語です。

出典:ワシントン・アーヴィング作/吉田甲子太郎訳 『スケッチ・ブック』 新潮文庫,平成12年第33刷改版より, p.37-67「リップ・ヴァン・ウィンクル」

 

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舞台は18世紀後半、独立前のアメリカです。キャッツキル山脈(作中表記はカーツキル山脈。ニューヨーク州に位置するアパラチア山系の支脈)のふもと、ハドソン川近くのとある村――この地がまだイギリスの領地であった頃、そこにリップ・ヴァン・ウィンクルという、怠け者だが心の優しい男が住んでいました。

オランダ移住民ヴァン・ウィンクル家の子孫であるリップは、その由緒正しき血脈を誉れとするにはいささか頼りない人物――世の中の動向にあまり関心がなく、自分や家族のためにあくせく働くことを嫌い、たとえ貧しくとものんびりと心穏やかに生きることを信条とする、人のよさだけが取り柄のしがない中年男でした。

彼は近所の人には親切で、また、女房の尻に敷かれた従順な亭主でもあった。じっさい、この女房に頭があがらないという事情のおかげで、あんなに気立てが優しくなり、だれにでも好かれるようになったのかもしれない。

(p.40-41)

リップは自分の仕事はサボってばかりなのに、他人のためならどんな頼みごとも喜んで引き受ける人間でした。家では妻から働け働けこの甲斐性なしと怒鳴られっぱなしの気の毒なダメ夫ですが、誰にも見返りを求めない、いい意味でぼんやりとした彼の無垢な人柄は、村じゅうの老若男女から非常に好かれていたのです。

ある日のこと、妻の小言に耐えかねたリップは、おもむろに猟銃を携えると、愛犬ウルフを連れてカーツキル山脈の森に避難しました。美しいハドソン川をのぞむ丘の上で寝ころんで時間をつぶしていると、夕刻、谷底の岩場を歩いている見知らぬ老人から声をかけられます。

背の低い角ばった体格の老人で、(・・・)服装はずっと古いオランダ風で、(・・・)酒がいっぱい入っているらしい頑丈な樽をかついでいて、こっちへきて荷物に手をかしてくれとリップに合図した。

(p.49)

他人の頼みを断れないリップは、まるで大昔の自分たちの先祖のような風貌の怪老人の荷物持ちを引き受けました。やがて二人は渓谷の奥の窪地へとたどり着きます。そこでは、怪老人と同じような古風な衣服を身にまとった男たちが、酒を飲みながら黙々とナインピンズ(テンピン・ボウリングの起源とされる)に興じているのです。

暗い森の奥深く、男たちの無言の饗宴に恐れおののきながらも、リップは老人の持っていた樽酒を一口、また一口と盗み飲むうちに、いつしか酔いがまわりその場に眠り込んでしまいます。目を覚ますと辺りには誰もおらず、お供のウルフの姿もありません。手入れの行き届いていたはずの持参の猟銃も、まるで何年も放置したかのように錆だらけになっていたのです。

村に戻っても、馴染みの顔ぶれは一人も見当たらず、人々の服装も何やら変わっている。そしてなんと、中年の自分が、顎髭の伸びた老人へと変わっていることに気づいたのです。我が家は荒れ果てて廃虚と化し、人の気配もない。村人たちからは不審者扱いされる。かみ合わない問答の末、ようやく一人の老婆がリップの顔を見て言いました。

「たしかにそうだよ。リップ・ヴァン・ウィンクルさんだよ。あの人だよ。よくまあお帰りなさった、あんたさん。ほんにまあ、二十年もの長いあいだ、どこへ行ってなさった」

(p.62)

彼が神隠しのような目に遭っていた間に、世の中は大きく変わっていました。独立戦争を経たアメリカはもはやイギリスの支配下にはなく、自由の国へと生まれ変わっていたのです。しかし20年間の情報が抜けているリップには、英雄ワシントンだの、ストーニー・ポイントの戦いだの、皆の言っていることがさっぱり理解できません。

ただでさえ世間に無頓着な中年男が、時代の流れにも取り残され、さらに年を取ってしまった。成長した子どもたちには再会できたが、妻は亡くなっていた。これからどうすればいいのか。何を頼りに生きていけばいいのか。いよいよ何の役にも立たない人間になってしまったかに思えたリップ老人ですが、意外な第二の人生が彼を待っていました。彼は、

以前の親しい友達を大ぜい見出したが、みなどうやら寄る年波で弱っていた。そこで彼は好んで若い人たちと交わるようにしたので、間もなく彼らから大へん好かれるようになった。(・・・)これといって家でする仕事もなく、怠けていてもどうこういわれぬ、いわゆるありがたい年齢にもなっていたので、(・・・)村の長老の一人として敬われ、「独立戦争前」の古い時代の年代記として崇められた。

(p.64)

戦争について語ることができなくても、戦争を知らないが故に、それ以前の時代を彼自身の純粋な視点でまっすぐ振り返ることができる、そんな唯一無二の語り部に、リップはなっていたのです。他人に対して垣根を作らないという彼の人柄が、若い世代とも打ち解け、人々に自ずと聞く耳を持たせたということも想像に難くありません。

知識も経験も乏しくたって、何だか寝ぼけたことばかり言っていたって、その人間味ひとつで、人は立派な生き字引になれる――「時代遅れ」のリップ・ヴァン・ウィンクルに、時代がようやく追いついたのです。じつに年を重ねるということは、それだけでその人の価値を高めるということなのでしょう。

老リップの語る歴史には戦争という惨絶な事実が欠けている分、そこから人々に襟を正させる教訓や、現実問題に対処するための知恵などを得ることはあまり期待できないかもしれません。それでも、彼の口から語られる古き良き時代に、ある種の安らぎを見出すことはできます。それが甘い夢想に過ぎないとしても、人々に愛着をもって永く語り継がれることは間違いありません。

最後に、リップが山奥で目にした、あの不思議な男たちの酒宴の光景が何だったのかということについては、是非とも作品を最後まで読んでいただければと思います。植民地時代のアメリカに渡ったオランダ人移民たちの間に伝えられた民間伝承が、物語の最後を幻想的な余韻で締めくくってくれます。

ワシントン・アーヴィング「リップ・ヴァン・ウィンクル」、おすすめいたします。

それでは。

 

RIP

痛ましい出来事とともに、社会が越えてはいけない一線を越えてしまったような、大きな喪失感をおぼえます。

これから先、自分たちの住む世界はどうなっていくのか。目を背けてはならない現実に対して、どこまで向き合っていけるのか。正直なところ、不安ばかりが募ります。

アメリカの古典「リップ・ヴァン・ウィンクル」の主人公のように、一晩のつもりが20年も眠ってしまい、目覚めた時には世の中がすっかり変革を遂げていた――そうあってくれたなら、どんなにか気が楽だろうとさえ思います。

でも、さすがにそれでは虫が良すぎますよね。自分の生きる世界を守るために、自分自身ができること、他人と手を携えてできることは、続けていくしかないのですから。

次回のおすすめ文学は、この「リップ・ヴァン・ウィンクル」を取り上げようと思います。

それでは。