#60 檀一雄 『火宅の人』 ~焼き尽くして生きる~

「おすすめ文学 ~本たちとの出会い~」

第60回目。大酒を食らう、色事に走る、湯水のように金を使う。時代が変わっても、こういう分かりやすい意味での豪快な生き方をする人間に、心の底で憧れを抱く人は多いと思います。けれども、憧れだけでは理解することができない葛藤が、彼らの内にあるとしたら――大胆で活力に満ちた波乱万丈の生き様の裏側に見えてくる弱さ、脆さ、心の叫びが、この作品には描かれています。

 


(↑画像からAmazonの商品ページに移動します)

 

★     ★     ★

#60 檀一雄 『火宅の人』 ~焼き尽くして生きる~

最後の無頼派作家と言われ、太宰治の親友でもあった檀一雄(1912-76)の代表作。好き勝手に生き、自身の流儀で人を愛し、傷つけ、ぼろぼろになりながらも己の信念を貫く男の半生を描いた物語ですが、単なる豪傑の武勇伝的な行動記録ではない、その心の裏側にひそむ苦悩や悲しみをも描破した、味わい深い長編です。

出典:檀一雄 『火宅の人(上・下)』 新潮文庫,昭和61年第16刷(上)・15刷(下)

 

★     ★     ★

主人公の桂一雄には、死別した先妻との間に1人、今の妻との間に4人の子どもがいます。次男の次郎は日本脳炎の後遺症で寝たきり、下の3人もまだ小さく手がかかる中、家のことはすべて妻に丸投げ。売れっ子作家として経済的には家族を養えているけれど、自身はあちこち飲み歩き、ほとんど家にも姿を見せません。

まさか余生を子供らに頼むつもりは無いのだから、それぞれ、勝手放題に生きてくれれば父は至極満足だ。(・・・)父は自分の生き方だってお先まっ暗の思いである。とても子供らの半生の責任までは負いかねる。

(上巻 p.11-12)

先の見えない人生、一雄は家庭を顧みることなく、「いさぎよく亡びることを覚悟」の上で(上巻 p.34)、自分の人生を謳歌しようとします。彼はかねてから親交のあった20歳近く年下の新劇女優矢島恵子と一線を越えた関係になり、逃避旅行の延長のような長いホテル暮らしを経て、アパートで新婚夫婦同様の生活を始めます。

本宅の妻との関係は完全に冷え切る、長男はグレて非行に走る、次男は病の回復の兆しを一向に見せない……そんな家庭事情の一切から目を背けるように、一雄は恵子との奔放な生活に没頭します。長男の一郎が警察の厄介になった時も、彼が父親にかまってほしい一心で犯行に及んだことを知らされてなお、当の父親はこう弁明します。

かりに一郎が孤独であったにしても、それを誰に転嫁出来るというのだろう。なるほど、一郎を温和に包んでくれるような家というものはなかったかもわからない。しかし、私だってなかったのだ。

(上巻 p.228)

俺が知っている家庭とはそういうものなのだから、お前も同じようにそこで生きろ、ということなのでしょうが、負の連鎖を断ち切ることのできなかった親としての責任は重いと言わざるを得ません。温和な家庭など自分とは無縁の代物だと決めつけてしまう裏側に、実は人一倍それを求める本心と、それに対する悲痛なまでの諦めがあるのです。

そんな彼ですから、たとえ今の家庭を捨てたとしても、恵子と籍を入れることもしません。一人の女性として、本当は男にけじめをつけてほしい彼女の気持ちを知りながらも、多忙と享楽の日々によって彼女と、そして彼自身をも偽り、浴びるように酒を飲み、泣き、笑い、「我が身を早く焼き尽して」しまうべく(上巻 p.248)、向こう見ずな人生をひたすら駆け抜けるのです。

愛とは甚だ技巧的なものである。云いかえれば、生活の管理術のようなものだ。そうして、この管理の礼式だけが、男女の浮動しやすい肉体の愛を昇華させ、男女の生活としての愛情を維持させうる原動力になるだろう。

(下巻 p.43)

これはつまり、一雄の結婚観です。名言とも詭弁ともとれそうですが、真理をついていると思います。愛、ひいては人間関係全般に対して、彼は誰よりも誠実であろうとした。だからこそ、その在り方を、自然の成り行き(それが放埓な生き方だとしても)に反してまで意図的に「管理」することを嫌ったのかもしれません。

永遠などありはしない。自らをして「浪々破滅型」と言わしめるとしても(下巻 p.201)、それが一雄の、生きる上でのただ一つの拠所なのです。同時に、安定感に満ち満ちた家庭のぬくもりへの無意識の憧れが引き起こすのか、矛盾した言動も見られます。

たとえば、彼は料理が好きなのですが、一人なのに大家族に食わせるほど大量の食材を買い込んだり、大鍋で調理して食べきれずに腐らせてしまったりすることが度々あります。また、かつて恵子を囲っていたという男の噂を聞けば(自分は恵子以外の女性とも遊んでいるくせに)、恵子に対して、妻に貞節を求める夫のように激しく嫉妬するのです。

自分自身には無限の放埓を許し、相手には仮借のない純潔を強いる。

(下巻 p.85)

と、そこまで冷静に自己分析しているのに、そんな自分を抑えることができない。愛だの永遠だの信じないと言いながら、恋人の純潔、つまりは常しえの平和な家庭に象徴される良き妻としての存在を相手に切望する。

一方で、放埓の限りを尽くすことを信条とする上で家庭を求める本心を押し殺すこと自体が、心の赴くまま、自然のままに生きるという彼のポリシーに反している。すさまじい矛盾と葛藤のスパイラルです。

こういった感情のふり幅こそが、我が身を焼き尽くさんとするほどの豪放な生き方の原動力になっていると考えると、何となく納得できます。そもそもそんな生き方は、興味本位に参考にしてみようにも、とても実践できないことだとも思わされます。どうしてもその世界の住人になるというのであれば、もはやこの一言に尽きます。

早く喰われろ、人生という奴から……、その上での話だ

(上巻 p.38)

酒、金、色……得てして英雄視されがちな一雄の豪快奔放な生き様は、彼の赤裸々な心の叫びそのものに他ならないと、この物語を読んでいて思わされます。不幸か、絶望かというと、それもまた違う。己と向き合い、苦しみながらも必死で生きていることの尋常ならぬ純度の熱量が伝わってくる。そういう意味において、作者の分身であるこの主人公は、やはり魅力的なのです。

檀一雄『火宅の人』を、是非とも読んでみてください。

それでは。

 

 

ウクライナの短編小説を読んでみませんか

今ウクライナで起こっていることについて、戦争反対の一言に尽き、あとは黙してしまう自分がいます。そんな中ではありますが、十年ほど前に初めて読んだ現代ウクライナの短編小説集をご紹介します。

今に至るまで、僕が読んだことのある唯一のウクライナ文学の本なのですが、個人的に、こんな短編小説を書けたらいいなという創作のお手本として、折にふれ読み返している大切な1冊です。


(↑画像からAmazonの商品ページに移動します)

ウクライナの現代作家によって1980年代から90年代に書かれた、16の短編小説が収録されています。特に好きなのは、1番目収録の「新しいストッキング」、3番目の「暗い部屋の花たち」、12番目の「桜の樹の下で」です。

少し謎めいた、感覚にじかに訴えかけてくるような淡い質感の、それでいて凛とした語り口が想像をかき立てる、どちらかといえば西洋というよりも日本文学の雰囲気に近いものを感じます。身近な出来事を題材に、人間の孤独、はかなさ、無常観などを描いた作品が多いという印象です。

また、家族関係において何らかの問題を抱えている登場人物が其処此処に出てくるのも特徴的です。老母に頭の上がらないダメ夫と孤立する嫁、機能不全夫婦、実家の親と顔を合わせるのを億劫がる女学生、等々。

家族の絆というものに対してどこか懐疑的なスタンスが感じられるのは、僕の偏った読み方もあるのかもしれませんが、例えば4番目収録の「しぼりたての牛乳」は、家族からネグレクトされている少女のお話です。どれだけ虐げられても、家族に対してひたむきな愛情を示す子どもの純心が痛切に伝わってくる作品です。

また、8番目収録の「天空の神秘の彼方に」は、農業集団化の政策により引き起こされた1930年代前半の大飢饉のことを扱っていますが、この小説で描かれる悲劇、人々の苦しみや深い悲しみに、現在の状況を重ね合わせて読んでしまうのは、僕だけではないと思います。

色々と書き散らしてしまいましたが、この時期にこそ、ウクライナにはこんなに素晴らしい文学作品があるということを、是非とも知っていただけたら幸いです。

それでは。