#58 井伏鱒二 『掛持ち』 ~人情ダブルワーク~

「おすすめ文学 ~本たちとの出会い~」

第58回目。一つの勤め先に長く在籍した経験がなく、複数の会社からお仕事をもらい糊口を凌いでいる僕ですが、こういう働き方をしていて良かったと思えることがたくさんあります。今回ご紹介する作品の主人公は、そういう意味では僕の大先輩です(笑)。

山椒魚 (新潮文庫)
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#58 井伏鱒二 『掛持ち』 ~人情ダブルワーク~

太宰治の師、井伏鱒二の短編「掛持ち」をご紹介します。所変われば何とやら、同じ人間でも環境によって立場や人間関係がガラリと変わることがあります。一つの職場のみに長年身を置き奉仕することは勿論すばらしいことですが、異なる環境を同時に行き来することで、視野が広がることもあります。読みようによっては、「副業のススメ」的な作品と言えるかも?

出典:井伏鱒二 『山椒魚』 新潮文庫, 平成27年第108刷より「掛持ち」

 

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主人公の内田喜十は、温泉宿で番頭として働く四十過ぎの男。甲州は篠笹屋という旅館の三人の番頭のうち、彼は一番の下っ端でした。篠笹屋では「喜十さん」と名前で呼ばれていますが、それは必ずしも、親しみを込めての呼称ということだけではないようです。喜十さんは、

篠笹屋にいるときには女中の拭き掃除まで手伝ってそれでもまだ女中たちに剣つくを喰わされて、酒も莨(たばこ)ものまないで勤直にしているのに阿呆扱いにされている。

(p.101)

そんな喜十さんですから、篠笹屋がシーズンオフで人手の余る時期は、人件費節約のため暇を出されてしまうのです。そこで彼は、篠笹屋で仕事がもらえない空白期間を利用して、別の旅館の番頭をして生計を立てています。

そのもう一つの職場である伊豆の東洋亭では、彼はまったく別の顔を持っています。甲州ではうだつの上がらない喜十さんは、伊豆では従業員や客から一目置かれ「内田さん」と苗字で呼ばれ、帳場でも堂々とくわえ煙草などしている「粋な番頭さん」なのです(p.101)。

働く場所が違うだけで、ジキルとハイド並の別人になってしまう内田喜十さん。決して二重人格ということではなく、どちらも本当の彼であるのですが、やはり居心地の良いのは東洋亭の方でしょうね。彼はこのダブルワークを十年ほど続けていたのですが、

東洋亭で粋にかまえている最中に、彼が篠笹屋でぺこぺこしながら背中をながした客人に顔を合わせたくないのもまた人情である。(・・・)ところが、足かけ十年目に、(・・・)東洋亭の玄関先きで篠笹屋で見た客に見つかった。

(p.102)

井能さんという名のそのお客は、東洋亭の番頭「内田さん」を見てすぐに、「やあ、喜十さんじゃないか」と声をかけます(p.102)。喜十さんにとって、気まずい瞬間です。というのも以前、彼は篠笹屋の浴場で井能さんの眼鏡をうっかり踏み割ってしまうという失敗をやらかしていたのです。

篠笹屋では普段からぺこぺこ謝り癖が染みついていた喜十さんは、井能さんに何度も頭を下げ謝罪し、おっかない女中頭にも手ひどく叱られ、いい歳して半泣きの始末。よりによって、その因縁の井能さんが東洋亭に現れるとは…

幸い、井能さんは人格者でした。篠笹屋の眼鏡の一件でも、「目鏡にアイロンかけたみたいだよ」とジョークを飛ばし、「番頭さん、硝子のかけらがあぶないぜ」と気遣ってくれたのです(p.112)。また、東洋亭では鷹揚なベテラン番頭として振る舞っている喜十さんを見ても、多くを尋ねず、調子を合わせて「内田さん」と呼んでくれるのです。

さて、井能さんが東洋亭に滞在中のある晩、若い女中が井能さんの部屋でちょっとした粗相をしてしまいます。居合わせた喜十さんは、井能さんの前で彼女を注意しなくてはなりません。井能さんはもちろん、内心では喜十さんも些細なことだと思っていましたが、立場上、部下を叱らないわけにはいきません。

柄じゃない説教を続けるうちに、喜十さんは思わず、以前自分をこっぴどく叱りつけた篠笹屋の女中頭の容赦ない口上を真似ていたのです。叱ることの必要性以上に、その痛みも、屈辱も知っている彼自身、やるせなさを感じていたはずです。

喜十さんが脱線してそういう問わず語りのようなことを言っていると「もう止せ、つまらん」と言って、井能さんが掛蒲団をはねのけた。喜十さんはびっくりした。

(p.119)

助け舟を出してくれたのは、またしても井能さん。不毛なお説教タイムを強制終了させ、直ちに喜十さんを外に飲みに連れ出すという粋なはからいを見せてくれたのです。現実の世界でも、「お客様は神様だ」という過剰な奉仕信仰を時おり耳にしますが、井能さんのようなお客さんに関して言えば、僕も何ら異存はありません(笑)。

喜十さん自身とて、以前自分が叱られた時の憂さを晴らすために、若い女中にあのような叱り方をしたわけではないと思います。彼はただ、自分の仕事に愚直なまでに忠実であろうとした。職場によって別人のように見えども、人の本質は変わらない。異なる環境に置かれた時こそ、そういった本質的なことはより一層はっきりと見えてくるものです。

そして、喜十さんの本質である実直な人柄を理解しサポートしてくれたのが、お客である井能さん。実に、粋なサービスや雰囲気というのは、提供する側だけでなく、提供される側の協力を誘発することで作り上げられていくものなのかもしれませんね。

つまるところ、立場や環境を越えて互いを思いやる、これに尽きます。井伏鱒二「掛持ち」を、是非とも読んでみてください。

それでは。

 


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黒マスクと太宰

毎日、黒いマスクを着用しています。最近はとても暑いので、人通りの少ない屋外では鼻だけ出しています。同じデザインの布マスクを、洗い替えで6枚持っています。下着と同じ感覚です。洗濯する度に、少しずつ痛んできました。

マスクの色というと、やはり白が多いようですが、僕は黒しか着けません。汚れが目立たない、どんなファッションとも合わせやすい、等の理由もありますが、黒の方がクラシカル&ノスタルジックな印象があるというのが一番の理由です。

イメージだけではなく、実際、昭和14年に発表された太宰治の作品にも、黒いマスクが出てきます。懶惰の歌留多(らんだのかるた)という短編に、こんな文章があるのです。

それから、また、机の引き出しを、くしゃくしゃかきまわす。感冒除けの黒いマスクを見つけた。そいつを、素早く、さっと顔にかけて、屹っと眉毛を挙げ、眼をぎょろっと光らせて、左右を見まわす。なんということもない。マスクをはずして、引き出しに収め、ぴたと引き出しをしめる。

(平成20年第29刷、p.16)

新樹の言葉 (新潮文庫)
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小説を書こうと机に向かう筆者が、作業に身が入らずに、引き出しから耳かきを取り出して耳掃除をしてみたり、マスクを出して意味もなく着けてみたり、などという他愛もない内容です。

感冒、という言葉、今ではあまり耳にしなくなりました。昔、風邪薬のコマーシャルなどで聞いた記憶があります。作中の黒マスクの実物がどんなものかは知りません。耳かきなんかと一緒に引き出しにごちゃごちゃ入れているあたり、どこの家庭にもあった普段使いのマスクなのでしょう。

太宰兄が黒マスクを着用して、あの太い眉をきりっと上げて、眼をぎょろぎょろさせるところなど、想像すると楽しいです。彼が現代に生きていれば、こういう日常をSNSに投稿して読者サービスなどしてくれそうな気もします(笑)。

昭和初期には既に存在していたとおぼしき黒いマスク。復刻版とかあればよいのに、などと考えたりもします。もちろん、マスクの要らなくなる日が一日も早く訪れることが何よりです。

それでは。