#13 太宰治 『水仙』 ~天才の条件~

「おすすめ文学 ~本たちとの出会い~」

13回目。芸術の秋にちなんだ太宰治の短編をご紹介します。

きりぎりす (新潮文庫)
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#13 太宰治 『水仙』 ~天才の条件~

新潮文庫から出ている太宰治の本の中でも、短編集 『きりぎりす』 は特によく読みます。今回ご紹介する 「水仙」 の他に、「燈籠」 「皮膚と心」 「佐渡」 など、個人的に太宰兄の「いぶし銀」的名品に位置付けている短編が多数収録されています。

出典:太宰治 『きりぎりす』 新潮文庫(平成14年54刷)より 「水仙」

 

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「水仙」は、芸術を志す人間の破滅を描いた物語です。作家である語り手の「僕」が見た、ある裕福な家の夫人の「天才」への目覚めと、そこからの転落の模様が、淡々としたトーンで描かれています。

資産家の草田氏に嫁いだ静子夫人は、以前は「無智なくらいに明るく笑う」女性でしたが、自身の実家が破産してからは「妙に冷たく取りすました女」に変わってしまいました。「水仙」は昭和17年の作ですが、戦後に流行語となった「斜陽族」のマダムが、すでにこの作品にも登場していたのですね。

家柄という誇りを失った静子夫人をなぐさめるために、夫の草田氏は彼女に絵を習わせるのですが、これが夫人の人生を完全に狂わせることになります。

「さあ、それから褒めた。草田氏をはじめ、(・・・)寄ってたかって夫人の画を褒めちぎって、あげくの果ては夫人の逆上という事になり、「あたしは天才だ」と口走って家出した(・・・)。」

(p. 263)

家出をした夫人は、芸術家としてひとり生きてゆく決意をします。そうして彼女は取り巻きの若い連中におだてられ、「毎晩、有頂天の馬鹿騒ぎ」をして身を滅ぼしてゆくのです。

自身も作家(芸術家)である語り手の「僕」は、静子夫人のことを誰よりも理解していたはずです。彼女を冷たく突き放しながらも、心の底では、自分を天才と呼ぶ芸術家としての彼女のプライドに共感していたのではないでしょうか。

そもそも芸術作品というものには、相対的に良し悪しを決める価値基準がありません。歴史に名を残す巨匠たちの作品だって同じことです。有名な作品、売れている作品ばかりが「良い」とは限らないのは、誰もが知っているはずのことです。

僕自身、印象派の時代までの画家たちの作品は好きですが、フォーヴ以降あたりから現代アートに至るまで、どんな有名な作家の名作だとすすめられても、興味を持つことはあまりないです。それは単なる知識不足だと言える一方で、結局のところは、人それぞれの好みなのです。

時代や人によって評価が曖昧な芸術の世界において、自分の作品に絶対的な価値を見出すためには、やはり作者自身が己の仕事に確たる自信を持ち続けるしかありません。「天才」であり続けることができなかった静子夫人の破滅の原因の一つも、おそらくそこにあるのでしょう。

「自分の力が信じられぬ。そこに天才の煩悶と、深い祈りがあるのであろうが、(・・・)自分の腕前に絶対の信頼を置く事は出来なかった。(・・・)信じる事が出来ずに狂った。」

(p. 257-258)

静子夫人の描いた絵が本当に天才の作であるか否かについては、物語の結末で一応の答えが提示されます。自分を信じることの難しさ、そして大切さを、「水仙」 を読み終えるたびに改めて考えさせられます。

他人が自分をどう評価しようと構わない。大事なのは、自分が自分の力を信じること。誰もが分かっているはずのことなのに、他人の評価が丸わかりのネット社会において、イチイチ気にしていられるかと言いつつも、やっぱり気になってしまう自分がいる……

そんな世の中、太宰治「水仙」は時代を超えて僕たち読者の心深くに問いかけてくるのです――天才とは、何か。

今回はここまでにします。お読みいただきありがとうございました。

 

#12 梶井基次郎 『Kの昇天』 ~月夜の縁~

「おすすめ文学 ~本たちとの出会い~」

12回目。中秋の名月は、まだ少し先。ささやかなつなぎにでもなれば幸いです。

檸檬
檸檬 (新潮文庫)
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#12 梶井基次郎 『Kの昇天』 ~月夜の縁~

梶井基次郎(1901~1932)といえば、「檸檬(れもん)の作者です。スーパーの青果売り場でレモンを目にする度に、それがアメリカ産であれどこ産であれ、僕は日本文学史上に実る珠玉の短編「檸檬」を思い浮かべてしまいます。そんな作者のシンボルとも言えるレモンを、今宵は空に浮かべてみようと思います。ご紹介するのは「Kの昇天」――見上げれば、まんまるの月。

出典:梶井基次郎 『檸檬』 新潮文庫, 平成21年第73刷

 

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夏の夜など、僕はひとりで砂浜をぶらぶら歩くのが好きでした。

月のよく見える晩などは、砂浜は青白く照らされ、ぼんやりとですが、かなり遠くまで見渡すことができます。とはいえ景色を楽しむほど明るいわけでもないので、波の音を聞きながら、おのずと目線は自分の足元に集中します。

そうして月の映し出す自分の影ばかり見ていて、突然目の前に人があらわれた時など、かなりびっくりします。顔もよく見えない相手に挨拶するのも薄気味悪く、向こうだって僕のことを不審に思っているかもしれません。夜の一人歩きも出来なくなりつつある物騒なこのご時世なら、尚のことです。

「Kの昇天」が書かれた時代(昭和最初期)、少なくともその作中の世界観では、人々は夜の浜辺でばったり出会っても、それほど互いに警戒心を抱くことはなかったのかもしれません。

主人公の「私」は眠れぬ夜更けに海岸に出て、そこで「K」という人物と出逢い、以後、夜の散歩仲間のような関係になるのです。月夜がもたらす、奇妙な縁(えにし)。は月の出る時刻に合わせて砂浜に出ては、月明かりの下の自分の影をじっと見つめ、「私」にこう打ち明けます。

「(影の中に)自分の姿が見えて来る。(・・・)段々姿があらわれて来るに随(したが)って、影の自分は彼自身の人格を持ちはじめ、それにつれて此方の自分は段々気持が杳(はる)かになって、或る瞬間から月へ向って、スースーッと昇って行く。」

(p. 156、()内は補足・原文ルビ)

実体とその影が分離して、影の方が実体としての意思を持つ。はそうやって自らを影に従わせ、月に吸い寄せられるように海辺を歩くのです。

どの作品か今ちょっと思い出せないのですが、太宰治もまた、夜の枕元の畳のうえに月明かりが小さく四角くうつり込んでいるのを見て、「私は月から手紙を貰った」と印象的な表現をしています。

月には、それが映し出す影かたちにまで、見る者の心に神秘的な念を抱かせる不思議な力があるのでしょうか。

のようにあまり突き詰めて考えてしまうのはおすすめ出来ませんが、これからのお月見、心静かに空を仰ぐ目線をふと地面に下ろして、そこに映った自分の影に少しだけ思いを馳せてみるのもいいかもしれません。

頑張り屋さんの人なら、物言わぬ自分の影に「いつもありがとう、お疲れさま」と声をかけてあげるとか。今回は話が逸れてばかりでしたが、これも月の仕業です。

今年(2015年)は9月27日が十五夜です。どうか晴れますように。

それでは。