#56 小山清 『老人と鳩』 ~物語と現実~

「おすすめ文学 ~本たちとの出会い~」

第56回目。暦の上ではもう冬になりました。皆さんいかがお過ごしですか。世の中は騒がしく動き続けています。僕が好きな本の中の世界とのギャップを感じれば感じるほどに、物語への偏愛は募ってゆきます。

老人と鳩
日日の麺麭/風貌 小山清作品集 (講談社文芸文庫)
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#56 小山清 『老人と鳩』 ~物語と現実~

今回ご紹介するのは、小山清(1911-65)最晩年の小品の一つです。人生において限られた楽しみや人との出会いしか持たない、孤独な老人の何気ない日常を描いた本作は、今の時代にも通じる人間関係のあり方を物語っています。けれども、その視点はより穏やかで、これ以上何を望むこともない、ひとつの幸せの極致とでもいうべき人生模様を、僕たち読者に示してくれている気がします。

出典:小山清 『日日の麵麭|風貌 小山清作品集』 講談社文芸文庫, 2015年第二刷より、「老人と鳩」

 

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主人公の老人は、若い時から心臓が悪く、齢五十の頃には(おそらく脳血栓で)失語症を患います。その後、妻とも別れ、六十二歳になった今は、野原の外れにある粗末な一軒家で一人暮らしていました。

来客は、身内の者が時々様子を見に来るくらいで、仕事もなく、家の周囲で目にすることのできるささやかな季節の移ろい――花、木の実、生き物、川の流れ、青空――そんなものに、言葉にならないぼんやりとした思いを馳せる日々を送っていました。老人は散歩が好きでした。

鳩がいた。野原の向うに小さい川が流れていて、そこに家があった。家の傍に小さい小屋があった。(・・・)可愛い鳩。目を見ると、ほんとに可愛い。平和な鳩。(・・・)老人は鳩笛を思い出した。

(p.164-65)

鳩を見ると、老人は昔を思い出します。子どもの頃、桜の枝を削って鳩笛を作った懐かしいあの頃を。今、失語症の彼は、どうにか「ハト」とは言えても、「ハト笛」という言葉は発することができません。言葉とともに失われた美しい思い出。それを自分なりの形で再現しようとしたのでしょう、彼は木彫りのハトを作ろうと思い立ちます。

始めはさいしょから出来損いであった。(・・・)でも、ハトであった。(・・・)それから、犬、猫を作った。ハト、マガモ、犬、猫を机の上に並べた。

(p.165)

老人は、自分の作った木彫りの動物たちを、時折彼の妹と一緒に訪ねてくる甥っ子と姪っ子にあげました。子どもたちは、自分たちの叔父のことを「おじいちゃん」と呼びます。そんなちぐはぐな肉親の交流にさえも、老人は救われていたのです。

やがて彼は、近所に「ハト」という名前の喫茶店を見つけます。行ってみたいと思い、何度も躊躇した挙句、ついに決心して店に入ります。そこで老人は、喫茶店の娘(十七、八)と知り合います。二回目に店を訪ねたとき、彼は彼女に自作のハトをプレゼントするのです。

「ハト、あげます。」と老人は言った。「まあ、ハト。」と娘は彫刻のハトを両手で眺めた。「有難うございます。」と娘は言った。

(p.168)

娘の、「両手で」ハトを眺めるところが実に心温まります。老人がハトを渡すとき、「老人の服のポケットから、ハトが飛び出した。」という描写があるのですが、言葉のうまく出て来ない彼にとって、それは微笑ましくも懸命の自己表現でした。

今どきだったら、こんな物を、よく知らない客から手渡されて戸惑う人も多いと思います。でもその娘はハトを受け取ったお礼に、なんと後日、わざわざ老人の家を探し出し、一人で訪ねて来てくれたのです。

娘は「はい。」と言って、ポケットから包みをとりだして、粘土細工のハトを呉れた。絵具で描いたハトである。老人は胸がいっぱいで、「ありがと」と言った。(・・・)娘が言った、「あなたは、独りぼっちですか。」「独りぼっちだ。」と老人は微笑を浮べて言った。

(p.168)

このやさしい娘も、孤独なのかもしれません。あるいは、若いゆえの刹那的な同情の念にかられただけかもしれません。現実的には、彼女のこういった行動を軽率だと非難する人もあるでしょう。こんなできごとはフィクションの世界でしか起こるはずもなく、実際にはこういった類の出会いには、いわゆるオチとでもいうような陳腐で興ざめなエピソードが付随すると推測する人もいるでしょう。

二人の関係は、これ以上、何の発展もありません。結末を読む限り、おそらくは物語が終わってからも。何かが起こるという必然が、そもそもないのです。

こういう話を、いかにも作り話だと思ってしまう僕自身がいます。本物の鳩(=心の平和)は小屋に閉じ込められ、せめてもの人生のなぐさめは、へたくそな木彫り細工で代用する。そんな穿ったものの見方をしなくては、現実世界を生きていけない、そう頑なに考えている自分がいます。

一方で、僕はやはりこう思いたい――物語の老人と娘のような、何の他意もない、ただただお互いを受け容れいたわるささやかな人間模様が、どうか何の悲劇も失望も(そして大きな希望さえも)伴うことなく、この現実社会にも数多くあってほしい、と。

ブンガクの世界は、単なる理想郷なんかじゃない。読む人間にとっても、そしてきっと、書く人間にとっても。

小山清の「老人と鳩」、是非とも読んでみてください。

それでは。

 


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#34 小山清 『おじさんの話』 ~絆の配達夫~

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34回目。秋も深まってまいりました。わびしさという言葉の似合う季節が、僕にこの本を手に取らせます。本当に好きな作家の作品は、誰にも教えたくない。それでも伝えなくてはと思うのは、僕もおじさんになったから( ´ー`)y-~~

小山清
日日の麺麭/風貌 小山清作品集 (講談社文芸文庫)
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#34 小山清 『おじさんの話』 ~絆の配達夫~

小山清(1911~1965)というと、太宰治と関係の深い作家の一人として思い浮かべる人も多いと思います。僕自身も太宰を片っ端から読んでいた時期に知りました。有名な作家の作品や人生を追っていると、その作家と親交のあった人物にも愛着を持つことがありますよね。僕は小山清の作品と、太宰治の存在をまったく抜きにして出会えていたなら……などと何気なく思うことがあります。

出典:小山清 『日日の麵麭│風貌 小山清作品集』 講談社文芸文庫, 2015年第2刷

 

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戦時中の東京、下町の新聞販売店に住み込みで働いていた「私」が語る、当時の同僚の「おじさん」との心温まる思い出話です。年齢はおよそ六十過ぎ、「私」とは親子ほどにも離れているおじさんは、離婚して郷里を出てから三十年もの間、新聞屋一筋で働いてきました。

冬の朝などでも、おじさんは暗いうちから起き出して、通りに面した窓際にある事務机の前に頑張っている。(・・・)ジャンパーの上に汚れた縕袍(どてら)を羽織って、脹雀(ふくらすずめ)のように着ぶくれたその恰好には、乞食の親方のような貫禄がある。

(p.96)

どこやら超越した雰囲気を醸し出しているおじさんですが、仕事ぶりは真面目で、煙草も吸わずお酒もほとんど飲みません。過去に女性がらみの失敗をやらかしたことを匂わせる描写があり、その失敗がおじさんの離婚とそれ以降の独り身の生活を決定づけたようなのですが、「私」も詳しくは知らないのです。

そんなおじさんの楽しみは、株屋でこっそり違法の賭け事をすること。そのため度々警察の厄介になり、仕事に穴を開けてしまうこともありました。この問題行動も読んでいて愛嬌に思えてしまうのは、一度失敗した人生にもめげずに今を楽しむおじさんの逞しさに、語り手の「私」が素直に共感しているからなのでしょうね。

おじさんはまた、「私」をはじめとした登場人物たちにとって父親のような存在として描かれることがあります。しかもその父親という立場が、必ずしも自分が面倒を見る側ではなく、見てもらう側としても描かれるのです。おじさんが身体を壊して入院した時などは、見舞いに訪れた「私」にこんなことを言いました。

「看護婦がおれを負って風呂へ連れていってくれるんだよ。まるで娘のように面倒を見てくれるよ。」

(p.125)

その直後おじさんは氷砂糖が食べたいと「私」に駄々をこねるのです。いつも親身になって助けてくれる頼もしいおじさんが、この時ばかりは「私」には手のかかる息子のように思えたのではないでしょうか。こんなふうに、物語には血の繋がっていない者同士が家族のように支え合う(描かれる)場面が所々に見られ、それが読者の心をほのぼのと温めてくれるのです。

自分の弱さをさらけ出すおじさんの姿に、キリストあるいは太宰の人間味あふれる面影を見る方もいらっしゃるのではないでしょうか。実際そのような指摘や研究も、僕が知らないだけで、おそらくは既になされているのでしょうね。

けれども、そういった事柄を頭から取り除いて、物語一つとただ静かに向き合っていたい――小山清の作品を読むときには、そんな思いが特に強くなります。

もちろん、小山清の作品とめぐり会うきっかけとなった太宰という存在への感謝の気持ちを忘れたわけではありませんが(笑)。何はともあれ、小山清「おじさんの話」を、秋の夜長に是非とも読んでみてください。

それでは。

 


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