『宮原昭夫小説選』を少しずつ読んでいく②

読み始めるとあっという間で、ちょうど真ん中あたり、350ページ弱まで到達。

折り返し地点にさしかかり、本の厚みが徐々になくなっていくのに名残惜しさを感じています。

宮原昭夫小説選

 

前回に続き、宮原昭夫小説選、読書レポート第2弾です。

1960年代の作品群はすべて読了し、1970年代の作品を半数ほど読んだところです。描写(特に人間の心理)がきめ細やかで、且つ親しみやすく、ヒューマンドラマの職人技という印象です。

昭和の風情を滋味豊かに添え、読者の深部にまで血を通わせてくる語りの技術に、思わず嘆息――どうやったら、こんな風に書けるのだろう。技量もさることながら、人間の内面を見つめる熱量がそもそも違うのかも。

 


前回「石のニンフ達」という作品について触れましたが、60年代から70年代へと一つ一つ読み進めていくうちに、宮原ワールドの領域の広さに圧倒されました。

たとえば同じ学園ものでも、「石のニンフ達」のような微笑ましい雰囲気とはまるでちがう、人間のどろどろした内側を暴き出すディープな世界観を扱っているのが、「火と水」です。

ある学校の女生徒が、夜道で何者かに暴行を受けて惨死する事件が起こる。事件に思いを巡らせる男性教師が、その残虐行為を細部まで克明に再現するような生々しい妄想を自身の中で繰り広げ、徐々に精神を蝕んでいく。

心の中で犯した罪は、実際に犯したそれとどこまでが違い、どこまでが同じなのか。現実と想像の境界が曖昧になっていく男の、「どうして、“あれ” はおれでないと言えるんだろう。」(p.253)という独白が、読み手に強烈なメッセージを委ねてきます。

これと似たテーマは、60年代後期の作品「風化した十字架」にも見られます。過去に犯してしまった罪について、直接関わった当人は忘れかけていたのに、ほとんど無関係の友人が、自分がやったものだと信じ込んで苦しみ続ける、というものです。

事実とは別の次元で罪が奇妙な独り歩きをする。しかしその責任の所在自体は決して消滅することはなく、誰かが目を背けるなら、別の誰かが必ず背負っていかなくてはならなくなる。これは戦争などにも通ずる古今普遍のテーマだと思います。

また、方向性は異なりますが、「あなたの町」という作品も、コミカルな雰囲気の奥底に漂う不気味さに引き込まれるものがありました。

ある町に引っ越してきた若者2人が、住み始めた途端、その町から一歩たりとも出られなくなるという話。隣町までふらっと遊びに出かけようとするだけで、住民という住民がいっせいに彼らを取り囲み、町から出ないよう阻止するのです。

町の住民たちは、2人の仕事や日々の食事など実にこまごまと世話を焼いてくれる、人懐っこくて親切な人たちばかりなのですが、なぜか彼らが町を出ることだけは絶対に許さない。その異様な過干渉に辟易した2人は脱走を決行します。

盗んだ車で走り続けるも、どうしても町の外に出られず、けっきょく元の場所に戻って来てしまう。車の持ち主から容赦なく訴えられるかと思いきや、「一言ことわってから乗れ」と怒られて、おしまい。町から出なければ、あとはどうでもいいようです。

「なんで奴らは、こう変に寛容なんだ。(・・・)そのくせ、こんりんざい町からは出そうとしないんだから」

(p.308)

と嘆く主人公の台詞が笑えますが、過疎に悩む自治体が若者の流出を本気で防ごうとするなら、いっそこれくらいやってもいいのでは(笑)。そんな町の人たちと若者の奇妙な攻防はまだまだ続くので、ご興味のある方は是非とも読んでみてください。

思考の深くまで誘う問題作から、肩の凝らないユーモラスな快作まで、迷い込むほどに裾野が広がっていく小説の世界が読み手を飽きさせません。

よい連休をお過ごしください。

それでは。

 

※作中の引用ページは「宮原昭夫小説選」(河出書房新社, 2007年初版)を参照しました。

 

『宮原昭夫小説選』を少しずつ読んでいく①

久々に、化粧箱入りの分厚い文学選集を読んでいます。

宮原昭夫小説選

 

宮原昭夫小説選。

芥川賞受賞作「誰かが触った」(1972年)を含む、1960年代~2000年代の作品群から選ばれた珠玉33編が、二段組600ページ超のボリュームで収録されています。

宮原先生という文壇の大家の作品集をなぜ手に取ったのか。個人的な思い入れ、というかエピソードも含め、いずれご説明したいと思います。

片手で持ちながら読み耽っていると、手首がぶるぶる震えてきます。

まずは、このずしりと重たい本を読破することが当面の目標です。経過報告など、よろしければお付き合いくださいませ……

 


さて、ご報告第1弾として、今回は時系列順に1960年代の作品群から、「石のニンフ達」(1969年)という短編を読んだ感想を記しておこうと思います。

このお話では、昭和中後期を舞台とした女子高生たちの学校生活が生き生きと描かれています。

ミッション系の私立女子高という設定で、浮ついた色恋話の類は出てきません。とはいえ、古き良き時代に見出されがちな、若者のお堅い健全さや可憐さを賛美するような内容でもありません。

主要登場人物は「みさを」「フサエ」「糸子」の仲良し3人組なのですが、彼女らをはじめ生徒達みんな、なかなかにぶっ飛んでいるのです。

序盤から、糸子が盗みをはたらいたり、みさをから濡れ衣を着せられたフサエが狂言自殺の真似ごとをしたりと、少女たちの刹那主義的なデカダンスの物語かと思いきや、実際はまるきり深刻なものではなく、むしろほのぼのとした日常のようにさえ描かれています。

要は、仲間内の人騒がせな悪ふざけだったのでしょう。その後、みさをに送り付けた手紙で自死をほのめかしていたフサエは何食わぬ顔で登校してくるし、己の罪を悔い改めた糸子は、白飯にコロッケ1つのっけた自分の弁当を「わらじみたいでしょ」と言って、クラスのみんなに嬉々として見せびらかしている。

とある休み時間、糸子はみさをの肩に黙って噛みついたまま離れず、嚙まれているみさをも痛みに青ざめながら、やはり微動だにせずいつまでも無言で耐え続け、それに気づいたクラス全員も静まりかえって二人をじっと見守る……もう、何が何だか。ここは猫の学校か。

天真爛漫なニンフたちが繰り広げる、シュールでエキセントリックな日常。でも、そこには若者らしい突き抜けた清々しさがあります。こういう人間のありのままの姿を平和裡に活写する作者の深い人間愛に触れた気がして、心が洗われました。

ところで、この短編を読んでいて、「みさを」「フサエ」「糸子」という名前が妙に記憶に引っかかる感じがして、よくよく思い出してみればこの名前、宮原先生の『陽炎の巫女たち』(1992年)という別の作品(こちらは長編です。小説選には収録されていません)にも登場しているのです。

同作では「操」「総江」「伊都子」という表記なのですが、1972年に同じ美術系の女子大を卒業している仲良し3人組、という設定なので、「石のニンフ達」の3人娘を時代的にも地続きでモチーフにしていることはほぼまちがいないでしょう。

宮原作品に精通している方々の間では、作品を楽しむためのエッセンスとして無論周知のことなのでしょうが、道半ばの僕にとっては新鮮で、とても嬉しい発見でした。

ということで、この調子で引き続き読み進めていきたいと思います。また随時ご報告いたします。

それでは。

次回に続く)