『宮原昭夫小説選』を少しずつ読んでいく

久々に、化粧箱入りの分厚い文学選集を読んでいます。

宮原昭夫小説選

 

宮原昭夫小説選。

芥川賞受賞作「誰かが触った」(1972年)を含む、1960年代~2000年代の作品群から選ばれた珠玉33編が、二段組600ページ超のボリュームで収録されています。

宮原先生という文壇の大家の作品集をなぜ手に取ったのか。個人的な思い入れ、というかエピソードも含め、いずれご説明したいと思います。

片手で持ちながら読み耽っていると、手首がぶるぶる震えてきます。

まずは、このずしりと重たい本を読破することが当面の目標です。経過報告など、よろしければお付き合いくださいませ……

 


さて、ご報告第1弾として、今回は時系列順に1960年代の作品群から、「石のニンフ達」(1969年)という短編を読んだ感想を記しておこうと思います。

このお話では、昭和中後期を舞台とした女子高生たちの学校生活が生き生きと描かれています。

ミッション系の私立女子高という設定で、浮ついた色恋話の類は出てきません。とはいえ、古き良き時代に見出されがちな、若者のお堅い健全さや可憐さを賛美するような内容でもありません。

主要登場人物は「みさを」「フサエ」「糸子」の仲良し3人組なのですが、彼女らをはじめ生徒達みんな、なかなかにぶっ飛んでいるのです。

序盤から、糸子が盗みをはたらいたり、みさをから濡れ衣を着せられたフサエが狂言自殺の真似ごとをしたりと、少女たちの刹那主義的なデカダンスの物語かと思いきや、実際はまるきり深刻なものではなく、むしろほのぼのとした日常のようにさえ描かれています。

要は、仲間内の人騒がせな悪ふざけだったのでしょう。その後、みさをに送り付けた手紙で自死をほのめかしていたフサエは何食わぬ顔で登校してくるし、己の罪を悔い改めた糸子は、白飯にコロッケ1つのっけた自分の弁当を「わらじみたいでしょ」と言って、クラスのみんなに嬉々として見せびらかしている。

とある休み時間、糸子はみさをの肩に黙って噛みついたまま離れず、嚙まれているみさをも痛みに青ざめながら、やはり微動だにせずいつまでも無言で耐え続け、それに気づいたクラス全員も静まりかえって二人をじっと見守る……もう、何が何だか。ここは猫の学校か。

天真爛漫なニンフたちが繰り広げる、シュールでエキセントリックな日常。でも、そこには若者らしい突き抜けた清々しさがあります。こういう人間のありのままの姿を平和裡に活写する作者の深い人間愛に触れた気がして、心が洗われました。

ところで、この短編を読んでいて、「みさを」「フサエ」「糸子」という名前が妙に記憶に引っかかる感じがして、よくよく思い出してみればこの名前、宮原先生の『陽炎の巫女たち』(1992年)という別の作品(こちらは長編です)にも登場しているのです。

同作では「操」「総江」「伊都子」という表記なのですが、1972年に同じ美術系の女子大を卒業している仲良し3人組、という設定なので、「石のニンフ達」の3人娘を時代的にも地続きでモチーフにしていることはほぼまちがいないでしょう。

宮原作品に精通している方々の間では、作品を楽しむためのエッセンスとして無論周知のことなのでしょうが、道半ばの僕にとっては新鮮で、とても嬉しい発見でした。

ということで、この調子で引き続き読み進めていきたいと思います。また随時ご報告いたします。

それでは。

 

定員のない狭き門

『フランス小ばなし集』という古い民話集を読んでいたところ、「聖ペテロの母親」というコルシカ島の民話が目に留まりました。

ペテロといえば、キリストの一番弟子であり、初代ローマ教皇とされている人物です。ところが、かの聖人ペテロの母親がなんと生前は性悪女だったと、そのコルシカ民話は伝えていたのです。

民話によると、死後、地獄に落ちてしまった母親を憐れんだ聖ペテロは、主イエス・キリストに母親を天国に入れてくれるよう懇願します。彼女が生前、何か一つでもいいから善行をしていなかったかと尋ねられたペテロは、彼女の生前の全記録(閻魔帳みたいなものでしょうね)を調べます。

さんざん探しまくった挙句、彼女は餓死寸前の男にネギの葉一枚だけを恵んでいたという、どうにか善行と呼べなくもない功績が見つかりました。よかった、俺のおっかさんも生粋の鬼婆ではなかった! 喜び勇んで報告したペテロはキリストの許しを得ると、さっそくネギの葉を天上から地獄の底までロープのように長く垂らし、それに掴まるよう母親に声をかけます。

ところが、ネギの葉を掴んで引き上げられていく母親に、他の罪びとたちも次々としがみつきます。これに腹を立てた母親は、彼らに足蹴りをくらわせるのです。ああ、そんな乱暴しないで、お友だちも一緒に上がらせておやりなさい、そう母親を諭すペテロ。

しかし彼女は息子の言うことに聞く耳を持とうとしません。横からひしひしと感じる、キリストの冷ややかな視線。やんぬるかな、ネギの葉を持った手をそっと離す、憐れな聖ペテロ……

ちなみにこの話に似た有名な小説が日本の古典にもありますよね。芥川龍之介『蜘蛛の糸』です。なお、芥川が『蜘蛛の糸』を書くにあたって直接の題材としたのはこのコルシカ島の民話ではなく、別の作品とされています。

蜘蛛の糸
蜘蛛の糸・杜子春
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どの作品かというのは諸説あるようですが、そのことについては勉強不足の僕が語っても仕方ありませんので、話をコルシカ民話に戻します。

「聖ペテロの母親」のようなキリスト教にまつわる民話や伝説は、類似の話がヨーロッパのいたるところで昔から数多く語り継がれていることは想像にかたくありません。スウェーデンの作家セルマ・ラーゲルレーヴSelma Lagerlöf, 1858-1940)の『キリスト伝説集』にも、「わが主とペトロ聖者」という作品が収録されています。

この短編がコルシカ民話「聖ペテロの母親」を題材にしたものなのか、そこまでは調べていないので分かりませんが、話の筋は概ね一緒です。『蜘蛛の糸』も含めて、国や時代を超えたそれぞれの作品に接点や繋がりがあるのは、ブンガクの面白いところだと改めて思います。

さて、コルシカの民話と大きく異なる点として、ラーゲルレーヴの「わが主とペトロ聖者」では、ペテロの母親は息子の差し出すネギの葉ではなく、キリストに遣わされた天使によって地獄から引き上げてもらうのです。

ペテロはキリストとともに天上からそれをじっと見守るわけですが、ここでも容赦なく性悪な人間に描かれる母親は、やはり自分だけ助かろうとして、彼女にしがみついてくる大勢の亡者たちの手を無理やりもぎ離そうとします。

このときペトロ聖者は声をあげて、おっかさん慈悲をかけて、と訴えたが、母親はすこしも耳をかそうとせず、同じしわざをつづけていた。

(『キリスト伝説集』岩波書店, p.304 ※1985年出版の大活字本による)

我が子が自分のためを思って心を砕きながら進言しているのに、まったく受けつけようとしない親。老いては子に従うべし、などと言いますが、いつの世にもありがちな親子関係の難しさですよね。

コルシカ島の民話もラーゲルレーヴの作品も、悪人は地獄に落ちるという単純な教訓ではなく、むしろ「どうしようもない親を持つ子どもの苦悩」に焦点を当てているように感じます。母親を引っぱり上げ(てから落とす)のが息子本人でない分、ラーゲルレーヴの方がペテロに対して同情的な視点で物語を描いているように感じます(あるいは真逆の解釈もあるかも)。

天使は深い悲しみの目で老婆を見おろすと、そのからだを支える手がゆるみ、そして天使は老婆を落してしまった、いまひとりきりとなってしまった老婆は、天使には持ちきれぬ重荷とかわりでもしたように。

(p.305)

天使には持ちきれない重荷、というのがとても意味深ですよね。物理的な重量でいえば、おそらく天使は何人でも楽々と抱え上げることができたはずなのに、たった一人の人間の心の醜さが生み出す「重さ」がもたらした悲劇の、なんと大きなことか。

天国というものが存在するのか僕には分かりませんが、もしあるとすれば、そこに定員はなく、必要なのは当人の心がけ一つということでしょうか。つまるところ、あの世でもこの世でも、人間として大切にすべきことは同じということですかね。

長くなりました。今日はこれにて失礼いたします。