『宮原昭夫小説選』を少しずつ読んでいく⑤

628ページまで読みました。ほとんど終わりに近づいていますが、あと2作品だけ残してあります。木守りのように、宮原作品という果実を味わう豊かな時間がいつまでも続くことを願って。

宮原昭夫小説選

 

前回に続き、宮原昭夫小説選、読書レポート第5弾です。

今回は新たに6作品を読みました(1980年代の作4編と、1990年代2編)。以前の年代から引き継いだテーマもより深まりつつ、さらなる境地を開拓している作品もありました。僕が生まれてくる80年代に刻まれた、進化を続ける作家の軌跡を追ってみます。

 


1980年代の作品で特に印象深かったのが、「供物」「変態」の2編です。あえて分類するならば象徴主義でしょうか、現実と非現実のあわいに生じる幽かな狂気をのぞき込むような、ミステリアスな作風です。

都会の巨大工場に囲まれた中学校を舞台とした「供物」は、コンクリートの森に閉じ込められ自然から切り離された少年少女を描いています。無機質な都会でもハツラツと青春を謳歌する学園ものの要素もありつつ、読み進めていくと徐々にオカルトチックな雰囲気が漂いはじめ、世にも奇妙な世界が開けてくるのです。

生徒たちは一見やんちゃで屈託のない普通の中学生ですが、どこか世俗の生気に欠け、何やら異世界的な秘密を抱えている。入院しているクラスメイトの美少年に「捧げ物」をすると言う女生徒、「万物の生命を甦らせる」と呟く教師。……学校や街全体が得体の知れない儀式の舞台へと変貌していく中、謎に満ちた結末が読者を心地よいカオスへと導きます。

「変態」は、予備校の非常勤講師として生計を立てる青年が、世の中に対して不思議な反逆を試みる物語。編み物が趣味で口下手な彼は、職場の上司や好きな同僚の女性と打ち解けようと努力するものの、理解も想像力もない彼らからは異物扱いされ、やがて上司から、暗に自主退職を促すような理不尽な労働を押し付けられます。

どんなに無茶振りされても文句の一つも言わなかった彼ですが、ある日突然、職場に来なくなります。様子を見に行った同僚女性が彼の部屋で目にしたのは……。編み物が得意な彼ならではの、予想の斜め上を行く芸術的レジスタントの雄姿を、皆さん是非とも読んで確かめてください。ちなみに僕はフランツ・カフカ『変身』の前日譚のようなイメージでこの作品を楽しみました。

変身 (新潮文庫)
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前年代の作品からのテーマを色濃く引き継いでいるものとしては、特に「厭離」に注目しました。「周囲からの孤立」や「自己という存在」への探究を、あえて絶望的な設定で描き切った問題作です。

他人を巻き込む不幸な事故を経験した主人公は、その罪の意識から、社会と断絶した無為の日々を送っている。いっさいの希望から目を背けている中、彼に寄り添ってくれる人間が奇跡的に現れる。その唯一の救いの手をも彼は振り払い、変わることのない孤独の道を突き進む。そんなあらすじです。

しかし結局のところ、人は完全に自分ひとりで生きることなど不可能です。孤独へと逃避する主人公が、実は「自分を必ず探し出してくれる者が居る、という確信」を持ってこれからも逃げ続ける、という事実にふと気付いたところで、物語は終わります(p.594)。

この「確信」こそが、孤独に魅せられた人間の唯一の慰めであるともいえます。外界との不協和音を自覚し続けなければ己を保てない人間にとって、自分のすべてを他人から受け入れてもらうこと自体、もはや本望ではない。それでも誰かを、何かを待ち続ける人間の矛盾と深淵を、この作品で垣間見たような気がします。

孤独は癒せるのか、癒せないのか。そもそも癒すべきものなのか。一つの答えを提示しているのが、「厭離」の次に収録されている「癒える」です。

不登校や肺の病気などで、青年時代までは世間との関わりから断続的に離れていた主人公の伊庭葉二が、大人になって家庭を持った現在、引きこもりの中学生の娘から、「お父さんは、どうやって癒(なお)ったの?」と尋ねられる(p.597)。これをきっかけに、彼は過去の自分を振り返ります。

かつての葉二は、自分のやりたいことが何なのかも分からないまま、「分厚く広大な日常の世界」の中で自己を見失うのを極度に恐れ(p.614)、とにかく本心や直感から思い立ったことを、結果も効率もいっさい無視して実行することを繰り返していました。たとえ周囲から浮いた存在になろうとも、それが彼の世の中へのせめてもの抵抗だったのでしょう。

若き日の抵抗の末、彼は何を悟り、大人になっていったのか。そもそも父親となった今のこの状況は、あの時と何かが変わっているのだろうか。結局、答えは分からないまま、彼は娘に対して明確なアドバイスの一つも示してあげることができないのです。

しかし、その「答えのない」ことこそが答えになっているということを、作者は伝えたかったのだと思います。世間からの孤立について、癒えた、癒えてない、などと近視眼的な選択を迫るよりも、そういった疑問から解放され、気づいたら、なんか自分なりに生きてました――そんな無自覚の現状にこそ、「癒える」という状態は最もよく当てはまるわけですから。

答えを教えてくれない父葉二を、娘は頼りなく思うでしょうか。そんなことはありません。答えなど見つからなくても、ずっと寄り添い、見守り続ける。自身に対して変わらず行ってきたことを、葉二は今、家族と共有している。自他への静かな信頼が、作品全体を包み込む穏やかな雰囲気にはっきりと表れています。

ちなみに伊庭葉二という名前から、太宰治の『人間失格』の主人公、大庭葉蔵を連想した方もいらっしゃると思います。そして伊庭葉二は、『宮原昭夫小説選』の一番目に収録されている最初期作品「幼い廃園」の主人公の名前でもあります。作者と作中人物のつながりに思いを巡らせるのも、作品を鑑賞する上での楽しみになることは、今さら言わずもがなですね。

今回はここまでにします。あと少しだけ、お付き合いください。

それでは(次回に続く)。

 

※作中の引用ページは「宮原昭夫小説選」(河出書房新社, 2007年初版)を参照しました。

↓前回までの記事はこちら

『宮原昭夫小説選』を少しずつ読んでいく①

『宮原昭夫小説選』を少しずつ読んでいく②

『宮原昭夫小説選』を少しずつ読んでいく③

『宮原昭夫小説選』を少しずつ読んでいく④

 

自信を持つということ

もう8年以上前の記事になりますが、太宰治の短編「水仙」をご紹介していました。今回は、それについて補足めいたことを書いてみようと思います。

 

↓当時の記事はこちらです。

#13 太宰治 『水仙』 ~天才の条件~

きりぎりす (新潮文庫)
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「水仙」は、芸術を志す人間が己の才能を信じることができず破滅する物語ですが、当時の僕のひとまずの紹介文の締めくくりとして、「他人が自分をどう評価しようと構わない。大事なのは、自分が自分の力を信じること」と書いていました。

曖昧な理想論としてはそれでよかろうと今でも思うわけですが、しかし自分で自分を信じるにしても、水仙のナルキッソスのようにはいきません。僕たちの自信の根拠として、やはり外部からの承認があって成り立つ場合がほとんどなのが現実ですよね。

セルフエスティームだのアファメーションだのと言っても、それを自己完結の世界だけで実践するのは難しいと思います。フォロワー数や口コミなんぞ、他人からの評価にどれだけの価値があるのかと強がっても、不承不承、そこが目下の拠り所にならざるを得ないことが多いのではないでしょうか。

ビジネスでも芸術でも、ことさら社会的に支持されなければ活動が維持できない限りにおいては、まったく何もないところから湧き出てくる自尊感情だけで満ち足りることのできる人は、やはり少数派(あるいは天才)ということになりそうです。

そんな中で、大半の人間が自分のしていることに自信を持つためには、結局のところ他人からの是認や称賛をどこまで信じることができるか――単なるおべっかや社交辞令ではなく、その人が本当に自分を認めてくれていると確信できるか、そんな受け手の環境なり心構えなりが必要になってくるのかもしれません。

8年前の記事ではなぜかまったく触れていませんでしたが、「水仙」の冒頭は、「忠直卿行状記」という菊池寛(1888-1948)の小説のあらすじから始まります。

「忠直卿行状記」という小説を読んだのは、僕が十三か、四のときの事で、(・・・)あの一篇の筋書だけは、二十年後のいまもなお、忘れずに記憶している。奇妙にかなしい物語であった。

「水仙」 前掲書 p.302)

「忠直卿行状記」は1918年発表の作品なので、「水仙」の語り手の「僕(≒太宰)」が十三歳くらいの1922年頃に実際に読んだのでしょう。このかなしい物語が「水仙」のヒロイン静子夫人の辿る悲劇の伏線となっているので、物語をより深く味わうためにも併読をおすすめします。

※以下、「忠直卿行状記」について少しご紹介する上で、当記事では筑摩書房「現代日本文學大系44」から引用しますが、ご興味のある方のため、下記の岩波文庫のリンクを載せておきます。

恩讐の彼方に・忠直卿行状記 他八篇 (岩波文庫 緑 63-1)
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忠直卿とは越前国の主君、松平忠直(1595-1650)のことです。彼は武芸に秀で、大坂の陣ではその働きぶりが祖父家康にも認められた武勲の誉れ高き若殿様でしたが、その名誉欲と自尊心を維持するため、毎日のように家臣たちと弓馬槍剣の試合を行っていました。

腕っぷしの強い家臣たちを来る日も来る日も打ち負かし続ける忠直卿ですが、ある夜、家臣たちが忠直卿のために「わざと負けてやっている」のだと話しているのを耳にして以来、自分の力が信じられなくなり、やがて乱心していきます。

殿様の行状は一変した。真実を見たくて、狂った。家来たちに真剣勝負を挑んだ。けれども家来たちは、真剣勝負に於いてさえも、本気に戦ってくれなかった。あっけなく殿様が勝って、家来たちは死んでゆく。

「水仙」 前掲書 p.302)

家臣たちが何と言おうと、忠直自身が己の強さを信じ続けることが出来ていれば、このような惨事にはならなかったはず。とはいえ、他人の評価をいっさい拠り所にせず絶対的な自信を持つことの難しさを思えば、忠直の行動原理が常軌を逸したものだとは言えません。

確認行為を繰り返すように、他者からの承認を延々と求め続ける。もとよりその信憑性を疑っているのだから、根本の不安と欲求は膨れ上がるばかり。しかし忠直卿には、他に方法がなかったのです。周囲にどれだけ多くの支持者がいても、主君という立場の彼はずっと孤独でした。

彼は、友人同士の情を、味わった事さえなかった。幼年時代から、同年輩の小姓を、自分の周囲に幾人となく見出した。が、彼等は忠直卿と友人として、交わったのではない。ただ服従をした丈である。

「忠直卿行状記」 前掲書 p.234)

では、忠直の家臣たちの全員がただ服従に徹するだけで、誰一人として主君と本気で戦わなかったのかといえば、実はそうではありません。小山丹後という老家臣は、忠直卿との囲碁の勝負では全力をもって相手をして負けています。

正直な丹後は、盤面に向かって追従負けをするような卑劣な心は、毛頭持っていなかった。

「忠直卿行状記」 前掲書 p.233)

しかしそのことを忠直卿は信じることができずに逆上、結果として丹後を切腹へと追い込んでしまいます。うわべだけの虚飾にまみれた人間関係において、その無数の声の中に一つや二つの誠実が隠れていても、それを見出し、それだけを一途に信じ抜くことは至難の業です。

同じことは、ネット上で不特定多数から承認を受ける場合でも言えますよね。心から信用しているわけではないのに、世の中の仕組みの故か、あるいは孤独感の故か、それを必要とせざるを得ない自分がいる。信ずるに足りない言葉をどれだけたくさん浴びても、永遠に満たされることはないと分かっているのに。

そんなジレンマの渦中で、それでもこの人だけは信じたい、信じることができる、自身を曇りなく映し出してくれる鏡のような存在が一人でもいたなら、幸いかな。いつかは裏切られ傷つくリスクはついて回るにしても、その人の言葉こそが、やがて本当の自信へとつながっていくのかもしれません。

リアルでもオンラインのみの関係でも、その違いはさほど問題にはならないと思います。もとより時代など関係なく、リアルの人間関係だって有為転変、まったくもってアテにならないのは世の常ですからね。

「水仙」の静子夫人でいえば、若い取り巻きの太鼓持ち連中ではなく、語り手の「僕」を初めから素直に信じることができていれば、そこに一人の天才が生まれていたかもしれない……だがそうはならないのが世の習い、人の性なのでしょう。語り手の「僕」だって、彼自身の卑俗なプライドから静子夫人と距離を置いていましたから。

この人こそはという他人を信じて、自分を深く委ねること。自信というものが自己完結で処理できないのならば、それがせめてもの救いなのかもしれません。そしてそれすらも上手くいかないのが現実で、だからこそ本当の自信を身につけている人というのは稀有な存在なのだと思います。

信じたい。でも信じられない。何も信じられないから、そんな自分が嫌だから、明らかな嘘や不誠実に真っ先にすがりついて自分を傷つけてしまう。いつの世も、悲しくも厳粛な、これが人生というやつでしょうか。

太宰治「水仙」、そして菊池寛「忠直卿行状記」、よろしければ読んでみてください。

長くなりましたが、今回はこれで終わります。

それでは。