一期一会、だからこそ

ある本や作者が注目を浴び、世間を賑わすたびに、人々は挙ってその著作を手に取る。

普段は本を読まない人たちでさえ、何かの大きな流れに身を任せるようにして、必要経費の名目で財布の紐を緩め、取りあえず目を通してみる。

店頭の書棚に次々と現れては消えていく、話題の本たち。

発売からほどなくして、新品にほぼ近いコンディション・価格で、古本屋の看板商品にしれっと早変わりしているのを目にする。

一方で、世の熱狂が過ぎ去ってもなお、その本は、ある人たちにとっては座右の一冊として残り、手垢でページが黒光りするまで愛読されることだって、もちろんある。

話題になった旬の一冊、そしてまた次の一冊を、渡り鳥のように軽やかに追いかけていく。そんな読書のスタイルも素敵だと思う。

大事なのは、手段じゃない。結局のところ、これだという一冊、この人はという書き手に出会えたなら、それが本との巡りあわせにおける何よりの幸運なのだから。

話題に乗っかって、時代の波に流されているようで、自分らしい自分、ブレない自分に予期せず辿り着けたりすることもある。ヘッセの「書物」という詩に、こんなことが書いてある。

書物はひそかに お前をお前自身の中に立ち帰らせる。

お前自身の中に、お前の必要とする一切がある、

(高橋健二訳 『ヘッセ詩集』 新潮文庫, 昭和63年第77刷, p.130)

読んでいて、心から面白いと思える本。そこから得られるのは、まったくの未知なる知識などではなく、読み手の奥底でくすぶっていた自身の可能性が文字として具現化された、その懐かしさにも似た共鳴の喜びだ。

書物とは、自分の姿を映し出す鏡。読書とは、新しい発見ではなく、自分との再会。

数多くの本の中から、もしもそんな一冊に出会えたなら、世の中の流行り廃りからはちょっとだけ距離を置いてみたい。そして、その作者の書いた他の作品も、片っ端から読んでみる。

あなたをほんとうにとらえて離さない作者を見つけたら、その人の全著作をお読みなさい。(・・・)これと決めたひとりの作者があなたに与えてくれるものを読む。(・・・)こうするうちに、あるひとつの観点から見た世界像が見えてくるのです。

(飛田茂雄訳 『神話の力』 早川書房, 2019年第8刷, p.220-221)

神話の力
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情報過多の時代、人も本も、一期一会の出会いが飽和状態で提供されている今だからこそ、これはと思った一冊を、一度きりの人生の大切なきっかけにしたいもの。

大好きな作家を、まずは一人、思い定めてほしい。そしてその全作品を、心ゆくまで読み尽くすべし。秋の夜長の、読書のススメです。

それでは。

 

昔の自分の文章にツッコミを入れる

ヘルマン・ヘッセ「幸福」という詩が好きでした。

好きというか、最初の2行を読むだけで、「幸せってなんだろう」という永遠のテーマに、あっさり答えてくれているのです。

幸福を追いかけている間は、

お前は幸福であり得るだけに成熟していない

(高橋健二訳 『ヘッセ詩集』 新潮文庫, 昭和63年77刷, p.64)

 

これだけ読めば、もはやあらゆる自己啓発書は御役御免かもしれません。

たしか、これを学生時代に読んだ影響だと思うのですが、当時の僕がしたためていた謎メモの残骸から、こんな文章を見つけました↓(原文ママ)。

どうしたら今よりもっと幸せになるかを考えるのではなく、

今がどれだけ幸せだと実感できるかに集中して、それを毎日繰り返す。

するともっと幸せになりたい雑念が日常から消える。

 

メモとはいえ、詩的情緒に欠けていて、ぎこちない文章です。

「集中」って、「繰り返す」って、言葉選びが柄にもない体育会系です。脳の筋肉の部分で哲学していた模様。こんな時代が、お前にもあったのだね。

ヘッセの詩を自分なりに解釈して、それを実践しようとしていた。その目の付けどころだけは、過去の自分を少しだけ褒めてやりたくなりました。

その成果としての今の自分はどうなのかと言うと、日常の些細なことで感動したり、異様に涙もろくなりました。人間としての成熟ではなく、心身疲弊や涙腺老化といった、おじさんの生物学的不可逆変化と言えましょう。

今思えば、ヘッセの詩から刺激を受けたのではなく、安堵していたのです。

どだい自分にとっての幸福とは、既存のそれを愛でるものでこそあれ、「追いかける」ということをほとんどしてこなかった半生でした。何事にも阿呆なくらい執着がないのを、ささやかな誇りにさえしている始末。

幸せを追いかけていないからといって、投げやりになっているわけでもなく、あるいはすべてが満たされているという強烈な実感があるわけでもなく、要するに、本当に何も考えていないのです。

その何も考えていない状態を幸福と呼んでもいいのかしら、という疑問に、別にいいんじゃね? とヘッセの詩が答えてくれたのかもしれません。

細々と物を書き続けるということ以外、そもそも生きる目標がない人間ですから、あれをやりたい、これもやりたいと何かを追いかけ続ける多動の人生を、ついぞ経験しないまま終わりそうです。

そんな僕ですが、少しずつ「準備」を進めております。万事問題なく運び、ご報告できるとよいなと思っています。

恥ずかしいメモは、恥ずかしいので処分しました。

それでは。