#47 『ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯』 ~黒企業メグリ~

「おすすめ文学 ~本たちとの出会い~」

第47回目。年を重ね、経験を重ねるほどに思うこと。それは、「足ることを知る」むずかしさ。どこまで現状に満足し、どこまで理想を追い求めるべきなのか。ガツガツするには若くもなし、謙虚になるほどの年でもなし。実るほど頭(こうべ)を垂るるなんとやら、というけれど、単に思索にうなだれているだけの、頭でっかちの稲穂もあるかもしれません(笑)。

 


ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯 (岩波文庫)

 

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#47 『ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯』 ~黒企業メグリ~

今回ご紹介するのは16世紀スペインの小説で、作者は不明。ピカレスク小説の先駆とされています。ピカレスク(悪者)小説とはいえ、主人公の少年ラーサロラサリーリョ)は特に悪童というわけでもありません。8歳の時分に父親を失い、貧しい家を出て、その後何人ものロクでもない主人に仕えて苦労に苦労を重ねる、「おしん」みたいな愛すべき男の子です。生きるか死ぬかの生活の中で多少のずる賢さを身につけていく彼に、健気さを見出すか、あるいは人としての弱さを見出すか、読む人間の経験値や人生観によって、さまざまな味わいを楽しませてくれる「苦労話」です。

出典:会田由訳『ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯』 岩波文庫, 2010年第16刷

 

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主人公ラーサロは幼くして父親を戦で亡くし、母親と訳ありの「義父」との間に生まれた小さな弟と共に、貧しい生活を送っていました。そんなある日、盲目の男と出会い見込まれたラーサロは、手引き役として彼の行く先々で仕えるために、親元を離れることになりました。

仕事にありつき、自立への第一歩をあゆみ始めたと言えば聞こえはいいですが、そこは当時の下層民の事情、つまりは口減らしということなのでしょう。かわいそうなラーサロは、これ以降、子どもながらに人生の苦渋を嫌というほど味わうことになるのです。

「馬鹿野郎、覚えておくがいい。盲の手引き小僧ってものは、悪魔よりかちょっとばかり利口でなくっちゃならんのだぞ」

(p.16)

こんなことを、少年は挨拶代わりの初歩知識として叩き込まれます。貧しい日々を生き延びるのに、きれいごとは役に立たない。時には自分の主人に対しても嘘をつき、わずかばかりの小銭やパンのかけらを命がけで着服する術を、ラーサロは身につけていったのです。

彼の最初の主人である盲目の男から、金に対する抜け目のなさ(今でいう経理)と他人を欺くこと(今でいう営業のコツ)を学んだラーサロは、自分を散々こき使い苛め抜いた彼の主人へのささやかな恩返しとして、最後は彼をわざと危険な場所に手引きして大怪我を負わせると、どうにか彼のもとから逃げ出すことに成功しました。

その後もラーサロは、けちな聖職者、見栄っ張りの従士、いんちき免罪符売りなど、どれも甲乙つけがたいほどにロクでもない主人に次々と当たり、そうして常に腹を空かせて生きて行くのです。待遇の劣悪な職を転々とする彼の心境は、現代のブラック企業や中途採用などにおける一部の生々しい実情にも通ずるところがあるのではないでしょうか。

おれはこれまで二人の主人に仕えて来た。最初の先生はすきっ腹で半死半生の目にあわせやがった。そこでこいつをすて去ったかと思うと、今度の先生にひょっこり出っくわしたんだが、これになると、もはやすきっ腹をかかえて、おれをお墓ん中へ閉じこめてやがるんだ。そこで、もしおれがこの男をすて去って、これよりさらに悪い先生にぶっつかろうもんなら、いったいどうなるだろう、そうなったら死ぬだけじゃないか?」

(p.49-50)

今の職場の待遇に、大いに不満がある。でもこんなご時世に辞めたところで、次があるだろうか。よしんば次が決まったところで、そこが今より良いという保証もない。いやむしろ、悪くなるに決まっている――そんなネガティブ思考の連鎖にラーサロは陥りながらも、決死の覚悟で転職をくり返していたわけです。

どこで落としどころを見つけるか。その点、ラーサロの三人目の主人である見栄っ張りの従士などは、あまりにもプライドと理想が高すぎて、彼自身が職に就けない(逆に召使のラーサロに食わせてもらっている)という状況。どこまでを望み、どこで妥協するのか、人生におけるリアルな悩ましさが垣間見られるところです。

その後にラーサロが仕えることになる免罪符売りのエピソードなんかも面白いのですが、ここでは割愛します。結局のところラーサロは、何度も主人を替えては同じような苦労をなめ続け、それでも最後には、いくらかマシな主人と仕事にありつき、そこで出世し、結婚もするのです。

ただし、この物語はあくまで「苦労話」。単純なハッピーエンドの成功物語とは一味違います。たしかに家計は安定した。愛する妻もいる。しかしその妻に関して、何やらラーサロの耳によからぬ噂が入ってくるのです。しかし苦労人の青年ラーサロは、もはや単なる噂なんぞに動じる男ではありませんでした。

「いいかね、もしお前がおいらの友達だったら、おいらの苦になるようなことは言わんでくれ。(・・・)なんちっても、世の中でいちばん愛しているなあ、あいつだからね、おいら自身より、おいらはあいつが可愛いんだ。」

(p.141-2)

穏やかにそう言って、ラーサロは今現在の自分が幸せの絶頂にあることを、物語の最後で確信しています。

彼は別段、不安要素から目を背けているわけでもないように思います。はたから見れば、彼の周囲には、いまだに幼少期からの「不幸」が付かず離れずくすぶっているように見えるのかもしれません。仮にそうだとしても、彼自身きっぱりと今が幸せだと言い切っている。これが苦労人の強さであり美徳なのだなと、僕は感心してしまうのです。

現状で満足するとか、妥協するとか、こういった言葉は時代のせいなのか何なのか、概して消極的なニュアンスが強いように思われます。しかしこの作品を読むと、そのニュアンスはいくらかは緩和され、自身の何ということのない日常にもある種の誇りが持てる、いや持つべきだろうと、そんな気さえするのでした。

今日は、これくらいで終わりにします。久しぶりの長文更新でしたが、読んでいただきありがとうございました。

それでは。

 

 

#44 ポルガー 『すみれの君』 ~晩春ノ騎士道~

「おすすめ文学 ~本たちとの出会い~」

第44回目。5月の街を歩いていると、路傍にスミレの花を見かけます。今まであまり意識していなかったのですが、英語ではviolet、紫色の花の代名詞的存在です。また日本語の語源は「墨入れ」という大工道具に由来するそうです。「紫」と「墨」――紫の字を筆名に、拙いペンを執ることはや十年の私、佐藤紫寿は、スミレという花をもっと知るべきだったのです。そしてスミレといえば忘れてはいけないのが、この作品。

 


ウィーン世紀末文学選 (岩波文庫)

 

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#44 ポルガー 『すみれの君』 ~晩春ノ騎士道~

オーストリアの評論家、アルフレート・ポルガーAlfred Polgar, 1873-1955)の短編小説「すみれの君」をご紹介します。時代に取り残され落ちぶれても、誇りだけは決して失うことのない没落貴族「すみれの君」。生きる勇気や希望を僕たちに分け与えてくれるのは、必ずしも時流に乗って栄える成功者とは限らない。男の苦悩、孤独、そして真の「ダンディズム」を、どうか君、古臭いと笑うことなかれ。

出典:池内紀 編訳 『ウィーン世紀末文学選』 岩波文庫, 2004年第11刷

 

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ルドルフ・フォン・シュティルツ伯爵は、数え切れないほどの浮き名を流し、大好きなカード賭博で山のような借金をこさえた放蕩貴族。その豪傑っぷりと陽気な性格から、男女を問わず人気者でした。そんな彼は、

きざなほどノンシャランな態度や物腰、歩き方、もの憂げに鼻にかかった声からしても、典型的なオーストリア貴族というものだった。伯爵は湯水のように金を使った。女友達には目をむくような高価な品を贈り物にした。きまってパリ特選の香水〈パルムのすみれ〉を添えてやる。そんなこともあり、(・・・)劇場筋の女たちから〈すみれの君〉とよばれていた。

(p.241)

折しも第一次大戦が終結し、共和制による貴族制度の廃止、戦後不況、元々あった自身の莫大な借金という三重苦に見舞われたルドルフは、元貴族にそぐわない様々な怪しい仕事をかけもちして糊口をしのいでいました。

食堂でろくなものが食べられなくても、ボーイへのチップは惜しまずはずむ。女性に贈り物をするために、その費用を当人からせびる。貴族としての見栄を張り続けるためなら、ルドルフは手段を選びません。

すみれの君は二重の性格をもっていた。何よりも自分の信条があり、およそその身に即さない場合でも頑として信条ばかりは守りとおす。みじめさと高貴さ、卑しさと気高さには厳しかったが、正と不正とは曖昧だった。

(p.244)

二重も三重も、すでに人格がお茶目に破綻していますよね(笑)。そんなルドルフのもとに、かつてのなじみの女友達ベッティーナが訪ねて来ます。彼女は身ごもっていたのですが、夫を事故で亡くしてしまい、生まれてくる子どもが私生児のレッテルを貼られる危機に瀕していました。

その危機を免れるために、ベッティーナはルドルフに自分と結婚してくれるよう頼むのです。もちろんそれは形だけの結婚で、ルドルフが子どもの父親であることを公的に証明し、おまけに爵位も継がせてしまえば御役御免、その場で離婚という段取りです。

ルドルフは悲しそうに首を振った。

「このたびの共和制は貴族を廃止しましたよ」

「称号は取りあげたかもしれません。でも尊い身分にはかわりはないわ!」

ベッティーナはきっぱりと言った。

伯爵は彼女の手をとってわななくようなキスをした。

「そうですとも、共和制など無視するといたしましょう!」

(p.249)

ルドルフとて百戦錬磨の色男、ベッティーナにかつがれていることなど、もとより承知の上だったはず。だからといって、目の前の困っている女性を放ってはおけない。そして貴族たる者は、単に女性を助けるだけでなく、彼女の名誉を守らねばなりません。その名誉とは他でもない、

婚姻の指輪である。花婿が花嫁に贈る指輪は、とりわけ美しい指輪でなくてはならない。とびきり高価なもの。言うまでもない。名誉にかかわることなのだ。にもかかわらず、まるであてがないのだった。いくら頭をしぼってみても名案が浮かばない。

(p.250)

しかし我らがすみれの君は、結婚式の当日には見事な指輪を携え、満を持してベッティーナに贈るのです。極貧の彼が、どうやってその指輪を都合できたのか。もしかしたら何となく予測がついている方もいらっしゃるかもしれませんが(笑)、その答えは是非とも作品を読んで見つけていただければと思います。

信条のためなら、手段は選ばない(限度はありますよ?)。その手段が幾分かは人を困惑させたり驚かせたりするものであっても、結果的に愛嬌として許されてしまう。そういう男にある種の教養のように備わっている精神を、オーストリアの古い騎士道において「ダンディズム」と呼ぶことができるのかもしれません。

というのも、このダンディズムという言葉の定義は、本作品の出典『ウィーン世紀末文学選』に収録されている「ダンディ、ならびにその同義語に関するアンドレアス・フォン・バルテッサ―の意見」という作品に興味深く書かれているのです。全部読まなくても、端的にはこういうことです↓

つまるところ〈ダンディ〉が美的価値の概念であるのに対して、〈紳士〉は倫理的価値の概念である。

(p.145)

いやしくも芸術の一分野にたずさわる僕自身、もういい歳なのだから、人様から単なる「紳士的」なおっさんとの評価をいただくに留まらず、己の信条をストイックに追求する「ダンディ」な生き方を、今後皆さまにお見せしたいもの――我が「紫」の師、高潔にて孤独なる古の貴族、すみれの君のように。

では、今日はこれにて、ごきげんよう。