「おすすめ文学 ~本たちとの出会い~」
第72回目。数奇な運命に誘われ、孤高の人生を味わう。そんな登場人物に静かに焦点を当てた物語は、良質な一杯のごとく、ひと時のほろ酔いを読者に提供することでしょう。スコッチウイスキーの名前に似ている、と思われた方もいるのでは?
『マッカラーズ短篇集 (ちくま文庫 ま-55-1)』
(↑書名をタップ/クリックするとAmazonの商品ページにリンクできます。)
★ ★ ★
#72 マッカラーズ『木、石、雲』 ~追いかけているうちは辿り着けないもの~
アメリカの作家カーソン・マッカラーズ(Carson McCullers. 1917-67)の短編「木、石、雲」をご紹介します。絶望の、その先に見出した「愛の科学」とは――シャーウッド・アンダーソンを思わせる孤独な人間への真摯な眼差しと、ヘミングウェイを彷彿とさせる硬質な文体を併せ持つ、個人的に大好きな要素の凝縮された作品です。
出典:カーソン・マッカラーズ作/ハーン小路恭子編訳・西田実訳 『マッカラーズ短篇集』 ちくま文庫,2023年第一刷
★ ★ ★
雨の降る薄暗い早朝、新聞配達を終えた少年が、行きつけの酒場にコーヒーを飲みにやって来ます。いつもはなじみの客の誰かが彼に声をかけてくれるのですが、その日は店の雰囲気が何となくぎくしゃくしている。どうやらその原因は、一人の奇妙な客にあるようでした。
カウンターの隅でビールを飲んでいた、老齢のみすぼらしいその客は、さっそく少年に話しかけてきました。10年ほど前に自分を捨てた妻の写真を少年に見せながら、老人は「愛」について語り始めます。
「わしは、本当に愛するということのない人間だった」
(p.167)
そんな彼が、妻との出会いをどれほど運命的に感じたか、彼女が出て行った時のショックがいかばかりであったかを、初対面の子どもに滔々と話して聞かせます。そうして、最初は「妻を連れ戻すことしか考えていなかった」彼の心境に(p.170)、やがて大きな変化が訪れたと言うのです。
「気がついたら突然、わしが全国各地に妻をさがしまわっているのではなくて、妻のほうがわしの心の奥へ入りこんで、わしを追いかけはじめていたのだ!」
(p.171-2)
失ってしまったものを長く追い続けるあまり、老人の心は壊れてしまったのでしょうか。しかし彼はこれを愛の「科学」の始まりと呼び(p.172)、さらに「平和だ」と宣言します(p.173)。今では老人は妻のことを追い求めることはせず、心の中に、絶えずその存在を穏やかに受け容れる境地にたどり着いたのです。
「今ではその道をきわめた。(・・・)どうしたらよいか、考える必要ももうないのだ」
(p.175)
その後の彼は、妻だけでなく、すべての人、すべてのもの――木、石、雲(a tree, a rock, a cloud)にいたる万物を愛でるようになっていました。個から全へと昇華した老人の愛のかたちは、憎しみや悲しみの鎧を脱ぎ捨て、そしてまたいつの日か、全から個へと還っていくだろう……そのように言い残し、彼は静かに店を出て行くのです。
☾
この作品を読むと、“I Guess Everything Reminds You of Something(何を見ても何かを思い出す)” というヘミングウェイの短編のタイトルを思い起こします。経験を重ねた人間なら誰もが分かっているように、あらゆる愛のかたちは過去の傷やあやまちの面影を色濃く映し出しながら、ようやく僕たちの心にその本質を現し始める、そんなところでしょうか。
酒場の主人や居合わせた客たちは、表面では老人のことをただの酔っ払いと小馬鹿にし、適当にあしらっているのですが、老人の説く「愛の科学」に実はきちんと理解と共感を示していることが、物語の端々にそれとなく描かれているのが印象的です。
目を背けたくなる現実を見つめ続けることで、気づくものがある。「あの人(老人)をいかれてると思う?」と不安げに尋ねる少年(p.177)に対する酒場の主人レオの態度に、僕は何だか救われます。詳細は、ぜひとも作品を読んで確かめてみてください。
カーソン・マッカラーズの「木、石、雲」、おすすめいたします。
それでは。
おすすめ文学作品リスト
https://shinovsato.biz/recommendation-list/
佐藤紫寿 執筆・作品関連の記事(更新順)
https://shinovsato.biz/category/information/works/