#68 ガルシア=マルケス 『予告された殺人の記録』 ~誰のせいでもない悲劇の中心~

「おすすめ文学 ~本たちとの出会い~」

第68回目。ラテンアメリカの文学としては初めてのご紹介(のはず)。運命とは自分の意思や行動で変えられるものなのか、それとも見えない力によって決定づけられているものなのか、そんなことを深く考えさせられる作品です。

予告された殺人の記録
予告された殺人の記録 (新潮文庫)
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#68 ガルシア=マルケス 『予告された殺人の記録』 ~誰のせいでもない悲劇の中心~

コロンビアの作家ガブリエル・ガルシア=マルケスGabriel García Márquez, 1928-2014)の中編小説をご紹介します。1951年、作者自身もかつて暮らしていた南米の田舎町スクレで実際に起きた殺人事件を題材とした作品で、冒頭からすでに確定している主人公の死――そこに至るまでの顛末が、作者が影響を受けたというフォークナー(→おすすめ文学#26)を彷彿とさせる時間軸をばらばらに切り分ける独特の手法によって、おびただしい数の登場人物の証言をまじえながら、現実と非現実・真実と嘘が交錯するパズルのピースによってつながり合い、複雑怪奇に語られます。

出典:G・ガルシア=マルケス作/野谷文昭訳 『予告された殺人の記録』 新潮文庫, 平成28年第17刷

 

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舞台はカリブ海地方のとある田舎町。21歳の若者サンティアゴ・ナサールが殺される1時間半前から、物語はスタートします。昨晩から続く町をあげての結婚披露宴の熱気からひとまず解放され、その朝に祝福のため船で町にやってくる司教を迎えるまでの間、町はほんの一時の静けさに包まれていました。

司教が行う華やかな教会の儀式を楽しみにしていたサンティアゴは、昨夜のどんちゃん騒ぎによる寝不足も物ともせず、きちんと礼服を着て早々に出かけようとします。しかし、あと2時間足らずのうちに帰らぬ人となる運命のサンティアゴに向かって、彼の母親はもの憂げにこう言います。

「(司教は)船から降りて来やしないわ」
「型通りの祝福を、いつものようにね、そうしたらまた引っ返してしまうわよ。この町を嫌ってるもの」

(p.12)

町全体が神から見捨てられているのだと言わんばかりの彼女の象徴的な台詞は、この後すぐに起こる惨劇を暗示しているようでした。いえ、暗示だけでなく、実際にこの町の人々の多くは、サンティアゴが命を狙われていることを事前に知っていたのです。

サンティアゴを殺したのは、目下行われていた婚礼の新婦であるアンヘラ・ビカリオの兄で、双子のパブロペドロ。殺害の理由は、結婚初夜にてアンヘラが処女ではなかったことが発覚し、彼女の操をけがした相手の男がサンティアゴ・ナサールであるとアンヘラ自身が告白した、というものでした。

その告白が真実かどうかという疑問が後々まで残るものの、妹を辱められた怒りに燃えるビカリオ兄弟は、サンティアゴへの報復を決意します。それは彼が殺される、ほんの数時間前のことでした。二人は屠殺用のナイフを家から持ち出し、人々がぼちぼち出勤し始める明け方の肉市場に行き、何人もの人間に目撃されながら堂々とナイフを研ぎ、彼らにこう言いました――おれたちはサンティアゴ・ナサールを始末するんだ(p.63)。

けれども普段は善良な人間で通っているビカリオ兄弟について、

誰も彼らの言葉を気にかけなかった。「おれたちは、酔っ払いのたわごとだと思ったんです」(・・・)その後彼らに会った多くの人々同様、何人もの肉屋はそう証言している。

(p.63)

突拍子もない殺害予告でしたが、あるいは本気かもしれないと訝しんだ一部の人々の中には、ビカリオ兄弟に馬鹿なことを思いとどまらせるため、警官に知らせたり、そんなことは止せと直接進言したりする者もいたのです。

そんな中、サンティアゴを待ち伏せるため、教会に面した広場の牛乳屋に入ったビカリオ兄弟は、その店の女主人クロティルデ・アルメンタや、牛乳を買いに来た警官に対しても、あけっぴろげに彼らの計画を話してしまいます。直ちに警官から報告を受けた町長のラサロ・アポンテ大佐も一応は店に顔を出すのですが、まだ居座っていたビカリオ兄弟からナイフを取り上げ、もう帰って寝ろとだけ告げると、二人を野放しにしたまま一件落着としてしまったのです。

ビカリオ兄弟は自分たちの計画を、牛乳を買いに来た十二人を超える人々に話した。その客たちによって広められたため、彼らの計画は六時前には町中に知れ渡っていた。(・・・)そこで彼女[クロティルデ・アルメンタ]は、誰かれかまわず、彼[サンティアゴ]を見かけたら用心させるように頼んだ。

(p.70)

もはや自分たちの犯罪を未然に防いでもらうため、それこそ誰かれかまわずアピールしているとしか思えないビカリオ兄弟。そのあまりにも非現実的で芝居じみた言動に、聞く側もリアリティの感覚を失うのでしょうか、結局は町の住民の誰一人として、サンティアゴの公然と予告された死を阻むための決定的な行動を起こすことができなかったのです。

あと数時間のうちに、この町に身の毛もよだつ惨劇が繰り広げられる。わたしたちの誰もが、すでにそれを知っている。それでも神よ、あなたは止めてくれないのか。わたしたちのうち誰かを導いて、止めてくださることはできないのか――「神の不在」を嘆く人々の声が聞こえてくるようです。

面白がって傍観しているわけではないが、率先して止めるわけでもない。学校や職場など集団の中でのいじめもそうかもしれませんが、周知の事実だからこそ、誰もがそのことに対して主体性を失い、誰かに判断を委ねてしまう。自分が関わるべきだ、それが自分の役割だという発想には辿り着かない。事態を点と点で結ぶのではなく、平面で共有することで、責任の所在がうやむやになってしまう。

犯行を阻むために何かできたはずでありながら、それをしなかった人々の大方は、名誉にかかわる事柄は、当事者しか近づくことのできない聖域であるということを口実にして、自らを慰めた。

(p.115)

精神に異常をきたす者、身を持ち崩す者、病気になる者……物語は彼らの辿るその後の人生に様々な困難を描いています。そんな町の人たちを、僕は責める気にはなれません。何かの渦中に率先して飛びこんで行くことの難しさは、個人の勇気の欠如とか思いやりのなさとか、いつもそんな単純なことで説明できるとは限らないからです。

程度の差こそあれ、誰もがサンティアゴやビカリオ兄弟を救いたいと願い、しかしそれができなかった。そのことが彼らの心の傷になっていることが、彼らの誰もが善良で誠実な人間であることの何よりの証になっている。それでも悲劇が起こってしまうことが、この世界の悲劇なのだと思います。

自分たち一人一人のどんな些細な行動も、ある出来事の結末にかかわっている(否、かかわってしまう)。プリーストリー『夜の来訪者』(→おすすめ文学#43)にも通じる世界観だと思うのですが、何か大きな流れに巻き込まれて生かされ(殺され)ているような漠然とした感覚を、本作品は僕たち読者に冷徹に知らしめているようにも思えます。とても難しいテーマですよね。

今回はここまでにします。ガブリエル・ガルシア=マルケス『予告された殺人の記録』を、是非とも読んでみてください。

それでは。

 


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#67 ジェームズ・ケイン 『郵便配達は二度ベルを鳴らす』 ~自己受容と自由~

「おすすめ文学 ~本たちとの出会い~」

第67回目。ほんの10分かそこら留守にしている間に、不在票が郵便受けに入っていた。これを運命の悪戯と呼ぶにはいささか詩的要素に乏しい――などと言っている場合ではなく、ただただ配達員の方に申し訳なく思います。忙しい中、何度ベルを鳴らしただろう。そんなとき、ふと頭に浮かんだ小説をご紹介いたします。

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#67 ジェームズ・ケイン 『郵便配達は二度ベルを鳴らす』 ~自己受容と自由~

アメリカの作家ジェームズ・ケインJames Cain, 1892-1977)の代表作とされる長編小説で、1934年に発表された「郵便配達は二度ベルを鳴らすThe Postman Always Rings Twice。ハードボイルド小説の萌芽期に生まれた名作の一つとして、今日まで読み継がれています。実は作中で郵便配達人がいっさい登場しないのも、ハードボイルドの趣というやつでしょうね。

出典:ジェームス・ケイン作/田中西二郎訳 『郵便配達は二度ベルを鳴らす』 新潮文庫, 昭和55年第26刷

 

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流れ者のフランクと、食堂の女房コーラ。罪を犯してでも結ばれようとする若い二人の、欲望と本能むきだしの血なまぐさい不倫劇……手短に説明してしまえばそんなストーリーが、ヘミングウェイやチャンドラーを彷彿とさせる超ドライな文体で綴られています。

あらすじだけを見ると、似た者同士がめぐり逢うべくしてめぐり逢い、共に破滅の一途をたどる物語に思えるかもしれません。でも実際は、二人は本質的には真逆のタイプで、だからこそ互いに強く惹かれ合ったのです。

「高校の美人コンテストに一等になったの、(・・・)ご褒美に、ハリウッドへ旅行させてもらったの。急行を降りたときは十五人もの男があたしの写真をとりに来たけど、二週間たったら、あたしは安料理屋ではたらいてたわ」

(p.21)

そう過去を振り返るコーラは、華やかな世界に憧れながらも「あたしなんか」と気後れし、映画女優になる夢も早々に諦め、やがて食堂を経営するギリシア人と結婚。良くも悪くも世間体を気にしており、ささやかな生活の安定に留まりながら、若くして己の人生の行き詰まりを傍観しています。

そんなコーラのもとに流れ着いた風来坊のフランクは、その日暮らしの不安定さの中にも自分の芯をしっかり持っています。放浪の人生を謳歌する人間らしく、他人に自分の価値や立場を定めてもらう必要のない、いわゆる承認欲求とは無縁の男――自分にはないものを持っている彼に、コーラが惹かれるのは必然でした。

「ほれたのよ。あんたがシャツ一枚もってなくっても、あたしはほれたわ。」

(p.24)

二人の恋は瞬く間に燃え上がり、邪魔者(コーラの夫)をひそかに殺害する計画へと移ります。そんな彼らの関係が最終的に破滅を迎えるのは、悪事に手を染めた結果という道義上の点を抜きにすれば、単に彼らの価値観の不一致が招いたものにすぎません。コーラの次の台詞にもあるように、それは初めから分かりきったことでした。

「あたしはジプシーみたいな、旅がらすの気分になれないの。いえ、ほかのどういう気持にもなれなくて、ただ、恥ずかしくってたまらないの、(・・・)」

(p.46)

「あんたはあたしと知りあってから、ずうっとあたしを風来坊にしようとして来たけど、そうはいかないわよ。前にも言ったでしょ、あたしは風来坊じゃないって。あたしは何かになりたいのよ。ふたりでここにいるの。どこへも行かないの。」

(p.141)

過ちを犯し、もう後戻りはできない状況にあっても、コーラはフランクとどこか別の土地に行こうとはせず、物理的にも精神的にも今まで自分が生きてきた(というか夫に築いてもらった)基盤の上で人生をやり直そうとします。そんな状況において、彼女の「何かになりたい」という言葉はとても印象的です。

その「何か」というひどく曖昧な認識、いつまで経っても自分では明言することのできないであろうその言葉は、彼女自身をさしおいて世の中に自分の居場所や価値を決めてもらおうとする現代人的なスタンスの表れです。

一方のフランクは、誰も自分を知らない世界に生きたいと願っています。それは彼がコーラと出逢う前からずっと変わることのなかった、流れ者としての本能でした。罪を犯したことで周囲の目を気にせずにはいられなくなった状況ではなおのこと、彼は誰にも自分を知られていない環境を渇望します。フランクは別の女性とも浮気をするのですが、

(・・・)この娘はおれが何者だか知らないことがわかったので、もう何も不足はなかった。(・・・)娘にはおれの名は何の意味もなかった。ああ、ちきしょう、まったく、あんなにほっとしたことはなかった。

(p.143)

この独白からも、彼が「何者でもない」自分をどれだけ強く望んでいたかが伝わってきます。周囲の疑いや好奇の目にさらされることは、もとよりフランクのような身軽さが命の人間には耐えがたい苦痛です。彼がコーラと辿る運命の末路は想像にかたくないかもしれませんが、具体的にどんな悲劇の結末が描かれるのか、皆さん是非とも作品を読んで確かめてみてください。

意図的にしろ成り行きにしろ、自分の行動や存在を世に広く知らしめ人々の記憶に留めることは、その時点で時が止まった自分を他人に印象づける重責を自発的に負うことに同じです。あらゆることが変わり続ける人生において、変わらない(いつまでも残る)自身の記録は、その長い一生において勲章にも足枷にもなり得ます。

フランクのように、他人に自分を知られることの欲求に対して自由でいられる人間こそが、本当の自由人かもしれません。個人的には、そういう人間は幸せだと思います。もちろん、その風任せの日々の行きつく先で世間を騒がす犯罪に手を染めてしまっては目も当てられません。とりわけ現代のようなデジタル社会においては。

余談ですが、フランクは写真にうつることすら好まない人間のような気がします。もし彼が今の時代に生きていたら、きっと誰よりも窮屈な思いをしただろうなと想像してしまいます。

それでは、今回はこの辺で失礼いたします。

 


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