#62 オースティン 『自負と偏見』 ~障壁は心の中に~

「おすすめ文学 ~本たちとの出会い~」

第62回目。好きだったのに、思っていた人と違っていた。信じていたのに、裏切られた。いい人なんて、どこにもいないんじゃないか。だからと言ってもう二度と恋なんかしないと殻に閉じこもってしまうのは、やはりもったいない。誰目線でそんなことを言うのかと突っ込むのはご勘弁いただき、とにかく、恋に悩み愛に生きるすべての人に読んでほしい一冊です。

 


※当記事の出典は中野好夫訳。絶版のようですが、おすすめです。
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※新潮文庫だとこちらが現時点で最新版のようです。
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#62 オースティン 『自負と偏見』 ~障壁は心の中に~

原題はPride and Prejudice――『高慢と偏見』とも訳される本作は、イギリスの作家ジェーン・オースティンJane Austen, 1775-1817)の長編小説です。何やらお堅いイメージのタイトルと、それなりの分厚さ(新潮文庫版の邦訳で約600ページ)から、なかなか手が出ないという方もいらっしゃるかもしれませんが、ご心配なく。時代を超えて共感できる人間観察の描写に、ユーモアあふれる生き生きとした会話がふんだんに盛り込まれた、奥深くも読みやすい恋愛小説です。

出典:オースティン作/中野好夫訳 『自負と偏見』 新潮文庫,平成17年第12刷

 

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舞台は18世紀末頃のイギリス。ハーフォードシャーはロンボーンという田舎町に住むベネット一家は、年頃の娘ばかり5人もいる賑やかな大家族。母親のミセス・ベネット――見栄っ張りで、おしゃべりとゴシップが大好きな愛すべき田舎のおばちゃん――は、娘たちを適齢期のうちに嫁がせることを唯一の使命とばかり、日々あれこれと気を揉んでいました。

長女のジェーンは無類のお人よしで奥手だが、器量は姉妹の中で一番。主人公で次女のエリザベスリジー)は頭の回転が速く、やや斜に構えるところは父親似、活発で好奇心旺盛なところは母親ゆずり。三女メアリーは本の虫で、目下色恋には興味なし。四女キャサリンキティ)と五女リディアは、駐屯地の若いイケメン軍人たちをアイドルか何かのように追っかけている、いわゆる「おきゃん」。父親のミスター・ベネットに言わせると、

「(・・・)いずれを見ても山家育ち。バカで、無学で、そんじょそこいらの娘たちと、どこに選ぶところがある? そこへゆくと、リジーの奴は、ほかの連中よりは、たしかに頭のいいところがある」

(p.8)

我が子に対してずいぶんな評価ですが、そこは毒舌と皮肉を愛する英国紳士。彼なりに5人の娘を、特にエリザベスをとても可愛がっているのです。「頭が悪くて、物知らずで、しかもひどいお天気屋」である妻(p.9)を筆頭に、個性豊かな女たちに度々うんざりさせられながらも、ミスター・ベネットの家庭はまずまず平和なのでした。

そんな折、近所に引っ越してきたのがミスター・ビングリーという若い紳士。お金持ちでハンサム、社交的で人あたりもよく、しかも独身という、願ったり叶ったりの人物です。町の舞踏会(娘たちにとっての出会いの場)では、ビングリーはロンドンから友人や身内も引き連れて現れ、会場は大盛り上がり。そのロンドン組の中でも、ビングリー以上に注目を浴びたのが、彼の親友であるミスター・ダーシー

背の高い見事な骨柄、ととのった眼鼻立ち、上品な物腰、おまけに彼が入ってきて、ものの五分とたたないうちに会場全体に広まってしまった、なんでも年収一万ポンドはある金持だという噂が、たちまち満座の注意を彼ひとりに集めてしまった。

(p.16)

これは町の娘たちが放っておかぬ、と思いきやこのミスター・ダーシー、男っぷりはビングリーと双璧を成すも、性格はまるで反対。不愛想で、気位が異様に高く、洗練された都会人たる上から目線の態度がいちいち鼻につく(田舎の人たちはこういうのにすごく敏感)ものだから、皆からたちまち嫌われます。ほら、あの子(エリザベス)なんか可愛いじゃないか、一緒に踊ってみたらどうだい、と親友ビングリーから勧められても、

「まあ相当じゃあるねえ。だが、とても心を動かされるほどのもんじゃない。おまけに、ほかの男から無視されているような女に、いまさら僕が箔をつけてやる気は、いまのところないねえ。(・・・)」

(p.18)

本人に聞こえるところで、こう言い放つ始末。姉のジェーンとビングリーがさっそく相思相愛のいい雰囲気を見せている中で、エリザベスのダーシーに対する第一印象は最悪でした。そのくせ、後にダーシーの方で彼女に惹かれていくことになるのですが、「いくら好きでも、家柄ちがいということがあれば、やはり理性的に考えて、そう簡単に結ばれるわけにはいかぬという彼の結婚観」が邪魔をします(p.294)。

もっとも、家柄や財力、教養の高さなどがつり合った相手でなければ結婚の対象にはならないという考えは、当時としては普通でした。そして、愛の告白は即プロポーズを意味するという事情からしても、初対面からほぼ一貫していたダーシーのエリザベスに対する冷ややかな態度も、むしろ彼の誠実な人柄の現れと言えなくもないわけです。

時代の価値観に加えて、女には女の、男には男の自負と偏見があり、それらがお互いの本質を見抜く、あるいは尊重することの障壁となるのは、今の世も根本的には変わりません。エリザベスを取り巻く恋愛は、ダーシーの他にも登場する男たちによっていよいよ山場を迎えるわけですが、フィクションの世界はともかく、現実の恋愛においても、果たしてどの男が「本物」で、どいつが「偽物」なのか、見極めるはとても難しいですよね。

つまり、わたしはね、この世でほんとうに愛せる人間なんて、ほとんどいないと思うの。まして、ああ、りっぱだと思う人なんて、いよいよいないわ。世間というものが、知れば知るほど、いやになっちゃったのよ。人間なんて、ほんとうにわからないものねえ。いくら表面りっぱそうに見えたり、もっともらしく見えたりしたからって、あてになんかなるものかって気持が、日に増して強くなるの。

(p.214)

エリザベスもこんなことをぼやいていますが、もとより二十歳そこそこで「世間を知る」などという芸当ができるはずもありません。彼女自身、なまじ頭が良すぎるが故に、経験に先回りして抱いた偏見のせいで危うく真実を見失いそうになるのですが、それでも相手に(そして自分自身にも)最後まで向き合うことで、幸せを手に入れるのです。

恋に悩む人も、これから悩む予定の人も、ジェーン・オースティン『自負と偏見』を、是非とも読んでみてください。それでは。

 

 

#61 ホーソーン 『緋文字』 ~偽りと罪の連鎖~

「おすすめ文学 ~本たちとの出会い~」

第61回目。自分に嘘をつくことと他人に嘘をつくことは、本質的には同じ――どちらかが発端になり、どちらかがその結果として帰着する。表向きの嘘や偽りによって自分を守ったり、他人を喜ばせたりすることもできるけれど、嘘によっては、ついている本人の内側を密かに蝕んでゆくこともある。今回ご紹介する作品のテーマの一つだと思います。

 


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#61 ホーソーン 『緋文字』 ~偽りと罪の連鎖~

アメリカ古典文学を代表する作家の一人、ナサニエル・ホーソーンNathaniel Hawthorne, 1804-64)の長編小説『緋文字The Scarlet Letter)』をご紹介します。17世紀植民地時代のアメリカ、厳格な清教徒主義のもとにあったニュー・イングランド(マサチューセッツ州ボストン)が舞台ですが、当時の人々が罪を犯した者を仮借なく責め立てるその態度は、今も変わることのない、時代や宗教観といったものを越えた普遍性を感じさせます。

出典:ホーソーン作/鈴木重吉訳 『緋文字』 新潮文庫,平成5年第61刷

 

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主人公はニュー・イングランドのとある町に暮らす若い女性へスタ・プリン。彼女の衣服には、姦通(Adultery)の罪人であることを示す緋色の頭文字「A」が金糸の刺繡で飾られていて、彼女はそれをいつも身に着けていなくてはなりませんでした。

イギリス生まれのへスタは、もともとはアムステルダムに年の離れた夫と家庭を持っていましたが、夫の意向で新大陸への移住を決意、ひとまずへスタのみ単身ボストンに到着し、それから2年が経過し夫からは何の音沙汰もない中、彼女はある男と不義をはたらいてしまうのです。

へスタは町の広場に立たされ、姦通の相手との間に生まれた幼い娘パールを抱いたまま群衆の視線に晒され、皆から侮蔑と嘲笑を受けます。人々は罪を犯した相手の男の名を明かすようへスタに勧告するのですが、彼女は頑なに拒みます。

「これ女、神のお情の限度を越えてはいけない!(・・・)名を言ってしまえ! そうして、悔い改めれば、緋の文字はお前の胸から取れるのだぞ。」 (・・・)

「申しません!」 へスタは死人のように蒼ざめながら、(・・・)その声に答えた。「そして私の子供は天の父を探すのです。この世の父親は知らせません。」

(p.30)

へスタは一人で罪を背負いました。誰の助けも借りずに針仕事で生計を立て、少しでもお金が余れば貧しい者に施しをし、隣人を助け、その見返りとして罪の女と罵られる……それでも文句ひとつ言わず、娘パールを守りながら孤独な生活を続ける彼女のひたむきな姿に、長い年月を経て、人々も態度を改めていきます。彼らは、

緋文字を彼女が長い間やるせない懺悔として担ってきたあの罪の印しではなく、その後の数多い善行のしるしと見なしだしていた。(・・・)この人たちはよそから来た人々に言うのだった、「あれは私たちのへスタさんですよ――この町のへスタさんで、貧しい人には親切で、病人には頼みになり、悩んでいる人には慰めとなってくれる人なんです!」

(p.140)

特別扱いという意味では変わらないけれど、へスタは町の人々から認められ、彼女のかつての罪も部分的には許容されるに至ったのです。

一方、彼女の不義の共犯者である男はどうでしょう。その男(読むとすぐに分かってしまうのですが、ここでは詳細は伏せます)は、町では誰からも尊敬される職業に就いていました。それだけに世間の目を恐れ、自身の立場を危ぶみ、へスタが一人で罪を背負うのを黙認してきたのです。しかし、罪を逃れてのうのうと生きるには、彼はあまりにも繊細で正直な若者でした。

不幸な虚偽の生活が我々の周囲にあって天が精神の喜びや栄養分としているすべての現実から本質と核心を盗みだすのは、彼の生活ほど偽りの多い生活のもつ口には言えぬ苦悩であった。不実な人間には、この世はすべて偽りであって(・・・)そして自分も偽りの光に身をさらしている限りは影となり、ほんとうに消えてしまう。

(p.120)

「偽りの光」とあるように、彼は社会的には成功者でした。しかし、表向きの人生がひかり輝けば輝くほど、心の内はどんどん濃い影を帯びてゆく。本当の自分を誰にも打ち明けることができない苦しみと孤独は、公に罪を背負うへスタのそれよりも深く、絶望的に描かれています。

そんな彼の弱みに付け入ったのが、ロゥジャ・チリングワス――へスタの夫で、彼女以外の人間には正体を隠して町に潜入していたのです。チリングワスは妻の不義の相手をいち早く見破ると、敵であるその人物に友情を装って近づき、そうして彼の罪を告発するわけでもなく、その内側の罪の意識と苦悩をあぶり出して一人楽しむかのような陰湿な復讐を行うのです。そんな夫に、へスタは懇願します。

これ以上の罪の報いはその権利を要求しておられる神の力にまかせて、赦して下さい! 只今申しましたが、あの人にも、あなたにも、私にも、よいことはあるはずがないと。私たちは今この暗い邪悪な迷路をいっしょにさ迷い、一歩毎に自分たちの道にまいた罪に躓いています、と。

(p.153)

罪の裁きを法律や宗教といった社会の受け皿にゆだねず、個人の意思のみで報復することの罪悪をへスタは説きますが、夫は聞く耳を持ちません。へスタの不義の相手が己の罪を隠し続ける限りは、チリングワスの個人的な復讐も終わらない。己を偽ることが新たな罪を生み出してしまうという負の連鎖が描かれています。

他人の過ちを餌にして自らの心の醜さを肥大させるチリングワスは、読者の大半から嫌われるであろう、ある意味では物語唯一の悪人と言ってもいいくらいです。けれどもそんな彼を見る時、個人(しかも匿名)で個人を糾弾するということがSNSなどで簡単にできてしまう今の時代、僕たち誰もがチリングワスになってしまう可能性を持っていることにも思いを馳せるべきではないかと思わされます。

寄って集って責め立てる、そんな社会だから、いざ自分が責めを負うべき立場になると、今度はそれをひた隠しに隠したくもなる。そうやって隠されたものは、実体以上の陰を帯び、人はまたそれを必要以上の明るみに晒そうとする……

このような負の連鎖を断ち切ることこそが、へスタのように皆から執拗に後ろ指をさされて生きる人間、不義の相手の男のように己を偽り人知れず苦悩し続ける人間、そしてロゥジャ・チリングワスのように歪んだ憎しみに身をやつす人間を生み出さないことに繋がるとも思わされます。

物語の語り手は、こう締めくくります。

(・・・)これらの影のような人たちに対しては――ロゥジャ・チリングワスにもその仲間にも――我々は慈悲深い態度をとりたいものである。憎しみと愛とは本当は同じものであるかないか、興味深く観察し研究すべき問題である。どちらも、極度に発展すれば、高度に親しく心のふれあいを必要とするもので、どちらも人に愛情と精神生活の糧を与えあうようにさせるものである。

(p.257-8)

どんな人間も罪というものの犠牲者であるならば、罪を憎んで人を愛すという至難の業を、あるいは実現できるのかもしれません。いささか潔癖の過ぎるこの人間世界、自らを偽らずに他人をいたわって生きて行けたなら、そう思います。

ナサニエル・ホーソーン『緋文字』を、ぜひとも読んでみてください。

それでは。