#66 堀辰雄 『風立ちぬ』 ~行き止まりから始まる~

「おすすめ文学 ~本たちとの出会い~」

第66回目。早いもので、もう師走です。2022年の集大成に向け、悔いのないよう過ごしたいと思います。おすすめ文学も、せっかくなら今が旬のものを読んでいただきたく、作中で12月がクライマックスを迎える昭和初期の名作をご紹介したいと思います。

 


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#66 堀辰雄 『風立ちぬ』 ~行き止まりから始まる~

ジブリ映画の原作(の一つ)としても知られるようになった堀辰雄(1904-53)の代表作。最愛の人に訪れる死と向き合おうとする主人公を通して、残された最後の時間をどう過ごせばよいのか、その先にやってくる未来をどう迎えるべきかといったことを考えさせられる、ある意味では一年の「終わり」に読むのにふさわしい作品です。

出典:堀辰雄 『風立ちぬ・美しい村』 新潮文庫, 平成元年第93刷

 

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語り手で小説家の「私」は、絵を描くことを愛する女性、節子と軽井沢で出会います。二人は晴れて2年後に婚約しますが、節子は患っていた結核(作中の1930年代当時はまだ不治の病でした)の療養のため、信州は八ヶ岳山麓のサナトリウムに入院することになりました。

医者から本人には「大したことはない。一、二年の辛抱」としか知らされなかったものの、実際の病状はかなり深刻で、やがては直面しなくてはならない最期について思いを巡らせる中、「私」も節子に付き添ってサナトリウムで一緒に生活することを決意するのです。

こういう山のサナトリウムの生活などは、普通の人々がもう行き止まりだと信じているところから始まっているような、特殊な人間性をおのずから帯びてくるものだ。

(p.101)

行き止まり――つまり死に向かって刻一刻と失われてゆく時間の中で、蜜月の平凡な幸福に満たされるはずだった若い二人は、これからどのようにして人生の意義を見出せばよいのか……病床の節子と過ごす日々、「私」はとにかく彼女との生活の一瞬一瞬をかみしめて生きようと努めます。

病室のバルコニーから眺める山の景色、静かに移ろいゆく季節……どこか遠くに出かけられなくても、目新しい出来事など何もなくても、愛する人が自分のそばで生きてくれている。そのことだけが、残された時間をどこまでも濃密なものにしてくれることを、二人は言葉少なに確かめ合います。

私の身辺にあるこの微温い、好い匂いのする存在、(・・・)その微笑、それからまたときどき取り交わす平凡な会話、(・・・)我々の人生なんぞというものは要素的には実はこれだけなのだ(・・・)。

(p.103)

そのささやかな幸福をより確かな形に残すため、「私」は節子との生活を小説に書こうと構想を練り始めます。しかし、そうすることで本当に彼女の命と向き合っていると言えるのかという葛藤――自分がしていることは単なる気まぐれ、自己満足ではないかという思いが、彼を新たに苛み始めます。

自分たちの時間をこの上なく意義のあるものにしなければという思いが強すぎるあまり、それを芸術作品として完成させることで、切なくも美しい、幸福に満ちた人生「だった」という予定調和の未来を無理にでも先取りしようとしているのではないかと、彼は悩んだのです。

身の終りを予覚しながら、その衰えかかっている力を尽して、つとめて快活に、つとめて気高く生きようとしていた娘(・・・)そんな物語の結末がまるで其処に私を待ち伏せてでもいたかのように見えた。

(p.126)

近づきつつある死をどれほど厳粛に扱い、甘美な芸術の域に昇華したとて、根本的な救済は為されない。ひとりの人間として、愛する者との別れを恐れつつ、いち芸術家として、「物語」の意義を自問自答する。そんな二重苦の因果を、作家である彼は感じていたのではないでしょうか。

「(・・・)この頃のおれは自分の仕事にばかり心を奪われている。そうしてこんな風にお前の側にいる時だって、おれは現在のお前の事なんぞちっとも考えてやりはしないのだ。(・・・)そうしておれはいつのまにか好い気になって、お前の事よりも、おれの詰まらない夢なんぞにこんなに時間を潰し出しているのだ……」

(p.139)

この率直な胸の内を、「私」は節子を見つめたまま無言で伝えようとします。すると彼女もまた、すべてを理解しているかのように、笑顔ひとつ見せることもなく黙って見つめかえします。それは12月、二人が療養所で迎える最初で最後の冬のこと――ようやく彼らは、自分たちの運命をありのままに受け入れ、分かち合うことができたのかもしれません。

死を待ち受けることでしか気づけない有終の美としての幸福もある一方で、大切な人との別れはやはり辛くて悲しくて、結局のところ、それ以外の何物でもない。そんな原点の思いに以心伝心で共鳴することのできた二人は、きっと彼らの思い描いた物語の通り、或いはそれ以上に意義のある人生を送れたのではないでしょうか。

語り手の「私」は、節子が息を引き取る瞬間のことを僕たち読者にはっきりと伝えないまま、物語を1年後に移します。

おれは人並以上に幸福でもなければ、又不幸でもないようだ。そんな幸福だとか何んだとか云うような事は、嘗つてはあれ程おれ達をやきもきさせていたっけが、もう今じゃあ忘れていようと思えばすっかり忘れていられる位だ。反ってそんなこの頃のおれの方が余っ程幸福の状態に近いのかも知れない。

(p.168)

そう回想するにとどめ、節子の最期を克明に想起しないのは、むしろ彼女の不在を乗り越えているからだと思います。虚しさや孤独を漂わせながらも、自分は幸福でも不幸でもないとぼんやり考える「私」には、一切の作為も弁解もない、自然体の清々しささえ感じます。

一つの季節が終わりを告げ、新たに始まる冷たく清らかな季節が、今まさに迎えられようとしています。

「行き止まりから始まる」物語――堀辰雄『風立ちぬ』を、この時期に是非とも読んでみてください。

それでは。

 

 

#65 エロシェンコ 『魚の悲しみ』 ~信じるべきもの~

「おすすめ文学 ~本たちとの出会い~」

第65回目。ウクライナの作家エロシェンコの作品をご紹介します。未来には何の保証も約束もなく、心から信じていたものにさえ裏切られる――それでも生きていくことの意味を、あえて厳しい結末をつきつけることで読者に考えさせる、かなり強烈な「童話」です。

 


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#65 エロシェンコ 『魚の悲しみ』 ~信じるべきもの~

日本とも縁の深い「盲目の詩人」ヴァシーリー・エロシェンコVasilii Y. Eroshenko, 1890-1952)の著作より今回ご紹介する『魚の悲しみ』は、作者が日本に滞在している時期に日本語で口述筆記された作品の一つで、故に日本文学のカテゴリーに属すると言えます。エロシェンコについては、7月の記事で多少詳しく取り上げていますので、よろしければご覧ください(→記事はこちら)。

出典:ポプラ社 百年文庫62 『嘘』, 2011年第1刷より、エロシェンコ作/高杉一郎訳 『魚の悲しみ』

 

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池に住んでいる鮒(ふな)の子ども鮒太郎は、冬の冷たい水の中での生活に耐えられず、いつも泣いていました。彼の親や他の魚たちとてどうすることもできず、辛い日々を生き抜くための希望といえば、やがて訪れる暖かい春をじっと待つことのみ。

しかし聡明で理屈っぽいところのある鮒太郎は、春が本当に来るのか、信じることができません。春が来なければみんな凍え死ぬという現実を前に、いくら季節が巡るものだとしても、次の春もまちがいなく訪れる保証があるのか、疑問を抱きます。

自分たちは死ぬとどうなるのか、母親に尋ねたところ、「魂が遠い国へいって」「いつも春のように暖かい」ところで楽しく暮らす、とのこと(p,138)。なんだ、そんな良い国があるのならすぐにでも行きましょうと、鮒太郎は母親を急かします。

「ああ、困ったね。」お母さんはためいきをついて、「死ななければ、その国へいくことはできないと言ったじゃないか。」

「そんなら、はやく死にましょう。さあはやく、さあ。」

「そんなことを言うものじゃないよ。」

「言うものじゃないったって、死にましょうよ。さあ、私はこの池がいやなのですから。」

(p.139)

子どもゆえの素直で残酷な考えが、どれだけ母親の心を痛めたことでしょう。むしろ人生の苦しみを多く経験してきた大人であればこそ、鮒太郎の言うことに対して、そりゃあ、できることならわたしだって…と心密かに共感したとしても、決して責められるものではありません。

それでも自暴自棄になることを許さず、この世は生きるに値する、生きるべきだということを子どもたちに伝えなければいけない、そのとてつもない重責を大人は何をもって果たしてきたのかといえば、それは道徳であり、信仰です。

「坊っちゃん、魚は、この池にわがままをしにきたのではありません。だから私たちは、あの立派な国の神様のお言いつけどおり、生きていて泳がなければなりません。(・・・)また一生懸命に勉強して、立派な魚にならなければなりません。そうすると、あの国の神様が坊っちゃんを呼んで、その美しい大きな池のなかに住まわせてくださるでしょう。」

(p.140-141)

そう鯉のお爺さんに諭された鮒太郎は、どんなに辛くても前向きに生きるようになりました。すべては、「あの立派な国」に迎えられるため。人生そのものを忍苦の冬にたとえ、死後の世界を永遠の春と認識することで心の平穏を保つ。それは良くも悪くも、道徳や信仰の存在意義のゆるぎない側面です。

鮒太郎は誰よりもやさしく賢い魚の子に成長しました。そんな彼が模範とする生き物、「あの国」に一番近いとされている存在は、人間でした。人間が神を崇めるように鮒太郎は人間を敬い、いつか彼らに会ってみたいと願うようになりました。

しかしその人間に、鮒太郎たちはあっけなく裏切られてしまいます。鮒太郎の大切な仲間たちは次々と人間の坊っちゃんに連れ去られ、解剖の実験台にされてしまうのです。その子は、皮肉にも牧師の子どもでした。

「地上にいる人間の兄さんたちは、えらいにはえらいが、ときどきいろんなずるいことをするのだ。」

(p.149)

父親からそんなことを聞かされた鮒太郎は、それでも人間を憎むどころか、彼らがそんな罪を犯していたら「あの国」に行けなくなってしまう、そのことを心配します。自分たちを迫害する存在さえも、愛することをやめようとしないのです。

何とか人間と話し合いをするため、蝶の姉さんが生き物たちを代表して教会を訪ね、坊っちゃんの暴挙を止めてくれるよう交渉に向かいます。しかし帰ってきた蝶の姉さんは、絶望とともにこう言います。

「すべてのことはウソです。」

(・・・)

「私どもはただ人間をよろこばせるために、人間の食物になるためにつくられたものだそうです。」

(p.152-153)

人間たちの言うには、動物には魂というものがなく、したがって「あの国」に行くこともできない。かくして鮒太郎たちが信じていた存在、夢見ていた平和の世界は、無残にも打ち砕かれてしまうのです。すべてを奪われた鮒太郎には、もはや怒りと悲しみしか残されていません。彼は人間の坊っちゃんに向かって叫びます。

「さあ、私をつかまえてくれ! ほかの者をとらないうちに私をつかまえてくれ。ほかの者がとらえられて殺されるのを見るのは、私には自分が殺されるより苦しいのだ。」

(p.156)

何かを信じ、実践することで、いつかは報われる――そのような人生観は、生きることを少しでも楽に、また豊かにすることもある一方、度が過ぎてしまえば、まだ見ぬ未来にのみ希望を託し、今という時間をただひたすら耐え忍んで生きる、いわば現状に対する思考停止の状態にも陥ってしまいます。

誰かに提示された価値観や行動指針にすがるあまり、自身の知恵や力で自分らしく精一杯生きることから遠ざかってしまうのは危険なことです。我慢、思いやり、努力といった美徳は自分の中からこそ生まれるものであり、また未来ではなく今を生きるためにこそ必要なのだと、この物語を読んでいて思わされます。

未来に保証はない。善人も悪人も死ねば一緒。天国も地獄も、賞罰もない。仮にそうだとして、だから好き勝手にやりたい放題生きていいという理由にはならないと思います。互いに寄り添わなければ生きていけない弱い存在として、僕たちは他者を愛し思いやることから逃げることなどできません。

死後の世界で評価され報われるために、この世に踏ん張っていい子ぶっているわけじゃない。人にやさしくするのは、「今」その人が好きだから。人を憎むのは、「今」その人に自分のことを理解してほしいから。あの世ではなく、どれもこの世における需要と供給です。

鮒太郎が信じるべきだったものは、人間が勝手に創り出した「あの国」ではなく、彼の住む冷たい水の中で共に身を寄せ合って生きている家族や仲間たちの血の温もり――この瞬間を生きている、この世のたった一つの証ではないでしょうか。

エロシェンコ『魚の悲しみ』、よろしければ読んでみてください。

それでは。