#60 檀一雄 『火宅の人』 ~焼き尽くして生きる~

「おすすめ文学 ~本たちとの出会い~」

第60回目。大酒を食らう、色事に走る、湯水のように金を使う。時代が変わっても、こういう分かりやすい意味での豪快な生き方をする人間に、心の底で憧れを抱く人は多いと思います。けれども、憧れだけでは理解することができない葛藤が、彼らの内にあるとしたら――大胆で活力に満ちた波乱万丈の生き様の裏側に見えてくる弱さ、脆さ、心の叫びが、この作品には描かれています。

 


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#60 檀一雄 『火宅の人』 ~焼き尽くして生きる~

最後の無頼派作家と言われ、太宰治の親友でもあった檀一雄(1912-76)の代表作。好き勝手に生き、自身の流儀で人を愛し、傷つけ、ぼろぼろになりながらも己の信念を貫く男の半生を描いた物語ですが、単なる豪傑の武勇伝的な行動記録ではない、その心の裏側にひそむ苦悩や悲しみをも描破した、味わい深い長編です。

出典:檀一雄 『火宅の人(上・下)』 新潮文庫,昭和61年第16刷(上)・15刷(下)

 

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主人公の桂一雄には、死別した先妻との間に1人、今の妻との間に4人の子どもがいます。次男の次郎は日本脳炎の後遺症で寝たきり、下の3人もまだ小さく手がかかる中、家のことはすべて妻に丸投げ。売れっ子作家として経済的には家族を養えているけれど、自身はあちこち飲み歩き、ほとんど家にも姿を見せません。

まさか余生を子供らに頼むつもりは無いのだから、それぞれ、勝手放題に生きてくれれば父は至極満足だ。(・・・)父は自分の生き方だってお先まっ暗の思いである。とても子供らの半生の責任までは負いかねる。

(上巻 p.11-12)

先の見えない人生、一雄は家庭を顧みることなく、「いさぎよく亡びることを覚悟」の上で(上巻 p.34)、自分の人生を謳歌しようとします。彼はかねてから親交のあった20歳近く年下の新劇女優矢島恵子と一線を越えた関係になり、逃避旅行の延長のような長いホテル暮らしを経て、アパートで新婚夫婦同様の生活を始めます。

本宅の妻との関係は完全に冷え切る、長男はグレて非行に走る、次男は病の回復の兆しを一向に見せない……そんな家庭事情の一切から目を背けるように、一雄は恵子との奔放な生活に没頭します。長男の一郎が警察の厄介になった時も、彼が父親にかまってほしい一心で犯行に及んだことを知らされてなお、当の父親はこう弁明します。

かりに一郎が孤独であったにしても、それを誰に転嫁出来るというのだろう。なるほど、一郎を温和に包んでくれるような家というものはなかったかもわからない。しかし、私だってなかったのだ。

(上巻 p.228)

俺が知っている家庭とはそういうものなのだから、お前も同じようにそこで生きろ、ということなのでしょうが、負の連鎖を断ち切ることのできなかった親としての責任は重いと言わざるを得ません。温和な家庭など自分とは無縁の代物だと決めつけてしまう裏側に、実は人一倍それを求める本心と、それに対する悲痛なまでの諦めがあるのです。

そんな彼ですから、たとえ今の家庭を捨てたとしても、恵子と籍を入れることもしません。一人の女性として、本当は男にけじめをつけてほしい彼女の気持ちを知りながらも、多忙と享楽の日々によって彼女と、そして彼自身をも偽り、浴びるように酒を飲み、泣き、笑い、「我が身を早く焼き尽して」しまうべく(上巻 p.248)、向こう見ずな人生をひたすら駆け抜けるのです。

愛とは甚だ技巧的なものである。云いかえれば、生活の管理術のようなものだ。そうして、この管理の礼式だけが、男女の浮動しやすい肉体の愛を昇華させ、男女の生活としての愛情を維持させうる原動力になるだろう。

(下巻 p.43)

これはつまり、一雄の結婚観です。名言とも詭弁ともとれそうですが、真理をついていると思います。愛、ひいては人間関係全般に対して、彼は誰よりも誠実であろうとした。だからこそ、その在り方を、自然の成り行き(それが放埓な生き方だとしても)に反してまで意図的に「管理」することを嫌ったのかもしれません。

永遠などありはしない。自らをして「浪々破滅型」と言わしめるとしても(下巻 p.201)、それが一雄の、生きる上でのただ一つの拠所なのです。同時に、安定感に満ち満ちた家庭のぬくもりへの無意識の憧れが引き起こすのか、矛盾した言動も見られます。

たとえば、彼は料理が好きなのですが、一人なのに大家族に食わせるほど大量の食材を買い込んだり、大鍋で調理して食べきれずに腐らせてしまったりすることが度々あります。また、かつて恵子を囲っていたという男の噂を聞けば(自分は恵子以外の女性とも遊んでいるくせに)、恵子に対して、妻に貞節を求める夫のように激しく嫉妬するのです。

自分自身には無限の放埓を許し、相手には仮借のない純潔を強いる。

(下巻 p.85)

と、そこまで冷静に自己分析しているのに、そんな自分を抑えることができない。愛だの永遠だの信じないと言いながら、恋人の純潔、つまりは常しえの平和な家庭に象徴される良き妻としての存在を相手に切望する。

一方で、放埓の限りを尽くすことを信条とする上で家庭を求める本心を押し殺すこと自体が、心の赴くまま、自然のままに生きるという彼のポリシーに反している。すさまじい矛盾と葛藤のスパイラルです。

こういった感情のふり幅こそが、我が身を焼き尽くさんとするほどの豪放な生き方の原動力になっていると考えると、何となく納得できます。そもそもそんな生き方は、興味本位に参考にしてみようにも、とても実践できないことだとも思わされます。どうしてもその世界の住人になるというのであれば、もはやこの一言に尽きます。

早く喰われろ、人生という奴から……、その上での話だ

(上巻 p.38)

酒、金、色……得てして英雄視されがちな一雄の豪快奔放な生き様は、彼の赤裸々な心の叫びそのものに他ならないと、この物語を読んでいて思わされます。不幸か、絶望かというと、それもまた違う。己と向き合い、苦しみながらも必死で生きていることの尋常ならぬ純度の熱量が伝わってくる。そういう意味において、作者の分身であるこの主人公は、やはり魅力的なのです。

檀一雄『火宅の人』を、是非とも読んでみてください。

それでは。

 

 

#59 武者小路実篤 『お目出たき人』 ~道学者のヴァーチャル恋愛~

「おすすめ文学 ~本たちとの出会い~」

第59回目。コロナの影響も含め、他人との直接的な交流が減っている昨今、メールやSNSの文面などの限られた情報から、相手の状況や気持ちを汲み取ろうとするスタンスが役に立つ反面、もうウンザリだと思う自分もいます。こちらの想像が空回りしているだけで、実は相手に何にも伝わっていなかったと痛感することがあります。そんな時、この小説の主人公を思い出します。

 


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#59 武者小路実篤『お目出たき人』 ~道学者のヴァーチャル恋愛~

「片思い」をテーマに扱った小説は、古今東西、数え切れないほどあると思いますが、今回ご紹介する小説『お目出たき人』は、まあまあ突き抜けた部類に入るのではないでしょうか。片思いの相手と一度も話したことがないまま、現実の交流をことごとくすっとばして、ただただ恋慕の情だけを数年間にわたって募らせた青年の物語。相手の気持ちを直接確かめる機会をまったく持たず、想像力だけを徹底的にひとり歩きさせると、どうなるのか。当然の結果と思う一方で、思わず自身を見つめ直してしまう一冊です。

出典:武者小路実篤 『お目出たき人』 新潮文庫,令和2年第5刷

 

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主人公は、「女に餓えている」26歳の青年です。7年前にある女性に片思いをしていましたが、その女性が去った後、彼はずっと「若い美しい女と話した事すらない」まま、日々を悶々として過ごしていました(p.12)。

ここ数年間、彼の心の寂しさを埋めていたのは、以前近所に住んでいたという女学生でした。彼女が一里ほど離れたところに引っ越してからも、彼は鶴のことを一途に想い続け、彼女と結婚することを切に望んでいました。

そんな女性と、この数年間、どんなドラマが繰り広げられてきたのかと言えば、なんにもありません。そもそも前述の通り、彼は7年ほど、若い美しい(彼の恋愛対象となりうる)女性とは、会話をしたことがないのです。

鶴とは一度も話をしたこともなければ、ここ1年ほど、顔すら見ていません。つまり、少なくとも鶴からすれば、彼女と結婚したがっているこの男は、元近所の住人として顔くらいは何となく覚えているかもしれない程度の、ほぼ赤の他人なのです。にもかかわらず彼は、

鶴程自分の妻に向く人はないように思われて来た。(・・・)かくて自分の憧れている理想の妻として鶴は自分の目に映ずるようになった。女に餓えている自分はここに対象を得た、その後益々鶴を愛するようになり、恋するようになった。そうして自分の妻になることが鶴にとっても幸福のように思えて来た。

(p.13-14)

そう信じて疑いません。彼は自分の両親を説得し、鶴の家族との間に仲介役を立て彼女に求婚します。断られてしまった後も、彼は彼女の学校帰りを見計らって、時おり彼女の顔をこっそりと見に出かけたりしていました。

「女に餓えている」彼が、傷心を癒すためにとりあえず身近の鶴を選んだのであれば、要するに相手は誰でも良かったのだろう、と読んでいて思うのですが、彼の鶴への思いは、プラトニックであるが故に、妄想だけがどんどん膨らみ、先走り、空転し、けれどもその一途さだけは絶対的な真実となっていったのです。

一日として鶴のことを考えない日はなかった。自分には鶴と一緒になって始めて全人間たることが出来るように思えた。

(p.69)

上記の「全人間」に、「ホールのにんげん」と無理やりルビが振ってあるのが笑えるのですが、彼にとっては笑いごとではありません。妄想の中では、鶴はすでに彼の妻であることが運命づけられています。彼女と夫婦になることは「自然の命令」であり、「深い神秘な黙示がある」、そんな次元でどっぷり信じ込んでいるのです(p.84)。

まだ物語を読んでいない人からすれば、何だか危なっかしい作中人物にしか映らないと思うのですが、それでも、憎めない部分もあるのです。独りよがりである反面、自分の欲望だけを押し通して、それが叶わない時に逆上して相手を攻撃したりするような了見の狭い人間というわけでもないのです。

鶴を恋している人があるとする。(・・・)そうしてもし鶴がその人に心があって、そうして親の命令で自分の処へくるならば鶴にも気の毒である。(・・・)自分は自分の快楽の為に他人を不幸にしようとは思わない。自分の恋の為に他人の恋を犠牲にしたくはない。まして自分の恋している女の不幸を喜ばない。

(p.36)

臆病ではあるけれど、根はやさしいのでしょうね。直接的な行動に出られず、あれこれ妄想に始終してしまうのも、事を荒立てたくない、他人も自分も傷つけたくないという本心の裏返しだとすれば、この人物に親しみを抱くこともできそうです。これじゃあ一生カノジョできんぞ、と心配しつつ、その稀有なストイシズムが、彼の望み通りに誰をも傷つけることなく報われることを密かに願いたくもなります。

もちろん彼は恋愛下手ではあるでしょうが、ある種の哲学者(自称「道学者」)でもあります。自分の恋の行方がどうなるのか、最初から予期していながら、敢えて茨の道を選んだと言えなくもない節があります。

空想は現実によって破られるかも知れない。しかし新らしい空想はヒドラの足のように切られても切られても生ずるものだ。これがよく人間にとって唯一の隠遁場になる。

(p.67)

恋に恋するような片思いに身を置くことで、現実の恋愛の喜びや痛みからは逃げ続けることになるものの、空想によってのみ得られる救いも、確かにあるような気がします。そしてその空想力は、彼自身をなぐさめるという消極的な結果にとどまらず、いつか、彼以外の誰かに対する「やさしさ」や「共感力」としても発揮される日が来るのではないかとも思います。

けれども、何だかんだで、直接いくべき時はいかなければなりません。作中でも、彼に貴重なアドバイスをする友人がいます。自他ともに道楽者を認める彼の言うことには、

君が女に恋されようと思ったら、プラトニックな考をすてなければいけない。何んでも露骨にゆくに限る、そうして気に入るようなことをどんどん云えばいいのだ。

(p.51)

そうだよなあと思いつつ、どっちが正解ということもないのだと思います。空想力と、実際的な行動力、この二刀流で、愛する人に幸せになっていただくことが大切と心得ます。

妄想の世界に自己を貫き通した主人公の恋の行方がどうなるのか、彼の恋愛観に共感する人も、そうでない人も、ひとまず最後まで見届けてみてはいかがでしょうか。きっと、現代の恋愛や人間関係にも通じるものがあると思います。

武者小路実篤『お目出たき人』を、是非とも読んでみてください。

それでは。