問うに落ちず、語るに落ちる

ある人から、忌憚のない意見を聞かせてほしい、と言われ、その通りに誠心誠意、率直に意見を述べたところで、相手の機嫌を損ねることがほとんどです。

本当に、ほんとうに「忌憚のない」意見を、真正面からがっちり受け止めるだけの余裕のある人間など、現実にどれだけ存在するのでしょうか。

遠慮なく言えと言われても、やはり多くを言わないのが暗黙のマナーだとしたら、僕たちは気軽に自己開示をすればするほどに、どんどん孤独になる世界に生きていることになります。

どうしても他人や社会に認知してもらう必要性や意義があって何かを行っているのでない限り、それを逐一誰かに報告したり、フィードバックを受けたりするのは極力控えた方が、心はずっと穏やかでいられます。

「語るに落ちる」とか、「沈黙は金」とか、これはこれで真実のようです。小説を書くのだって、同じことなのですよね。時々、自分で自分が分からなくなります。

ちなみに僕は、好意的・否定的な内容にかかわらず、人様に、自分の作品に対する感想を積極的には求めません。褒められれば普通に恥ずかしいし、けなされれば普通に悲しいので、いずれにしても刺激が強すぎて、耐えられんのです。

誰にも知られずひっそりと活動するのが性分に合っているようで、今の状態が、本当に幸せなのだと存じます。

お前は人間が嫌いなのか、と思われるかもしれませんが、まあ、それはそうと、ちょうどモリエール『人間ぎらい』という古典戯曲に、下記のような警句めいた文章があります。

 


(↑画像からAmazonの商品ページに移動します)

 

真に教養ある人は、筆を執りたくてならなくなるところを、つねに抑えてかかるものである。かかる遊戯で名を成そうというような大それた心は制御すべきである、自分の作物を他人に見せようとあせれば、みすみすとんだ馬鹿を見るものだ、(・・・)。

(平成14年78刷、p.25)

なるほど、真の教養人を目指すためにも、僕は自分の書いたものを発表するのを止したほうがよいのでしょうか、アルセストさん(上記台詞の主)? 忌憚のないご意見をお聞かせください(笑)。

しかし、主張しないことの美学、というやつでしょうか。今の時代はもちろん、どの時代からもはみ出してしまうような孤高のスタンスは、確かに目指すべきところではあるような気がします。

本当に大切なものは、誰にも知られたくないし、教えたくもない。

自分の本心に従うと、もうこのブログでさえ、何を書いていいやら途方に暮れてしまうのですが、そんな時、不思議と心は穏やかになります。それが良いのか悪いのかは、やはり分からんです。申し訳ございません。

それでは、本日はこれで失礼いたします。

 

 

ロバのいるお宿

前回のおすすめ文学#64でご紹介した「メゾンテリエ」の余談です。※宿泊施設のご紹介記事ではありません。

さて、カフェーにしろ酒場にしろ、お店が繁盛する秘訣として、やはり店主の人柄や魅力によるところが大きいという、そんな話のついでに――中国の昔話で、ちょっと怖い話を一つ。

唐の時代の河南省に、板橋店という宿屋がありました。宿の主人は三娘子(さんにゃんつう)という名の、三十歳くらいの謎多き女性。お金持ちで、ロバをたくさん飼っていて、店の評判も上々でした。

彼女は客をもてなすのが得意で、皆にお酒をすすめながら自分も一緒になって宴に興じたり、時にはお金のない旅人をただで泊めてあげたりすることもある、とても魅力的で面倒見のよい女性でした。

と、ここまでは「メゾンテリエ」のマダムを思わせるような、やり手の経営者かつ人格者といった感じなのですが…

実はこの三娘子という女主人、妖術をつかって宿泊客を次々とロバに変え、彼らの財布や荷物を奪い取っては私腹を肥やす、とんでもない悪女だったのです(;゚Д゚)

ある日、女主人の隣室に泊まった客が、眠れぬ夜に奇妙な物音を聞きつけ、壁の隙間からこっそり覗くと……

深夜の謎めいた儀式!

行方不明の宿泊客たちはいずこへ?

魔性の秘密に勇猛果敢に立ち向かう一人の男!

 

とまあ、こんなに仰々しいトーンの話ではないのですが、ご興味のある方は是非とも続きを読んでみてください。

なお、僕が参照した本は、『新編世界むかし話集8 ~中国・東アジア編~』(山室静 編著/社会思想社)です。子どもから大人まで読める昔話集ですが、おそらく絶版だと思います。お近くの古本屋さんや図書館などで見つかると良いですね。

しかしこの女主人、片っ端から客をロバに変えていたのでは、リピーターが発生せずクチコミも広まらないと思うのですが、そこはやり手ですから、上手いこと微調整でも根回しでも何でもしていたのでしょうね。

この宿屋が娼家を兼ねていたかどうかまでは想像の域を出ませんが、あやしい美貌を武器に煩悩を刺激する(≒人間を動物の姿に変えてしまう)という設定は、泉鏡花『高野聖』に通ずるものがあります。

…と思って調べたところ、やはり鏡花はこの三娘子の物語から着想を得たのだそうです。

高野聖は学生時代に読んだきり、蔵書の文庫本も手放してしまいました。文章が難しかった記憶があるのですが、今度図書館で借りてじっくり読んでみることにします。

それでは皆さま、よいお盆休みをお過ごしください。