#70 永井龍男 『青梅雨』 ~涙雨の向こう~

「おすすめ文学 ~本たちとの出会い~」

第70回目。本格的な梅雨の時期になりました。じめつく日々は、気分だけでもさわやかに晴れるお話を読みたいと思う方も多いはず――存じております。それでも敢えて、こういう物語も読んでみてほしいと言う僕のわがままに、どうかお付き合いください。

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#70 永井龍男『青梅雨』 ~涙雨の向こう~

短編小説の鬼才、永井龍男(1904-90)の「青梅雨(あおつゆ)は、一家心中を遂げた家族の生前最後の夜を描いた作品です。読んでいて心を痛めてしまう方もいらっしゃるかもしれませんが、絶望の淵にさえ繰り広げられる団らんの描写は、人生の侘しさだけでなく、その隣り合わせの愛おしさをもしみじみと感じさせてくれるはずです。

出典:永井龍男 『青梅雨』 新潮文庫,平成15年第22刷

 

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老年夫婦、その養女、妻の実姉の4人が、自宅の六畳間で亡くなっていた――物語の冒頭で、一家の服毒心中が新聞記事の形式で端的に伝えられます。七十七歳の夫・太田千三の事業失敗と借金苦によるもので、自分たちの葬式料や後始末の依頼書などが、枕元に整然と置かれていたという。

無味乾燥なメディアの視点による序章から一変、本編では、時を自殺決行の数時間前の夜にさかのぼり、一家の人たちの最後のひとときがつぶさに描かれます。世間の目の決して届くことのない、死を目前に控えた彼らの束の間の穏やかな生活を、僕たち読者は息をひそめて見届けることになるのです。

青葉若葉の茂みに、処々外燈が点っている。そういう細い道を幾曲がりかして、千三は一番奥の家へ戻った。
闇と雨気を存分に吸い込んだ植込みの重さで、門の脇のくぐり戸まできしんでいるような住居だった。それに、もうずいぶん長く、植木屋も入っていない。

(p.243)

ぬか雨の降る夜、外出から戻った千三が濡れながら自分の家を見ているシーンです。家族のなけなしの装飾品などを売り払い、どうにか一家の葬式代をかき集めて帰ってきた彼は、人生最後のひと仕事を終え、落ちぶれた我が家の外観をこの世の見納めと眺めていたのでしょう。

帰宅した千三を迎えた家族は、つとめて明るく振る舞います。病床の妻ひで(六十代)、心臓が悪く脚が不自由な養女春枝(五十代)、丈夫なのは七十二歳の義姉ゆきだけですが、この三人の女性が、お互いをいたわりながら会話に花を咲かせる様子は、何気ない日常の平穏そのものです。

春枝は元看護師で、入院していたひでの世話をした縁で千三の養女に迎えられました。この関係には、つまらぬ噂も立ったことでしょう。義姉のゆきもどういう経緯で千三一家と同居しているのか、一切語られません。他者への無責任な見解がはびこる俗世間と決別する4人に対し、読者の目線としても、やはり様々な憶測を抱いてしまうのです。

「なにもかも、みんなすんだ」
二人きりになると、千三はひでの床の脇にあぐらをかいた。
「なにか、仕忘れていることはないかと、明るいうちは、一日中そわそわした気分だったが、帰りの電車に乗ると、すっかり落着いてね。(・・・)」

(p.253)

できる限りの手はずを整え、なるべく他人に迷惑をかけまいとする千三ですが、この律儀で善良な一家には、本当にこうするしか道が残されていなかったのか――詳しい背景が分からないだけに、その思いは拭いきれません。夫婦がしみじみと語り合っている時も、

風呂場の方で、春枝の声にまじって、ゆきの若い笑い声が起こった。
「大おばあちゃん、こっちだって云うのに」
「お前さんはそこで、そんなことを云うけどね」
そんなやりとりとともに、ゆきの笑い声は、妙に若々しく深夜の家ぬちに続いた。

(p.255)

こんなふうに、死出の旅路に際しているとはとても思えない、なごやかな光景が繰り広げられているのです。

外は暗く、雨が降り続いている。世界の闇が深まるほどに、このちっぽけな家庭の内部だけが、誰にも侵すことのできない幸福に包まれていくかのよう――その寸刻の安寧が死を前提とすることでしか得られないものだとすれば、とても寂しいです。

そういう意味でも、やはり自死を肯定することはできません。しかし一方で、外部とのしがらみを断ち、身近な人間への愛着を今一度確かめ合うことの大切さを、この物語は教えてくれているようにも感じます(作者の意図と違うかもしれないとは思いつつ)。

己の世間的な立ち位置など気にせず、身近な人たちと過ごす時間を何よりも大事にできたなら。人生において、赤の他人の目が残酷に荒んでいけばいくほどに、人知れず輝きを増すものだってあるはず。この作品はむしろ、外的な苦しみや理不尽のさなかで内に閉じ籠って生き抜くことの尊さを逆説的に強調しているのかもしれない。

そう解釈するのは、我ながら感傷的に過ぎるとは思います。しかし、パンドラの箱に残されていた希望のように、絶望の中から掬い取った幸せのかけらを、この一家が命がけで僕たちに垣間見せてくれていたのだとしたら。……

そう考えると、この作品に満ちた深い悲しみの奥底にある、生きることのほのかなあたたかみに触れたような気さえするのでした。

今回はここまでにします。重い話にお付き合いただきましたが、最後に余談をひとつ。

今回ご紹介した永井龍男ですが、その名の通り、辰年生まれです。芥川龍之介や堀辰雄など、辰年にちなんだ名を持つ作家は他にもいますが、永井の生まれた1904年、そして本年(2024年)は、いずれも「甲辰(きのえたつ)」という、60年に1度巡ってくる干支の組み合わせの辰年で一致しているのです。

今年もすでに半分が過ぎてしまいましたが、甲辰である2024年は、永井作品を読むには縁深い年かもしれませんね。改めて、「青梅雨」を、よろしけば読んでみてください。

それでは。

 


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#69 遠藤周作 『沈黙』 ~静寂の慈悲~

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第69回目。困難に満ちた世界を生きるために、どんな救いやなぐさめが必要とされるのか。少々重いテーマですが、その問いに対する一つの答えを、この作品の中に見つけることができるかもしれません。

沈黙 (新潮文庫)
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#69 遠藤周作 『沈黙』 ~静寂の慈悲~

キリスト教文学の名手、遠藤周作(1923-96)の代表的長編である『沈黙』をご紹介します。人は神に何を求めるのか、そして神とは、人間に対しどのようにはたらきかけてくる存在なのか。キリスト教という枠に収まらない、宗教というものへの考え方を深める手掛かりにもなる作品だと思います。

出典:遠藤周作 『沈黙』 新潮文庫, 平成3年第17刷

 

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江戸時代のはじめ、島原・天草の乱が収束して間もない頃。幕府によるキリスト教の取り締まりがいっそう厳しさを増す中、ポルトガルのイエズス会より、若き宣教師セバスチァン・ロドリゴフランシス・ガルぺが長崎への密航を決行しました。

彼らの敬愛する師クリストヴァン・フェレイラ神父が、迫害下の日本に20年以上滞在し布教を続けた後、ついに幕府の弾圧に屈服し、棄教した――にわかには信じがたい報告を受けた彼らは、その真偽を確かめるためにも、意を決して日本に向かったのです。

澳門(マカオ)から日本に渡る際、ロドリゴたちは密入国の案内役として日本人のキチジローという男と知り合い、一緒に船に乗ります。彼はキリシタンだったのですが、卑屈で小狡そうな風貌の、酒好きの怠け者――勤勉実直でがまん強い日本人のイメージとはかけ離れた人間でした。

その態度は基督教的な忍耐の徳などとは程遠い、あの弱虫の卑怯さというやつでした。

(p.24-5)

そう彼を軽蔑するロドリゴですが、実際キチジローは、かつて故郷で役人から隠れキリシタンの取り調べを受けた際、絵踏みを拒絶した兄や妹をよそに自身はあっさり棄教し、火刑に処された肉親を見捨てて逃げ出すという暗い過去を持っていました。

そんなキチジローの危なっかしい手引きを受け、身を隠しながら長崎の村落の隠れキリシタンたちとの交流を続けたロドリゴとガルぺ。しかし長崎奉行の弾圧の手は徐々に迫り、ロドリゴたちをパードレ(司祭さま)と呼び慕っていた村人たちの何人かも捕えられ、処刑されてしまいます。

主はなんのために、これらみじめな百姓たちに、この日本人たちに迫害や拷問という試煉をお与えになるのか。(・・・)神は自分にささげられた余りにもむごい犠牲を前にして、なお黙っていられる。

(p.68-9)

ひたむきに「デウスさま」と「パライソ(天国)」を信じ、迫害にも屈せず貧しさに耐えながら生きてきた善良な人々が、あっけなく殺されていく。これほど理不尽なことが、なぜ起こるのか。宣教師としての己の無力感とともに、神の御業に対する一抹の疑念がロドリゴの胸の内をよぎります。

そんな中、キチジローは心の弱さから再びキリシタンとしての自分を裏切り、長崎奉行に通じてロドリゴを売り渡します。その後、ロドリゴは役人に引き合わされてフェレイラ神父と再会するも、かつての師はいまや幕府の命に従わされ、自らキリスト教の誤りと不正を書物にしたためている有様でした。

悲劇はなおも続きます。ロドリゴと一緒に囚われていた信徒たちは次々と殺され、相棒のガルぺも、なす術もなくただ死にゆく彼らに追いすがるようにして、彼らと共に殉教するのです。

いかなる苦難にも耐え、信仰を持ち続けた「強い」者たちばかりが残酷な最期を迎え、フェレイラやキチジローのような「弱い」「裏切り者」だけがのうのうと生きながらえる現実――そのような理不尽に対する神の沈黙に、ロドリゴは悲痛な嘆きを吐露します。

一人の人間が死んだというのに、外界はまるでそんなことがなかったように、先程と同じ営みを続けている。こんな馬鹿なことはない。これが殉教というのか。なぜ、あなたは黙っている。(・・・)何故、こんな静かさを続ける。(・・・)愚劣でむごたらしいこととまるで無関係のように、あなたはそっぽを向く。それが……耐えられない。

(p.153)

ロドリゴは徐々に自責の念を募らせていきます。宣教師の自分が棄教しないせいで、見せしめのために罪もない信徒たちや仲間が犠牲になっていく。その状況を彼自身はもちろん、神でさえも黙して止めることができないのに、それでも己の信ずる道を固持することが、本当に正しいことなのか。

彼のこのような迷いは、まさに長崎奉行の思惑通りでした。ある晩、いよいよロドリゴは、自分の代わりに拷問を受けている百姓の呻き声を間近で聞かされ、その憐れな信徒を苦痛から解放することと引き換えに、自身の棄教を迫られます。

大義のため強くあることで、他人を苦しめ続けていいのか。フェレイラやキチジローのように、信じていた道を棄ててしまう、その行為そのものが絶対的な弱さや悪なのではない。己の強さと正義の保全のためだけに周囲を犠牲にする、そんな自分自身から目を逸らし続けることもまた、同様に人の弱さなのではないか。

「基督は、人々のために、たしかに転んだ(=棄教した)だろう」
「そんなことはない」 司祭は手で顔を覆って指の間からひきしぼるような声を出した。「そんなことはない」
「基督は転んだだろう。愛のために。自分のすべてを犠牲にしても」
「これ以上、わたしを苦しめないでくれ。去ってくれ。遠くに行ってくれ」

(p.216-7)

究極の選択を前に、ロドリゴは身を切られるような葛藤に苛まれます。そして物語のクライマックス、彼は足もとに差し出された踏絵のキリスト像と、静かに向き合います。

しかし、絵の中のキリストが保ち続ける「沈黙」にロドリゴが見出していたのは、もはや神の無慈悲や無関心ではなかったのです。

物語の最後、「あの人は沈黙していたのではなかった」(p.241)という答えを見出した宣教師の辿った結末を、皆さん是非とも作品を読んで確かめてください。

「自分だけの強さを棄てて、はじめて誰かの弱さに向き合うことができた」 そう言ったきり、あとは無言で寄り添ってくれた、その人――今はもう、自分と同じくらい惨めで、頼りなくて、救いようのないほど、弱い。

その人は、いるのかいないのか、分からないことがほとんどだ。時には大きな悲しみや苦しみを前に、気が付けばいつもそばにいて、何も言わず、一緒に泣いてくれていた。

即物的な解決や救済とはちがう次元において、どこまでも深い静寂(しじま)に寄り添われていることに、思いを馳せてみる。

信仰を持たない僕がこんなことを言っても、説得力はないでしょう。そうであれば尚のこと、遠藤周作『沈黙』を、是非とも読んでみください。

それでは。

 


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