#61 ホーソーン 『緋文字』 ~偽りと罪の連鎖~

「おすすめ文学 ~本たちとの出会い~」

第61回目。自分に嘘をつくことと他人に嘘をつくことは、本質的には同じ――どちらかが発端になり、どちらかがその結果として帰着する。表向きの嘘や偽りによって自分を守ったり、他人を喜ばせたりすることもできるけれど、嘘によっては、ついている本人の内側を密かに蝕んでゆくこともある。今回ご紹介する作品のテーマの一つだと思います。

 


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#61 ホーソーン 『緋文字』 ~偽りと罪の連鎖~

アメリカ古典文学を代表する作家の一人、ナサニエル・ホーソーンNathaniel Hawthorne, 1804-64)の長編小説『緋文字The Scarlet Letter)』をご紹介します。17世紀植民地時代のアメリカ、厳格な清教徒主義のもとにあったニュー・イングランド(マサチューセッツ州ボストン)が舞台ですが、当時の人々が罪を犯した者を仮借なく責め立てるその態度は、今も変わることのない、時代や宗教観といったものを越えた普遍性を感じさせます。

出典:ホーソーン作/鈴木重吉訳 『緋文字』 新潮文庫,平成5年第61刷

 

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主人公はニュー・イングランドのとある町に暮らす若い女性へスタ・プリン。彼女の衣服には、姦通(Adultery)の罪人であることを示す緋色の頭文字「A」が金糸の刺繡で飾られていて、彼女はそれをいつも身に着けていなくてはなりませんでした。

イギリス生まれのへスタは、もともとはアムステルダムに年の離れた夫と家庭を持っていましたが、夫の意向で新大陸への移住を決意、ひとまずへスタのみ単身ボストンに到着し、それから2年が経過し夫からは何の音沙汰もない中、彼女はある男と不義をはたらいてしまうのです。

へスタは町の広場に立たされ、姦通の相手との間に生まれた幼い娘パールを抱いたまま群衆の視線に晒され、皆から侮蔑と嘲笑を受けます。人々は罪を犯した相手の男の名を明かすようへスタに勧告するのですが、彼女は頑なに拒みます。

「これ女、神のお情の限度を越えてはいけない!(・・・)名を言ってしまえ! そうして、悔い改めれば、緋の文字はお前の胸から取れるのだぞ。」 (・・・)

「申しません!」 へスタは死人のように蒼ざめながら、(・・・)その声に答えた。「そして私の子供は天の父を探すのです。この世の父親は知らせません。」

(p.30)

へスタは一人で罪を背負いました。誰の助けも借りずに針仕事で生計を立て、少しでもお金が余れば貧しい者に施しをし、隣人を助け、その見返りとして罪の女と罵られる……それでも文句ひとつ言わず、娘パールを守りながら孤独な生活を続ける彼女のひたむきな姿に、長い年月を経て、人々も態度を改めていきます。彼らは、

緋文字を彼女が長い間やるせない懺悔として担ってきたあの罪の印しではなく、その後の数多い善行のしるしと見なしだしていた。(・・・)この人たちはよそから来た人々に言うのだった、「あれは私たちのへスタさんですよ――この町のへスタさんで、貧しい人には親切で、病人には頼みになり、悩んでいる人には慰めとなってくれる人なんです!」

(p.140)

特別扱いという意味では変わらないけれど、へスタは町の人々から認められ、彼女のかつての罪も部分的には許容されるに至ったのです。

一方、彼女の不義の共犯者である男はどうでしょう。その男(読むとすぐに分かってしまうのですが、ここでは詳細は伏せます)は、町では誰からも尊敬される職業に就いていました。それだけに世間の目を恐れ、自身の立場を危ぶみ、へスタが一人で罪を背負うのを黙認してきたのです。しかし、罪を逃れてのうのうと生きるには、彼はあまりにも繊細で正直な若者でした。

不幸な虚偽の生活が我々の周囲にあって天が精神の喜びや栄養分としているすべての現実から本質と核心を盗みだすのは、彼の生活ほど偽りの多い生活のもつ口には言えぬ苦悩であった。不実な人間には、この世はすべて偽りであって(・・・)そして自分も偽りの光に身をさらしている限りは影となり、ほんとうに消えてしまう。

(p.120)

「偽りの光」とあるように、彼は社会的には成功者でした。しかし、表向きの人生がひかり輝けば輝くほど、心の内はどんどん濃い影を帯びてゆく。本当の自分を誰にも打ち明けることができない苦しみと孤独は、公に罪を背負うへスタのそれよりも深く、絶望的に描かれています。

そんな彼の弱みに付け入ったのが、ロゥジャ・チリングワス――へスタの夫で、彼女以外の人間には正体を隠して町に潜入していたのです。チリングワスは妻の不義の相手をいち早く見破ると、敵であるその人物に友情を装って近づき、そうして彼の罪を告発するわけでもなく、その内側の罪の意識と苦悩をあぶり出して一人楽しむかのような陰湿な復讐を行うのです。そんな夫に、へスタは懇願します。

これ以上の罪の報いはその権利を要求しておられる神の力にまかせて、赦して下さい! 只今申しましたが、あの人にも、あなたにも、私にも、よいことはあるはずがないと。私たちは今この暗い邪悪な迷路をいっしょにさ迷い、一歩毎に自分たちの道にまいた罪に躓いています、と。

(p.153)

罪の裁きを法律(当時なら宗教)といった社会の受け皿にゆだねず、個人の意思のみで報復することの罪悪をへスタは説きますが、夫は聞く耳を持ちません。へスタの不義の相手が己の罪を隠し続ける限りは、チリングワスの個人的な復讐も終わらない。己を偽ることが新たな罪を生み出してしまうという負の連鎖が描かれています。

他人の過ちを餌にして自らの心の醜さを肥大させるチリングワスは、読者の大半から嫌われるであろう、ある意味では物語唯一の悪人と言ってもいいくらいです。けれどもそんな彼を見る時、個人(しかも匿名)で個人を糾弾するということがSNSなどで簡単にできてしまう今の時代、僕たち誰もがチリングワスになってしまう可能性を持っていることにも思いを馳せるべきではないかと思わされます。

寄って集って責め立てる、そんな社会だから、いざ自分が責めを負うべき立場になると、今度はそれをひた隠しに隠したくもなる。そうやって隠されたものは、実体以上の陰を帯び、人はまたそれを必要以上の明るみに晒そうとする……

このような負の連鎖を断ち切ることこそが、へスタのように皆から執拗に後ろ指をさされて生きる人間、不義の相手の男のように己を偽り人知れず苦悩し続ける人間、そしてロゥジャ・チリングワスのように歪んだ憎しみに身をやつす人間を生み出さないことに繋がるとも思わされます。

物語の語り手は、こう締めくくります。

(・・・)これらの影のような人たちに対しては――ロゥジャ・チリングワスにもその仲間にも――我々は慈悲深い態度をとりたいものである。憎しみと愛とは本当は同じものであるかないか、興味深く観察し研究すべき問題である。どちらも、極度に発展すれば、高度に親しく心のふれあいを必要とするもので、どちらも人に愛情と精神生活の糧を与えあうようにさせるものである。

(p.257-8)

どんな人間も罪というものの犠牲者であるならば、罪を憎んで人を愛すという至難の業を、あるいは実現できるのかもしれません。いささか潔癖の過ぎるこの人間世界、自らを偽らずに他人をいたわって生きて行けたなら、そう思います。

ナサニエル・ホーソーン『緋文字』を、ぜひとも読んでみてください。

それでは。

 

 

#60 檀一雄 『火宅の人』 ~焼き尽くして生きる~

「おすすめ文学 ~本たちとの出会い~」

第60回目。大酒を食らう、色事に走る、湯水のように金を使う。時代が変わっても、こういう分かりやすい意味での豪快な生き方をする人間に、心の底で憧れを抱く人は多いと思います。けれども、憧れだけでは理解することができない葛藤が、彼らの内にあるとしたら――大胆で活力に満ちた波乱万丈の生き様の裏側に見えてくる弱さ、脆さ、心の叫びが、この作品には描かれています。

 


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#60 檀一雄 『火宅の人』 ~焼き尽くして生きる~

最後の無頼派作家と言われ、太宰治の親友でもあった檀一雄(1912-76)の代表作。好き勝手に生き、自身の流儀で人を愛し、傷つけ、ぼろぼろになりながらも己の信念を貫く男の半生を描いた物語ですが、単なる豪傑の武勇伝的な行動記録ではない、その心の裏側にひそむ苦悩や悲しみをも描破した、味わい深い長編です。

出典:檀一雄 『火宅の人(上・下)』 新潮文庫,昭和61年第16刷(上)・15刷(下)

 

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主人公の桂一雄には、死別した先妻との間に1人、今の妻との間に4人の子どもがいます。次男の次郎は日本脳炎の後遺症で寝たきり、下の3人もまだ小さく手がかかる中、家のことはすべて妻に丸投げ。売れっ子作家として経済的には家族を養えているけれど、自身はあちこち飲み歩き、ほとんど家にも姿を見せません。

まさか余生を子供らに頼むつもりは無いのだから、それぞれ、勝手放題に生きてくれれば父は至極満足だ。(・・・)父は自分の生き方だってお先まっ暗の思いである。とても子供らの半生の責任までは負いかねる。

(上巻 p.11-12)

先の見えない人生、一雄は家庭を顧みることなく、「いさぎよく亡びることを覚悟」の上で(上巻 p.34)、自分の人生を謳歌しようとします。彼はかねてから親交のあった20歳近く年下の新劇女優矢島恵子と一線を越えた関係になり、逃避旅行の延長のような長いホテル暮らしを経て、アパートで新婚夫婦同様の生活を始めます。

本宅の妻との関係は完全に冷え切る、長男はグレて非行に走る、次男は病の回復の兆しを一向に見せない……そんな家庭事情の一切から目を背けるように、一雄は恵子との奔放な生活に没頭します。長男の一郎が警察の厄介になった時も、彼が父親にかまってほしい一心で犯行に及んだことを知らされてなお、当の父親はこう弁明します。

かりに一郎が孤独であったにしても、それを誰に転嫁出来るというのだろう。なるほど、一郎を温和に包んでくれるような家というものはなかったかもわからない。しかし、私だってなかったのだ。

(上巻 p.228)

俺が知っている家庭とはそういうものなのだから、お前も同じようにそこで生きろ、ということなのでしょうが、負の連鎖を断ち切ることのできなかった親としての責任は重いと言わざるを得ません。温和な家庭など自分とは無縁の代物だと決めつけてしまう裏側に、実は人一倍それを求める本心と、それに対する悲痛なまでの諦めがあるのです。

そんな彼ですから、たとえ今の家庭を捨てたとしても、恵子と籍を入れることもしません。一人の女性として、本当は男にけじめをつけてほしい彼女の気持ちを知りながらも、多忙と享楽の日々によって彼女と、そして彼自身をも偽り、浴びるように酒を飲み、泣き、笑い、「我が身を早く焼き尽して」しまうべく(上巻 p.248)、向こう見ずな人生をひたすら駆け抜けるのです。

愛とは甚だ技巧的なものである。云いかえれば、生活の管理術のようなものだ。そうして、この管理の礼式だけが、男女の浮動しやすい肉体の愛を昇華させ、男女の生活としての愛情を維持させうる原動力になるだろう。

(下巻 p.43)

これはつまり、一雄の結婚観です。名言とも詭弁ともとれそうですが、真理をついていると思います。愛、ひいては人間関係全般に対して、彼は誰よりも誠実であろうとした。だからこそ、その在り方を、自然の成り行き(それが放埓な生き方だとしても)に反してまで意図的に「管理」することを嫌ったのかもしれません。

永遠などありはしない。自らをして「浪々破滅型」と言わしめるとしても(下巻 p.201)、それが一雄の、生きる上でのただ一つの拠所なのです。同時に、安定感に満ち満ちた家庭のぬくもりへの無意識の憧れが引き起こすのか、矛盾した言動も見られます。

たとえば、彼は料理が好きなのですが、一人なのに大家族に食わせるほど大量の食材を買い込んだり、大鍋で調理して食べきれずに腐らせてしまったりすることが度々あります。また、かつて恵子を囲っていたという男の噂を聞けば(自分は恵子以外の女性とも遊んでいるくせに)、恵子に対して、妻に貞節を求める夫のように激しく嫉妬するのです。

自分自身には無限の放埓を許し、相手には仮借のない純潔を強いる。

(下巻 p.85)

と、そこまで冷静に自己分析しているのに、そんな自分を抑えることができない。愛だの永遠だの信じないと言いながら、恋人の純潔、つまりは常しえの平和な家庭に象徴される良き妻としての存在を相手に切望する。

一方で、放埓の限りを尽くすことを信条とする上で家庭を求める本心を押し殺すこと自体が、心の赴くまま、自然のままに生きるという彼のポリシーに反している。すさまじい矛盾と葛藤のスパイラルです。

こういった感情のふり幅こそが、我が身を焼き尽くさんとするほどの豪放な生き方の原動力になっていると考えると、何となく納得できます。そもそもそんな生き方は、興味本位に参考にしてみようにも、とても実践できないことだとも思わされます。どうしてもその世界の住人になるというのであれば、もはやこの一言に尽きます。

早く喰われろ、人生という奴から……、その上での話だ

(上巻 p.38)

酒、金、色……得てして英雄視されがちな一雄の豪快奔放な生き様は、彼の赤裸々な心の叫びそのものに他ならないと、この物語を読んでいて思わされます。不幸か、絶望かというと、それもまた違う。己と向き合い、苦しみながらも必死で生きていることの尋常ならぬ純度の熱量が伝わってくる。そういう意味において、作者の分身であるこの主人公は、やはり魅力的なのです。

檀一雄『火宅の人』を、是非とも読んでみてください。

それでは。