そろそろ、あっさり「塩」味で。

少し涼しくなってきましたね。

今年の夏はたくさん汗をかいたので、最近までは、日々の食事も塩分を少し多めに摂っていました。

料理は、昔はトマト系のパスタをよく作っていたのですが、最近はペペロンチーノを研究(笑)しています。

シンプルでごまかしがきかないレシピは難しいですね。わずかに手もとが狂うだけで、出来上がりに大きく影響します。

にんにくと鷹の爪とオリーブオイル。たったこれだけの素材で、奥深い世界を垣間見せてくれるペペロンチーノ。

素朴さと繊細さの極致、好きな作家にたとえるなら、『銀の匙』の中勘助(→おすすめ文学#17)です。

先月、「塩」の旧字体である「鹽」について書きました。

汗を大量にかく時期は、パスタのゆで汁にも塩を多めに投入します。もはや「塩」ではなく「鹽」レベルの、いささか攻撃的なくらいの匙加減です。

涼しくなってくると、汗もかかなくなります。その分、お料理の塩加減を元に戻していく必要があります。

夏のしょっぱさに慣れた味覚は、秋口の頃、物足りなさを感じています。

『徒然草』にも、塩にまつわる話があります。

とある博学の医者が、「しお」という漢字は何偏かと尋ねられ、略字の「土偏(塩)」と答えたため、皆に浅学だと笑われてしまった、という話。

別に、「鹽」でなくてもいいじゃない。

どだいこの漢字は複雑すぎて、見ているだけで暑苦しい。もっと実用的に、あっさりと「塩」でいこうじゃないかと、僕はそう申し上げたい(笑)。

古典だって、なんでもかんでもオリジナルで読むのはキツイもの。

いくら年代物のウイスキーでも、チェイサー無しのストレートで飲み続ければ、喉や胃を痛めるのと同じです。

現代語訳やアレンジを次々と重ねて、その時代を生きる人たちのテイスト――それぞれの心の渇きに、その都度寄り添っているからこそ、古い物語は永く語り継がれてゆくのだと思います。

季節は少しずつ、秋に向かっています。

そろそろ塩分過多などにも気をつけて、残暑を乗り切ってください。

それでは。

 

#46 夏目漱石 『文鳥』 ~季節ハズレノ雪~

「おすすめ文学 ~本たちとの出会い~」

46回目。暑中お見舞い申し上げます。むかし猫を飼っていたのですが、エアコンが嫌いな子で、夏はたいてい玄関のコンクリートのたたきにべたっと腹這いになっていました。ひんやりして気持ちいいみたいです。僕は真似しませんでしたが(笑)、でも一度くらい、あいつがまだ生きていた時に、一緒になって寝転んでみてもよかったな――なんて思いながら、ふと本棚から引っぱり出した作品です。

 


文鳥・夢十夜 (新潮文庫)

 

★     ★     ★

#46 夏目漱石 『文鳥』 ~季節ハズレノ雪~

漱石の名短編の一つ。知り合いから勧められるままに文鳥を飼うものの、世話が行き届かず死なせてしまうという、何だか元も子もない話。保護責任の問題などの観点からすると、いささか後味が悪いかもしれません。それでも、美しく小さな命が浮世にもたらしてくれた一夜の夢のような慰めを、僕たちはこの作品を通じていつでも思い起こすことができる、そんな気がします。

出典:夏目漱石 『文鳥・夢十夜』 新潮文庫, 平成22年第77刷

 

★     ★     ★

語り手で作家の「自分」は、弟子の三重吉から文鳥を飼うことを勧められます。「自分」はさほど乗り気ではなかったのですが、勧められるがままに適当に返事をしてお金を渡すと、三重吉は本当に文鳥と籠を携えて来たのです。

餌のやり方、水の替え方、籠の掃除のしかたなど、三重吉は熱心に、事細かに指示をしていきました。無気力でどことなくほっとけない師匠が、きちんと面倒を見てくれるか心配だったのかもしれません。その師匠は、はじめて文鳥を見るなり、

成程奇麗だ。(・・・)薄暗い中に真白に見える。籠の中にうずくまっていなければ鳥とは思えない程白い。何だか寒そうだ。

(p.11)

そんなことを思うのです。悪くないね、とか、ご苦労だったね三重吉、とか社交辞令を示すわけでなし、「何だか寒そうだ」と胸の内でぼそっと呟くあたり、彼の神経は少なからず衰弱しています。

籠の中に閉じ込められている小鳥を、書斎にこもって物を書く自分の姿と重ね合わせたのでしょうか。作家としてか、人間としてか、いずれにせよ彼は孤独の中に生きているようです。

心を擦り減らしがちの人は、根は人一倍やさしい場合が多い。実際この語り手は非常に繊細な人物で(漱石と言ってしまえばそれまでですが)、ことあるごとに文鳥に対して「気の毒」がるシーンが見受けられます。

たとえば、自分が寝坊したせいで餌やりが遅れて「気の毒になった」り(p.12)、餌をやる最中に籠から逃げないように手のひらで出口を塞ぎながらも、そんなに狡猾な悪い鳥じゃあるまいに、と「気の毒になった」り(p.14)。

又大きな手を籠の中へ入れた。非常に要心して入れたにも拘らず、文鳥は白い翼を乱して騒いだ。小い羽根が一本抜けても、自分は文鳥に済まないと思った。(・・・)水も易えてやった。水道の水だから大変冷たい。

(p.17)

目に見えるストレスを与えてしまうことはもちろん、水道水(作中の季節は冬です)が冷たいことさえも気の毒に思っているのです。キンキンに冷えた水が、文鳥の小さな身体に宿した温もりを内側から奪ってしまうことまで、文鳥の身になって共感しているわけです。

しかしそれならば、水は少しでも温かい室温にならしてから出せばいいのだし、餌もきちんと早起きしてあげればいい。それができないのなら、どれほど気の毒がろうとも飼い主失格です。

彼は自分の生活ペースを改めるでもなく、徐々に文鳥の世話を人任せにしていきました。家の誰かに明確に一任するわけでもなく、責任の所在が曖昧になってしまったことで、世話が行き届かなくなった文鳥は死んでしまうのです。

「家人が餌を遣らないものだから、文鳥はとうとう死んでしまった。たのみもせぬものを籠へ入れて、しかも餌を遣る義務さえ尽さないのは残酷の至りだ」

(p.26)

文鳥の死後、三重吉に宛てた手紙です。たしかに残酷です。同時にこの手紙には、文鳥のような弱くてはかない存在が俗世に生きることの無常――その声にならない嘆きがひしひしと感じられます。

弱者を誰よりも理解し、同情した。だからこそ、その可憐で無垢な姿が不安定な世の中に存在している事実を直視できず、徐々に目を背けるようになり、悲しい結果を招いてしまうこともある。

動物を飼っていた人間として、僕はこの語り手の迎えた結末を全面的に擁護する気にはなれません。それでも何となくですが、彼の気持ちが分からないでもないのです。……

思えば僕が以前飼っていた猫にも、色々と考えさせられることがあった気がします。こんなに愛らしく純粋なものが存在している日常ならば、生きるに値する。けれども、こういうことを思うとき、喜びや希望だけでなく、なぜか一抹の不安や物悲しさが胸の内をよぎることもあったのです。

語り手は、彼の真っ白な文鳥のことを「淡雪の精」と表現しました(p.15)。今年のような猛暑のさなかに現れたなら、あっという間に消えてなくなってしまうでしょう。

だから「文鳥」を読んでくださる皆さん、そのあたたかい心の中に、季節はずれの淡雪を、どうか末長く大切に閉じ込めてあげてください。

それでは、今日はこれで失礼します。