#67 ジェームズ・ケイン 『郵便配達は二度ベルを鳴らす』 ~自己受容と自由~

「おすすめ文学 ~本たちとの出会い~」

第67回目。ほんの10分かそこら留守にしている間に、不在票が郵便受けに入っていた。これを運命の悪戯と呼ぶにはいささか詩的要素に乏しい――などと言っている場合ではなく、ただただ配達員の方に申し訳なく思います。忙しい中、何度ベルを鳴らしただろう。そんなとき、ふと頭に浮かんだ小説をご紹介いたします。

 


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#67 ジェームズ・ケイン 『郵便配達は二度ベルを鳴らす』 ~自己受容と自由~

アメリカの作家ジェームズ・ケインJames Cain, 1892-1977)の代表作とされる長編小説で、1934年に発表された「郵便配達は二度ベルを鳴らすThe Postman Always Rings Twice。ハードボイルド小説の萌芽期に生まれた名作の一つとして、今日まで読み継がれています。実は作中で郵便配達人がいっさい登場しないのも、ハードボイルドの趣というやつでしょうね。

出典:ジェームス・ケイン作/田中西二郎訳 『郵便配達は二度ベルを鳴らす』 新潮文庫, 昭和55年第26刷

 

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流れ者のフランクと、食堂の女房コーラ。罪を犯してでも結ばれようとする若い二人の、欲望と本能むきだしの血なまぐさい不倫劇……手短に説明してしまえばそんなストーリーが、ヘミングウェイやチャンドラーを彷彿とさせる超ドライな文体で綴られています。

あらすじだけを見ると、似た者同士がめぐり逢うべくしてめぐり逢い、共に破滅の一途をたどる物語に思えるかもしれません。でも実際は、二人は本質的には真逆のタイプで、だからこそ互いに強く惹かれ合ったのです。

「高校の美人コンテストに一等になったの、(・・・)ご褒美に、ハリウッドへ旅行させてもらったの。急行を降りたときは十五人もの男があたしの写真をとりに来たけど、二週間たったら、あたしは安料理屋ではたらいてたわ」

(p.21)

そう過去を振り返るコーラは、華やかな世界に憧れながらも「あたしなんか」と気後れし、映画女優になる夢も早々に諦め、やがて食堂を経営するギリシア人と結婚。良くも悪くも世間体を気にしており、ささやかな生活の安定に留まりながら、若くして己の人生の行き詰まりを傍観しています。

そんなコーラのもとに流れ着いた風来坊のフランクは、その日暮らしの不安定さの中にも自分の芯をしっかり持っています。放浪の人生を謳歌する人間らしく、他人に自分の価値や立場を定めてもらう必要のない、いわゆる承認欲求とは無縁の男――自分にはないものを持っている彼に、コーラが惹かれるのは必然でした。

「ほれたのよ。あんたがシャツ一枚もってなくっても、あたしはほれたわ。」

(p.24)

二人の恋は瞬く間に燃え上がり、邪魔者(コーラの夫)をひそかに殺害する計画へと移ります。そんな彼らの関係が最終的に破滅を迎えるのは、悪事に手を染めた結果という道義上の点を抜きにすれば、単に彼らの価値観の不一致が招いたものにすぎません。コーラの次の台詞にもあるように、それは初めから分かりきったことでした。

「あたしはジプシーみたいな、旅がらすの気分になれないの。いえ、ほかのどういう気持にもなれなくて、ただ、恥ずかしくってたまらないの、(・・・)」

(p.46)

「あんたはあたしと知りあってから、ずうっとあたしを風来坊にしようとして来たけど、そうはいかないわよ。前にも言ったでしょ、あたしは風来坊じゃないって。あたしは何かになりたいのよ。ふたりでここにいるの。どこへも行かないの。」

(p.141)

過ちを犯し、もう後戻りはできない状況にあっても、コーラはフランクとどこか別の土地に行こうとはせず、物理的にも精神的にも今まで自分が生きてきた(というか夫に築いてもらった)基盤の上で人生をやり直そうとします。そんな状況において、彼女の「何かになりたい」という言葉はとても印象的です。

その「何か」というひどく曖昧な認識、いつまで経っても自分では明言することのできないであろうその言葉は、彼女自身をさしおいて世の中に自分の居場所や価値を決めてもらおうとする現代人的なスタンスの表れです。

一方のフランクは、誰も自分を知らない世界に生きたいと願っています。それは彼がコーラと出逢う前からずっと変わることのなかった、流れ者としての本能でした。罪を犯したことで周囲の目を気にせずにはいられなくなった状況ではなおのこと、彼は誰にも自分を知られていない環境を渇望します。フランクは別の女性とも浮気をするのですが、

(・・・)この娘はおれが何者だか知らないことがわかったので、もう何も不足はなかった。(・・・)娘にはおれの名は何の意味もなかった。ああ、ちきしょう、まったく、あんなにほっとしたことはなかった。

(p.143)

この独白からも、彼が「何者でもない」自分をどれだけ強く望んでいたかが伝わってきます。周囲の疑いや好奇の目にさらされることは、もとよりフランクのような身軽さが命の人間には耐えがたい苦痛です。彼がコーラと辿る運命の末路は想像にかたくないかもしれませんが、具体的にどんな悲劇の結末が描かれるのか、皆さん是非とも作品を読んで確かめてみてください。

意図的にしろ成り行きにしろ、自分の行動や存在を世に広く知らしめ人々の記憶に留めることは、その時点で時が止まった自分を他人に印象づける重責を自発的に負うことに同じです。あらゆることが変わり続ける人生において、変わらない(いつまでも残る)自身の記録は、その長い一生において勲章にも足枷にもなり得ます。

フランクのように、他人に自分を知られることの欲求に対して自由でいられる人間こそが、本当の自由人かもしれません。個人的には、そういう人間は幸せだと思います。もちろん、その風任せの日々の行きつく先で世間を騒がす犯罪に手を染めてしまっては目も当てられません。とりわけ現代のようなデジタル社会においては。

余談ですが、フランクは写真にうつることすら好まない人間のような気がします。もし彼が今の時代に生きていたら、きっと誰よりも窮屈な思いをしただろうなと想像してしまいます。

それでは、今回はこの辺で失礼いたします。

 

 

7年越しのサトウさん(3)

前回(2)の続きです。

長編小説『絵描きのサトウさん』は完成しましたが、これをもってその方からのご恩に報いたとはとても言えません。それは気持ちの問題ばかりでなく、その方と二人三脚で練り上げていこうとしていた作品が、実はもう一つあったからです。


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目下、新約聖書のエピソードを題材にした、発表されれば2作目となる予定の長編に取りかかっています。この作品も7年前には構想が出来上がっていて、書きかけの「サトウさん」同様、その方に何度も相談にのっていただきました。

最初の短編集『felicidad フェリシダ』収録の「水辺に献ぐ」もそうですが、この系統の作品が僕にとって創作の一番のモチベーションになっています。無宗教の人間なので信仰心はないのですが、聖書は読み物として面白いと思います。太宰治が聖書を「サイレント」と表現したように、端的で無機質なエピソードにひそむ人間ドラマに対して想像力を刺激されるわけです。


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話を戻して、その聖書モチーフの長編の概要をその方にお見せしたところ、こちらもさっそく様々なアドバイスを授けてくださいました。作中の情景描写の話になると、「砂ぼこりがすごく歩けば足に砂がつき、家に入れば水洗いしたのだろうか」、「今は灌漑技術が発達しているが、昔の農地はどんなだったのか」、「飲み水の環境はどうだったのか」等々、もはや作者本人よりも作品世界に没入されていました。

その時代・生活環境をどれだけ臨場感をもって語れるかというのは、僕自身も大切にしてきたことです。しかし理論として律義に守っているだけの僕とちがい、その方は心からフィクション世界の住人になりきって思いを馳せていました。筆が進まないのは頭でっかちのせいだと痛切に自覚していた僕は、その方を羨ましく思ったものです。

お互いに関係性の深い立場において、編集側が書き手に転身するというのは当然あるわけですが、僕にかかわってくれたその編集者の方も、僕なんぞよりはるかに作家としての(経験までは分かりませんが)適性があると思いました。編集者というポジションから、どんな心境で僕に助言をしてくださったのだろう。ふと、要らぬことを考えたりもしました。

「近くて遠い存在」ということを思うとき、『絵描きのサトウさん』の語り手とサトウさんの関係性がまさにそうであることは、物語の完成にかかわってくれた人と僕自身とのそれと決して無関係ではない――少し気障かもしれませんが、こんな押しつけがましい思い込みも、これからますますよい思い出になっていきそうな予感がします(笑)。

今、その方は同じ業界にいらっしゃるのか、あるいは当時のメールの文面からにじみ出ていた老練研究者のような雰囲気からすると、すでにリタイアされたのかもしれないとも思い、いずれにしても、お元気でいてくだされば何より嬉しいです。

約束は道半ば。もう一つの長編を完成させることを目標に、これからも書き続けます。その節は、大変ありがとうございました。改めて、この場を借りて御礼申し上げます。

それでは。