#52 グリルパルツァー 『ウィーンの辻音楽師』 ~懐古の旋律~

「おすすめ文学 ~本たちとの出会い~」

第52回目。まずは台風19号の被害に遭われた皆様に、心より御見舞い申し上げます。そして僕なりにできることと言えば、やはりいつもと変わりません。今は大変な状況に置かれている方も、いつか落ち着いたときに、秋の夜長のささやかななぐさめになればと思い、ご紹介させていただきます。

ウィーンの辻音楽師 (岩波文庫)
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#52 グリルパルツァー 『ウイーンの辻音楽師』 ~懐古の旋律~

19世紀オーストリアを代表る劇作家グリルパルツァーFranz Grillparzer, 1791-1872)が残した2作の短編小説の一つ、「ウィーンの辻音楽師Der arme Spielmann)」をご紹介します。「哀れな音楽師」とも訳されている、孤独なヴァイオリン弾きの老人の人生を描いた物語です。

出典:グリルパルツァー作/福田宏年訳 『ウィーンの辻音楽師 他一篇』 岩波文庫, 1994年, 第4刷

 

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舞台は19世紀中期のウィーン。年に一度の教会開基のお祭り「ブリギッタ祭」が行われ、町は人々の喧騒と音楽で賑わっていました。流しの音楽師たちが路上に立ち、歓楽に酔いしれる人々の投げ銭に与かろうと、手にしたさまざまな楽器を景気よく奏でていました。

そんな中で語り手の「私」の目に留まったのが、七十は過ぎたと思われる老音楽師。譜面台の上にぼろぼろの楽譜を置いて、「ひどい調子外れ」のヴァイオリンを懸命に弾いていたのです。人々からは馬鹿にされ、笑われ、足もとに置いた彼の帽子には銅銭の一枚も入っていません。

しかし彼が奏でていたのは、過去の偉大な音楽家たちの曲でした。他の芸人たちのように流行りの曲やワルツなどは一切やらず、彼の技量では何を弾いているのかも伝わらない古典の難曲を、全身全霊を込めて弾いていたのです。

その姿に興味をそそられた「私」は老人に銀貨を与え、話をします。一見すると乞食のような風体の老ヴァイオリン弾きは、実に上品な物腰で、自身の音楽観についてこう語ります。

こういう曲を弾きながら(・・・)とっくにこの世を去った、地位も名誉もある偉い作曲の大家たちに敬意を表し、自らも満足を味わい、同時に、さなくとも八方誘惑だらけで邪道に陥りがちなお客様方の趣味や心を浄化して、慈悲深いお恵みに多少なりとも御恩返しができるかと、嬉しい希望を抱いて生きているのです。

(p.21-22)

俗っぽいトレンドに流されることなく、古き良き芸術を現代の人々に伝えることが自身の使命である、そんな高尚な考えを、こんなに下手くそな演奏によってでも堂々と打ち出している老人の人間的な魅力に惹かれたのでしょう。「私」は日を改めて老人の粗末な住居を訪ね、そこで彼が辿ってきた人生を知るのです。

老人は、元々はエリート階級の家の出身でした。宮中顧問官の父親から英才教育を叩き込まれましたが、他の兄弟たちと違って不器用な彼は、真面目に勉強しても成績は振るわず、職に就いても要領の悪さから怠け者扱いされ、ついには生家から追い出されてしまうのです。

そんな彼も、恋をしていました。仕事から帰れば誰にも相手にされずに家に籠っているばかりの日常を送っていたある日、隣の家の庭から、女の子の歌声が聞こえてきたのです。

何度聞いてもその度に、いいなぁと思いました。しかし、頭の中にはちゃんと入っているのに、歌おうとすると二声と正しくは歌えないのです。ただ聞いているだけでは我慢ができなくなってきました。その時、子供の頃から使わないまま、古い鎧のように壁に掛けたままにしてあったヴァイオリンが眼についたのです。

(p.40)

おそらく彼は音感が人一倍なかったのでしょう。歌うにしても弾くにしても、耳コピのできない彼には楽譜が必要でした。そのためにもまずは、歌っていた女の子に会わなければいけません。むしろ音感がないことが、彼とヴァイオリンとを結び付け、大切な人との出会い、そして音楽師としての運命へと導いたのでした。

こうして彼は、歌声の主であるバルバラとの出会いを果たします。彼の下手くそなヴァイオリン同様、誰よりも不器用で一途な恋愛をしたことは、皆さんのご想像に難くないと思います。その恋物語の顛末は、是非とも作品を読んで知っていただければと思います。

数十年後、老人はバルバラの歌っていた当時のありふれた流行歌を、心を込め、涙を流しながら「私」に演奏して聞かせます。辻音楽師としては古典しか演じない彼の、それは唯一の例外であり、彼の生きた時代と彼自身をつなぐたった一つの架け橋である、大切な思い出なのです。

「バルバラは長い年月の間にすっかり変わり、肥ってしまって、音楽のことなど気にも止めていないのですが、あの頃と変わりないいい声で歌います」そう言って老人はヴァイオリンを手にして、例の歌を弾き始め、もう私がそこにいることも忘れて、いつまでも弾き続けた。

(p.85)

少々ネタバレになりますが、老人は最期、町が洪水に見舞われた際、自分一人なら助かる命を他人のために投げ打ち、天国へと旅立ちました。世渡り下手で、そして誰よりも優しかった男の、懐古に捧げた幸薄い生涯。物語を読み終えて、そんな風に思われるかもしれません。

けれども、少なくとも僕はこう思います――懐古とは、現実を生きる人間の熱い血の通った行為であり、祈りである――だからこそ老人が奏でる古の旋律は、時代を越えて僕たちの心の琴線に触れ、そして今を生きることの悲しみと喜びを鮮明に示してくれる。

下手くそ加減なら負けず劣らずの「おすすめ文学」も、僕にとっては皆さんとの大切な架け橋です。お客様が一人もいない日だって、書き続けています(笑)。

それでは、今日はこれにて失礼します。

 


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#44 ポルガー 『すみれの君』 ~晩春の騎士道~

「おすすめ文学 ~本たちとの出会い~」

第44回目。5月の街を歩いていると、路傍にスミレの花を見かけます。今まであまり意識していなかったのですが、英語ではviolet、紫色の花の代名詞的存在です。また日本語の語源は「墨入れ」という大工道具に由来するそうです。「紫」と「墨」――紫の字を筆名に、拙いペンを執ることはや十年の私、佐藤紫寿は、スミレという花をもっと知るべきだったのです。そしてスミレといえば忘れてはいけないのが、この作品。

ウィーン世紀末文学選 (岩波文庫)
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#44 ポルガー 『すみれの君』 ~晩春の騎士道~

オーストリアの評論家、アルフレート・ポルガーAlfred Polgar, 1873-1955)の短編小説「すみれの君」をご紹介します。時代に取り残され落ちぶれても、誇りだけは決して失うことのない没落貴族「すみれの君」。生きる勇気や希望を僕たちに分け与えてくれるのは、必ずしも時流に乗って栄える成功者とは限らない。男の苦悩、孤独、そして真の「ダンディズム」を、どうか君、古臭いと笑うことなかれ。

出典:池内紀 編訳 『ウィーン世紀末文学選』 岩波文庫, 2004年第11刷

 

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ルドルフ・フォン・シュティルツ伯爵は、数え切れないほどの浮き名を流し、大好きなカード賭博で山のような借金をこさえた放蕩貴族。その豪傑っぷりと陽気な性格から、男女を問わず人気者でした。そんな彼は、

きざなほどノンシャランな態度や物腰、歩き方、もの憂げに鼻にかかった声からしても、典型的なオーストリア貴族というものだった。伯爵は湯水のように金を使った。女友達には目をむくような高価な品を贈り物にした。きまってパリ特選の香水〈パルムのすみれ〉を添えてやる。そんなこともあり、(・・・)劇場筋の女たちから〈すみれの君〉とよばれていた。

(p.241)

折しも第一次大戦が終結し、共和制による貴族制度の廃止、戦後不況、元々あった自身の莫大な借金という三重苦に見舞われたルドルフは、元貴族にそぐわない様々な怪しい仕事をかけもちして糊口をしのいでいました。

食堂でろくなものが食べられなくても、ボーイへのチップは惜しまずはずむ。女性に贈り物をするために、その費用を当人からせびる。貴族としての見栄を張り続けるためなら、ルドルフは手段を選びません。

すみれの君は二重の性格をもっていた。何よりも自分の信条があり、およそその身に即さない場合でも頑として信条ばかりは守りとおす。みじめさと高貴さ、卑しさと気高さには厳しかったが、正と不正とは曖昧だった。

(p.244)

二重も三重も、すでに人格がお茶目に破綻していますよね(笑)。そんなルドルフのもとに、かつてのなじみの女友達ベッティーナが訪ねて来ます。彼女は身ごもっていたのですが、夫を事故で亡くしてしまい、生まれてくる子どもが私生児のレッテルを貼られる危機に瀕していました。

その危機を免れるために、ベッティーナはルドルフに自分と結婚してくれるよう頼むのです。もちろんそれは形だけの結婚で、ルドルフが子どもの父親であることを公的に証明し、おまけに爵位も継がせてしまえば御役御免、その場で離婚という段取りです。

ルドルフは悲しそうに首を振った。

「このたびの共和制は貴族を廃止しましたよ」

「称号は取りあげたかもしれません。でも尊い身分にはかわりはないわ!」

ベッティーナはきっぱりと言った。

伯爵は彼女の手をとってわななくようなキスをした。

「そうですとも、共和制など無視するといたしましょう!」

(p.249)

ルドルフとて百戦錬磨の色男、ベッティーナにかつがれていることなど、もとより承知の上だったはず。だからといって、目の前の困っている女性を放ってはおけない。そして貴族たる者は、単に女性を助けるだけでなく、彼女の名誉を守らねばなりません。その名誉とは他でもない、

婚姻の指輪である。花婿が花嫁に贈る指輪は、とりわけ美しい指輪でなくてはならない。とびきり高価なもの。言うまでもない。名誉にかかわることなのだ。にもかかわらず、まるであてがないのだった。いくら頭をしぼってみても名案が浮かばない。

(p.250)

しかし我らがすみれの君は、結婚式の当日には見事な指輪を携え、満を持してベッティーナに贈るのです。極貧の彼が、どうやってその指輪を都合できたのか。もしかしたら何となく予測がついている方もいらっしゃるかもしれませんが(笑)、その答えは是非とも作品を読んで見つけていただければと思います。

信条のためなら、手段は選ばない(限度はありますよ?)。その手段が幾分かは人を困惑させたり驚かせたりするものであっても、結果的に愛嬌として許されてしまう。そういう男にある種の教養のように備わっている精神を、オーストリアの古い騎士道において「ダンディズム」と呼ぶことができるのかもしれません。

というのも、このダンディズムという言葉の定義は、本作品の出典『ウィーン世紀末文学選』に収録されている「ダンディ、ならびにその同義語に関するアンドレアス・フォン・バルテッサ―の意見」という作品に興味深く書かれているのです。全部読まなくても、端的にはこういうことです↓

つまるところ〈ダンディ〉が美的価値の概念であるのに対して、〈紳士〉は倫理的価値の概念である。

(p.145)

いやしくも芸術の一分野にたずさわる僕自身、もういい歳なのだから、人様から単なる「紳士的」なおっさんとの評価をいただくに留まらず、己の信条をストイックに追求する「ダンディ」な生き方を、今後皆さまにお見せしたいもの――我が「紫」の師、高潔にて孤独なる古の貴族、すみれの君のように。

では、今日はこれにて、ごきげんよう。

 


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