電球と小説

同じ部屋、同じ家具に囲まれながらにして、在宅ワーク、オフでのリラックス、食事、物を書く、等々……その時々の状況に応じた空間で過ごせる工夫をしようと思うと、照明器具をいじるのが手軽のようです。

天井から床までまんべんなく照らすシーリングライト1つに頼るのではなく、部屋のあちこちに小さなランプやら間接照明やらを設置し、光色・明暗などあれこれ調整、あっちを点けこっちを消し、そうして色んな雰囲気のパターンを作り出すのは楽しいです。

電球1つ変えるだけで気分が変わるというのは、確かにそうだと思います。電球で思い浮かぶ小説と言えば、太宰治の短編「燈籠」です(下記、新潮文庫の『きりぎりす』1話目収録)。

きりぎりす (新潮文庫)
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恋人のために盗みをはたらき、社会からも、相手の男からも見放されてしまう若い女性の物語。唯一味方でいてくれる両親と囲む六畳間での夕餉の食卓を、「五十燭」の明るい電球がさびしく、美しく照らす描写が印象的です。

恋人は5つ年下の男子学生。彼が直接的に女性に盗みをさせたわけではないにせよ、彼女の気持ちを慮るなら、彼とてまったく無関係とはいえない中、「どうか、あなたの罪を僕にも背負わせてほしい」と、せめてそう言ってあげてほしかった。

アメリカ文学の名著、ナサニエル・ホーソーンの『緋文字』もそうですが、世間の明るみの下、女性のみがたった一人で罰を受けていて、「共犯者」である男性は、世間からの糾弾を免れているという状況です。

では、その男が陰で苦しんでいないのかというと、少なくとも『緋文字』ではそうではありません。道義的な問題は別にして、光のあたらない場所で罪の意識をひそかに持ち続けることの方が、その人間にとってより厳しい罰なのかもしれません。

物語のスポットライトがあたることのない「燈籠」の男子学生の行く末はどうなるのでしょうね。部分的にしか照らさない間接照明にこだわっていると、暗くて見えない部分への想像がかきたてられます。

それでは、今日はこれにて失礼いたします。

 

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