銀舎利礼讃

毎日、ごはんが食べられる。

そのありがたさを自分に言い聞かせていないと、すっかり忘れ果ててしまうことがあります。僕自身、先の見えない生活がたとえ一時的にでも安定している時は、とかくそうなりがちです。ある程度は、仕方のないことなのでしょうけれど。

今一度、食事のありがたみを噛みしめたいがために、生活の安定という奇跡的状況をさえ疎ましく恨めしく思うのは、さすがに本末転倒。それでも何か大切なものを失ってしまいそうな焦燥感が常に拭いきれない。

アメリカの作家スタインベックJohn Steinbeck, 1902-68)の「朝めし(Breakfast)」という短編をご存じですか。

期間労働者の人々が、仮住まいのテントの下、錆びたストーブで調理する焼きたてのパンとベーコン、熱々のコーヒーを分け合い、舌鼓を打つ。ただそれだけの話なのに、ものすごく心が洗われます。

自然豊かな田舎の、朝の新鮮な空気を吸いながら、シンプルな食材で最高のキャンプ飯をいただく。こういう体験が、現代人の一定数にとってはもはや娯楽イベントの選択肢の一つになりつつあるように感じ、個人的には羨ましくもあり、喜ばしくもあり、また少し寂しくもあります。

スタインベック短編集 (新潮文庫)
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「朝めし」の登場人物たちと同様、僕も先々の保証などほとんどない生き方に身を置き、毎日めしを食っています。この不安定な日々が、時として茶碗一杯の銀シャリの最初の一口によって、信じられないほどの甘味、ほろ苦さ、そして旨味を僕に教えてくれます。

味噌汁、卵焼き、焼き海苔、キュウリの浅漬けでさえ、邪魔に感じるほど、頬張った米粒の一つ一つを舌でほどきながら、ひたすら味覚を研ぎ澄ませて食べている自分がいます。そんな時かもしれません、今がいちばん幸せだなと思うのは。

世俗における適度な不安定さが、人生の根底にある何かを安定させてくれるのかもしれない。もちろん解脱しているわけではないので、時にはステーキの1ポンド(と山盛りライス)も貪り食いたくなること必定であります。

今日も無事、食事ができたことに感謝しつつ、これにて失礼いたします。

 

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