5月です。うららかな陽気につつまれ、木々の葉が緑風にそよいでいます。
ほんのひと月ほど前、他の木々に際立って美しい花を咲かせていた、桜。
今はもう、青々と茂る街路樹を遠くから眺めている分には、どれが桜の木だか、さっぱり見分けがつきません。
こうして桜という存在のはかなさ、もの悲しさは、青葉の季節を迎えてなお、人々の心の奥底にひっそりと受け継がれてゆくものなのかもしれません。
桜の木かどうかも分からない、桜。
拙著『絵描きのサトウさん』でも、こんなことを書いていました。
わたしはといいますと、花開く前の、まだ固く閉じたままの蕾が赤く色付きはじめる時期が、実はいちばん好きなのです。
これが桜の木だということ自体、すっかり忘れ果てていた冬枯れの寂しい枝ぶりに、ある日ふと、春の胎動を感じて近づくと、ふくらみかけた蕾が真紅に染まっていて、まるで枝という枝が血に濡れているように見える、あの瞬間です。
(『絵描きのサトウさん』 初版第1刷 p.98)
先日、ある読者の方から、初春の蕾がふくらみはじめる頃の桜の枝ぶりについて、「今までよく見たことがなかったけれど、(今年見てみたら)本当に赤いんだね!」という感想をいただきました。
自分の作品が、多くの人々の心を動かすことを望んでいるわけではない。ものすごく大きな感動も、想像もできないような発見も、僕の生み出すどんな作品にも見出されることはないと思う。
それでも、自分なりのひっそりとした歩みに共鳴してくれた誰かの足音を、季節外れの道のりで、思いもかけぬところでふと耳にするのは、やっぱり嬉しい。
秋と鏡合わせのこの季節に、センチメンタルなことを書いて何が悪いのでしょうか。
どうか、素敵な連休をお過ごしください。
それでは。
『絵描きのサトウさん』
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