前回(1)の続きです。
7年前の試作短編「絵描きのサトウさん」を読んだその方は、「創作のヒントになると思うので一読してほしい」と、こんな本を僕に紹介してくれました。
『神話の力』
(↑書名をタップ/クリックするとAmazonの商品ページにリンクできます。)
図書館で借りて少し読んでみて、あ~これは難しい本だなとぼんやり思うことしかできない自分が情けなく、それでも無理やり最後まで読みました。一字一句を拾うと頭が痛くなる本ほど、かえって一定のリズムでさらっと読む方が理解できるという持論にすがって。
神話学の名著とされる『神話の力』(ジョーゼフ・キャンベル,ビル・モイヤーズ著)は、文化的背景の異なる世界各地の神話に共通点があること、その意味を対話形式で述べた学術書ですが、個人的にはむしろ人生訓のような本という印象でした。神話体系の本質を知ることで創作における普遍的なアプローチを体得せよと、その方は僕に伝えたかったのだと思います。
やっぱ古典は大事なんだわ、と知ったかぶる準備だけは整ったので、その方に読了を報告。難しすぎてよく分からないが、と白状した上で、「サトウさんの人生物語を古い普遍的な真理として位置づけ、それを肉付けする行為をいわば「儀式」として捉えるという、作家(私自身)の作品に対する姿勢を特に学んだ気がしました」と返信(当時のメール文面ママ)。
背伸びしすぎの怪レビューですが、本の受け売りを織り交ぜ、それっぽいことを必死で書きました。師匠の教えに食らいつこうとする弟子の心境です。僕はその方の年齢を最後まで知り得ませんでしたが、やり取りをしている体感としては、まさに大学時代に学んだ文学の教授と話をしているようでした。
何を言ってもやさしく受け入れてくれる、けれどもその言葉の根っこには鋭い洞察と厳しさをもって、あるべき方向へと導く力がある。『神話の力』への僕の捉え方は「とても的確」だとその方は前置きした上で、書きかけの「サトウさん」に不足していること・期待することを、次のように伝えてくれました。メールの文面を少しだけ抜粋します。
“「絵描きのサトウさん」は回想をする際のノスタルジックな雰囲気が非常によく出ている(・・・)。私の願いは、地元に溶け込むため、子どものために活動したサトウさんに、日本人がより深い共感をしてもらいたいというものです。(・・・)外からとってつけたような泣ける要素を付け足すのではなく(・・・)内在するいろいろな要素を再認識し、(・・・)小説・物語として最大限拡張するのはどうか(・・・)。”
まだまだ内容がありきたりで詰め切れておらず、多くの読み手の心には響かない――要約すればそういうことだと思います。また、分量としても「サトウさん」は長編小説として完成させるべきということも、このアドバイスを受けて僕自身、初めて気持ちが固まりました。
そんなやり取りが始まって1年も経たなかったと記憶していますが、ある日その方から突然、「本日をもって出版社を退職することになった」というお知らせが届きました。翌日になってようやくメールに気付いた僕は、これまでの御礼を大慌てでご返信差し上げたのですが、それきりお返事はありませんでした。
その方から受けた数えきれないご恩に報いることもできないまま、結局、「サトウさん」は文学賞に送り出すこともなく(以前に短編の状態で応募し落選していたので、実はどこにも送る気はなかった)、その方がいなくなってしまった出版社に自費出版を申し込むこともありませんでした。
「もし自分の至福を追求するならば、(・・・)自分の至福の領域にいる人々と出会うようになる。その人たちが、私のために扉を開いてくれる。」
(『神話の力』 ハヤカワ・ノンフィクション文庫, p.262)
書きかけの「サトウさん」と向き合い最後まで書き切るという、僕自身の「至福」を追いかけるための扉を開いてくれた人は、もういなくなってしまった。こんなうだつの上がらない自分に損得抜きでかかわってくれた人に、どうしたら恩返しができるだろうか。
どうもこうも、作品を完成させるしかない。たとえその方が見ていなくても、その方から授かった知識を僕なりに継承して、不格好でも無名でも何でもいいから世にアウトプットしないのなら――それこそ一人の編集者が文学に賭けた情熱、その生き様を軽んじることになってしまう、そう思いました。
(もう少し書きたいので、(3)に続きます)