にんにくの皮を剥く

にんにく皮むき

大の男が休日に勤しむことと言えば、にんにくの皮むきと昔から相場が決まっています。

ネット入り(3房)のを買ってきて、その日のうちに全部むきます。キッチンペーパーをかませて水分を吸わせるようにしてタッパー等に保存しておくと、どうやら長持ちするようです。正しい方法かどうかは知りません。

1房あたり、小さいのも含めてだいたい6~8片あるので、約20片ほどのむき身をストックできます。身長に合わない調理台で身を屈めて20片もむいていると腰が痛くなりますが、無心になれる作業なのでやめられません。

ペペロンチーノをよく作るので、これだけ保存しても割とすぐになくなります。肉やパンに香りをつけるのにも使います。何を作るか決める前に、取りあえずにんにくをオリーブオイルでじっくり炒めているだけでも、人生が満たされます。

にんにくを肉にすりこむことを覚えたのも、もちろんブンガク経由です。

灰谷健次郎の代表作の一つ、『兎の眼』バクじいさんが、ストロガノフの牛肉を下ごしらえしているのを読んで、腹が減り、さっそく実践してみたのは20年も昔のこと。

いい本です。50年近く前の本なのに、時代を経てもまったく色褪せない。それどころか、差別や貧困、格差に多様性など、まさにSDGsの目標にも通じるテーマが詰まっている一冊です。

一方で、こういった作品が不朽であることの虚しさ――僕たち人間はいつまで同じような目標・課題を達成できずにくすぶっているのか、という思いも募ってゆく、今日この頃です。

どんな作品か知らない人には、説明不足ですみません。いずれまた、別の機会にのんびり取り上げてみたいと思います。

ひとまず腰の痛みが悪化しないよう、大事をとらせていただきます(笑)。

それでは。

 

昔の自分の文章にツッコミを入れる

ヘルマン・ヘッセ「幸福」という詩が好きでした。

好きというか、最初の2行を読むだけで、「幸せってなんだろう」という永遠のテーマに、あっさり答えてくれているのです。

幸福を追いかけている間は、

お前は幸福であり得るだけに成熟していない

(高橋健二訳 『ヘッセ詩集』 新潮文庫, 昭和63年77刷, p.64)

 

これだけ読めば、もはやあらゆる自己啓発書は御役御免かもしれません。

たしか、これを学生時代に読んだ影響だと思うのですが、当時の僕がしたためていた謎メモの残骸から、こんな文章を見つけました↓(原文ママ)。

どうしたら今よりもっと幸せになるかを考えるのではなく、

今がどれだけ幸せだと実感できるかに集中して、それを毎日繰り返す。

するともっと幸せになりたい雑念が日常から消える。

 

メモとはいえ、詩的情緒に欠けていて、ぎこちない文章です。

「集中」って、「繰り返す」って、言葉選びが柄にもない体育会系です。脳の筋肉の部分で哲学していた模様。こんな時代が、お前にもあったのだね。

ヘッセの詩を自分なりに解釈して、それを実践しようとしていた。その目の付けどころだけは、過去の自分を少しだけ褒めてやりたくなりました。

その成果としての今の自分はどうなのかと言うと、日常の些細なことで感動したり、異様に涙もろくなりました。人間としての成熟ではなく、心身疲弊や涙腺老化といった、おじさんの生物学的不可逆変化と言えましょう。

今思えば、ヘッセの詩から刺激を受けたのではなく、安堵していたのです。

どだい自分にとっての幸福とは、既存のそれを愛でるものでこそあれ、「追いかける」ということをほとんどしてこなかった半生でした。何事にも阿呆なくらい執着がないのを、ささやかな誇りにさえしている始末。

幸せを追いかけていないからといって、投げやりになっているわけでもなく、あるいはすべてが満たされているという強烈な実感があるわけでもなく、要するに、本当に何も考えていないのです。

その何も考えていない状態を幸福と呼んでもいいのかしら、という疑問に、別にいいんじゃね? とヘッセの詩が答えてくれたのかもしれません。

細々と物を書き続けるということ以外、そもそも生きる目標がない人間ですから、あれをやりたい、これもやりたいと何かを追いかけ続ける多動の人生を、ついぞ経験しないまま終わりそうです。

そんな僕ですが、少しずつ「準備」を進めております。万事問題なく運び、ご報告できるとよいなと思っています。

恥ずかしいメモは、恥ずかしいので処分しました。

それでは。