#21 谷崎潤一郎 『人魚の嘆き』 ~闇に煌めく物語~

「おすすめ文学 ~本たちとの出会い~」

21回目は、谷崎潤一郎の初期の作品です。この前ビアズリー展で水島爾保布の『人魚の嘆き』の挿絵を見る機会があったので、物語の方も是非とも紹介しなくてはと思い立った次第です。

人魚の嘆き・魔術師 (中公文庫)
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#21 谷崎潤一郎 『人魚の嘆き』 ~闇に煌めく物語~

一字一句まで徹底的に味わい尽くす、そんな文章好きならではの読書の楽しみ方に本作品はうってつけです――中公文庫版・水島爾保布の挿絵とともに、本の世界に妖しく心奪われてみませんか。

見慣れない漢字や四字熟語に最初は戸惑うかもしれませんが、かえって読むスピードが適度に落ちることで、一つ一つ丁寧に創り込まれた文章とじっくり向き合う喜びに出会えると思います。

出典:谷崎潤一郎 『人魚の嘆き・魔術師』 中公文庫, 2015年第24刷

 

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はるかむかし、南京の由緒ある家に生まれ育った若き貴公子は、幼い時に亡くした両親から莫大な遺産を受け継ぎ、美しい青年となった現在にいたるまで放蕩の限りをつくし毎日を過ごしてきました。

珍しい酒も、美しい女も、もはや貴公子を満足させることはなく、阿片を吸い退屈をしのぐ不毛な生活に明け暮れていた――そんな折、彼の屋敷に荷車をロバに引かせた西洋人の行商の男がやってきます。

男は遠い異国の海から「人魚を生け捕って来た者」だと自己紹介し、貴公子に謁見を乞います(p. 24)。ガラス製の水がめの中に囚われた人魚を一目見た貴公子は、その魅力にすっかり心を奪われるのです。

しかし私はまだこれ程美しい物が、水の底に生きていようとは、夢にも想像したことがない。私が阿片に酔っている時、いつも眼の前へ織り出される幻覚の世界にさえも、この幽婉な人魚に優る怪物は住んでいない。

(p. 32)

そう言った貴公子の驚きと喜びが、どれほどのものか。それは僕たち現代人のように、人魚という生き物の姿かたちを絵本やアニメ、テレビゲームなどで「見慣れている」人間にとっては、実際ほとんど理解不能かもしれません。

実在していないのに、見慣れている。……思えば変な感じですよね。人魚ってどんな生き物?と訊けば、大人から子供まで、大体みんな同じようなイメージ(女の子の上半身は、なぜかホタテの貝殻のみ着用)を思い描くわけですから。

そして谷崎の描く人魚はどんな姿をしているかといえば、これもやはり僕たちの知っているような「普通の」人魚です。本作品がそれでもなお鮮烈なインパクトを損なわないのは、ひとえに作者谷崎の妖艶な筆づかいによるものでしょう。

夜になると、彼の女の眼から落つる涙は、(・・・)真珠色の光明を放って、暗黒な室内に螢の如く瑩々と輝きます。

(p. 41-42)

谷崎によって描かれる人魚は、確かに貴公子の言うような「夢にも想像したことがない」ほどの美しさを醸し出している気がします。人魚に恋しているのか、谷崎の文章に惚れているのか、自分で自分がわからなくなるくらい。

作品全体が恐ろしく精巧に創られた美術品のようなものですから、引用するとキリがありません。是非とも皆さんに本作品を手に取っていただき、世にも妙なる文章で紡がれた人魚の物語を、どうぞ心ゆくまで味わってみてください。

それでは、本日はこれにて失礼します。

 


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#19 武者小路実篤 『真理先生』 ~自分らしく生きる~

「おすすめ文学 ~本たちとの出会い~」

19回目「武者小路実篤」という字面を見て、何やらいかめしい、難解な文学者をイメージされる方もいるかもしれません。もしもそれが原因でこの作者・作品と皆さんとの縁が失われてしまうのなら、これほど勿体ないことはありません。

真理先生 (新潮文庫)
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#19 武者小路実篤 『真理先生』 ~自分らしく生きる~

武者小路実篤むしゃのこうじ さねあつ, 1885~1976)は、「白樺派」と呼ばれる近代文学一派の創始者の一人です。概説的な話はこのくらいにして、この『真理先生しんりせんせいは内容も分かり易く、読んでいて気持ちが明るく前向きになれる作品です。

登場人物のほとんどは、社会的にはそれほど大きな成功をおさめているわけでもない、素朴で不器用な、お人よしの人間ばかりです。そんな彼らが自分たちの出来ることに精一杯努め、自分と他人を愛し、喜びと誇りをもって生きようとする姿が描かれています。

出典:武者小路実篤 『真理先生』 新潮文庫, 平成2年第77刷

 

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語り手の「僕(山谷五兵衛)」は、「真理先生」という六十過ぎの老人と出会い、その不思議な魅力に惹かれてゆきます。この真理先生、三十半ばで妻に愛想をつかされ、商売の古本屋もいつとなくやめてしまい、今は「一文の金も持たず」に生活している風変わりな人物です。

そんな先生の生活には、少しもみじめなところがありません。身の回りの世話は近所の女性がしてくれるし、彼の周りには多くの人たちが集まり後援会なるものも出来ていて、お金にも人望にも不足なく暮らしているのです。ファンクラブが出来るほど人気者の真理先生。どんだけ男ぶりが良いのでしょう? 語り手「僕」の言葉を借りるなら、

先生は女にも好かれていることは事実だ。但しその好かれ方は、肉体的でないこともたしかだ。たしかに先生は女にすかれるには不適当な顔をし体格をしている。もし先生に精神的魅力がなかったら、之程取柄のないものは又とあるまい。

(p. 23-24)

という、まあまあヒドい言われ様(笑)。つまり、人柄だけが最高に素敵なおじいちゃんだということです。そんな真理先生の話を聞きに、連日たくさんの人が押しかけます。彼の家は、人生に悩み苦しむ者たちの駆け込み寺といった感じですね。

真理先生の話は、人生の問題を解決するための具体的なノウハウをじかに教えるものではありません。彼はすべての「人間が人間らしく生きられる世界」を心から望み、その日が訪れるのを祈る――方法論云々ではなく、とにかく「真心から」祈る(宗教的なものというわけでもなく)だけなのです。

今のように正直者が生きてゆけなかったり、他人を憎悪しないではいられなかったり、自己を歪(いびつ)にしないでは生きていられない時代には、(……)先ず自分を人間らしく生かそう。自分を生き甲斐ある人間にしよう。そして自分と同じ望みを持つものと協力しよう。

(p. 46-47、括弧内はルビ)

そう真理先生は言うのです。僕が十九歳で初めてこの箇所を読んだ時は、「理想論だけ掲げられても、じゃあ具体的にどうすりゃいいんだよ?」と思ったものでした。

けれども、安易に実用的な解答を急ぐよりもまずはその理想を心にしっかりと根付かせ、そうして今の自分に出来る小さなことから地道にやっていく――そんな自分を愛し、誇るべきなのだと、最近思うようになりました。

人に認められたい、社会的に尊敬される成果を残したい……時代や他人の求める流動的な外的評価ばかりを気にしていると、本来の自分の個性や持ち味を押し殺して生きることを余儀なくされる場面も多々あると思います。

『真理先生』の登場人物たちは、そういう世間一般のしがらみを理解しながらも、まずは自分らしく生きるということを重視します。その最たる人物で、真理先生の説く理想を実生活で体現しているのが、貧乏絵描きの「馬鹿一」という老人です。

彼は誰もが見向きもしない道ばたの石や雑草ばかりを全身全霊で描き続け、世間からはほとんど無視されていました。それでも、そんなことはお構いなしに己の仕事に異常なまでの信念を固持する彼の姿に、他の登場人物たちも次第に感化されてゆくのです。

『真理先生』の登場人物たちは皆、他人の生き方を肯定します。最初は誤解したり軽蔑したりしていても、最後にはその人の人間性を心から認め、そして愛するのです。

生ぬるい理想論の世界と言えば、それまでかもしれません。けれども、本当にそんな世界に僕たちが生きることが出来たなら……この本を読むたびに心の奥に灯る小さな希望のあたたかさを、まずは一度味わってみてはいかがでしょうか。

 


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