メメント・モリ ~私の夏休み~

今年のお盆休みは、故郷の墓参りに行けませんでした。というか、万難を排してまで帰ろうとはしなかったのです。

墓参り自体は、実は子どもの頃から大好きでした。

ただ、できれば一人きりで行って、気の済むまで、のんびり墓掃除をしたり、墓地から臨む田園風景を眺めたり、最低でも半日はお墓の前で過ごしたいと希望します。

家族親族の人たちと一緒の墓参りだと、そんなに長く滞在できないので、お墓から離れるのがいつも名残惜しくて、そういう思いをするのが本当に辛いのです。

学生の頃、お墓から戻って、親族一同、実家の台所にぞろぞろ集まり、別に食べたくもないあずきアイスなんぞ一斉にかじり始め(固ぇ)、今夜はみんなで回転寿司でも行かんかっちゃ、とか何とか威勢のいい会話がなされている間、僕だけこっそり第2ラウンドに出かけたこともありました。

一人でお墓に戻ると、ほっとします。

どうにかして、ここで死ぬまで生活できないかと真剣に考えたこともありました。小説家の次になりたかった職業を考える時、「墓守」という美しい言葉を思い浮かべます。

 

汝、死を想え(memento mori)。

汝、変わった奴と思わば思え。

わたくしは、大真面目だ。

 

当家の墓地には、百日紅(さるすべり)の木が植わっています。古い木で、枝はもう落としてしまいましたが、昔は夏になると、目に染みるような赤い花が咲いて、青々とした山並みによく映えました。

ある少女が、漁に出たまま戻らない父親のために、海辺の丘の上でかがり火を焚いた。寝食も忘れ、百日間、火を燃やし続けたが、やがて力尽き死んでしまう。そんな親思いの彼女の墓前に咲いた名もなき赤い花を、人々は「百日紅」と名付けたという――朝鮮の民話です。

僕の故郷のかがり火は、消えてしまった。けれども僕はいつだって、戻ることができる。

心の中の赤い炎がどうのこうのと、そんな訳の分からん感傷を捏造せずとも、あの懐かしい墓地の風景を、そして先祖の存在を、片時も忘れたことなどありはせぬ。

ですから、彼岸には帰ろうと存じます。ご先祖の皆さまにおかれましては、それまでの小生の不躾きわまる無沙汰を平にご容赦いただきたく、何卒よろしくお願い申し上げます。

それでは、失礼いたします。

 

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