#57 夢野久作 『少女地獄』 ~嘘と百合の花~

「おすすめ文学 ~本たちとの出会い~」

第57回目。虚言症という言葉があります。己の過去を空想的にデフォルメし、人生を嘘で飾り立てる行為などを指しますが、今回は、その心理的背景を悲しくも美しく描いた物語をご紹介します。何より本日12月3日は、その天性とも言える彼女の虚言によって多くの人間を妖しく惑わせた架空のヒロイン、姫草ユリ子の命日なのです。

 


少女地獄 (1976年) (角川文庫)

 

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#57 夢野久作 『少女地獄』 ~嘘と百合の花~

幻想・怪奇小説の鬼才、夢野久作(1889-1936)の中編『少女地獄』を構成する三篇の一つ、「何んでも無い」に登場する永遠の美少女、姫草ユリ子の物語。不遇の出自、辛い過去を持つゆえに、それらをきらびやかな嘘で包みこみ、他人からの称賛や崇拝を一身に受けようとした女性のはかない人生が描かれています。

出典:夢野久作 『少女地獄』 角川文庫, 昭和59年第13版

 

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語り手の臼杵利平は横浜の開業医。それは昭和8年の師走のこと、彼はとある人物の来訪を受け、彼から「姫草ユリ子」が自殺したことを知らされます。ユリ子は亡くなる前月まで半年ほど、臼杵の病院で看護師として働いていました。看護師としての天才的な技術と、無邪気で愛らしい容姿から、彼女は老若男女問わず多くの患者から愛されていました。

その出自は、初めから謎に包まれていました。本人曰く、年は十九、青森の裕福な造酒屋の娘で、上京して大学病院で働き、そこの助教授からも篤い信頼を受けていた、とのこと。彼女の自己紹介には事実としてあやふやな点もあったのですが、臼杵は天真爛漫であどけない彼女に半ば魅了されるような心境で、職を求めてきたユリ子を彼の病院で雇うことに決めました。

彼女の持って生まれた魅力は事実、男女、老幼を超越したものがあった。(・・・)この点、私の開業は非常に恵まれていたと同時に、彼女……姫草ユリ子と名のるマネキン兼マスコットに絶大の感謝を払わなければならなかった。

(p.24-5)

突如として現れた白衣の天使ユリ子のお陰で、臼杵の病院は繁盛します。その一方で、彼女の言動には度々不振な点があることが分かってきます。以前彼女の勤めていた大学病院の助教授(白鷹)と臼杵が先輩後輩の関係にあることが判明し、臼杵は何の気なしにユリ子に白鷹を紹介するように頼むと、それまで自身の輝かしいキャリアを吹聴していた彼女は一瞬、戸惑いを見せるのです。

ユリ子は何かを隠しているようでした。後の臼杵は、以下のように回顧します。

彼女の言う白鷹先生というのは、(・・・)私の機嫌を取るのに都合のいいように創作した一つの架空の人物に過ぎないのであった。しかもその架空の人物と彼女との親密さを私に信じさせる事によって、彼女自身の信用を高め、彼女の社会的な存在価値を安定させようと試みている一つのトリック人形でしか白鷹先生はあり得ないのであったが、(・・・)。

(p.31-2)

ここだけ引用するとややこしいですが、白鷹先生は実在の人物、臼杵の先輩(恩師)であり、ユリ子とも確かに面識があったのです。しかしその細部には、ユリ子にとって臼杵に自分をよく見せるために都合のよい、様々な脚色がなされていました。その嘘がばれないよう、彼女は実際に臼杵と白鷹が面会しないよう、陰で細工をしてごまかそうとします。こうして、一度ついた嘘を事実に留め置くための果てしない嘘の上塗りが、ユリ子自身や周囲の人生を狂わせていくことになるのです。

女性の嘘を見破るのは、やはり女性なのでしょうか。同じ病院で働く臼杵の妻は、ユリ子が一人でいる時に見せるふとした表情から、彼女の抱えている心の闇を垣間見ます。妻は夫の臼杵にこう告げました。

あたし……あの娘が病院の廊下に立ち佇まって、何かしらションボリと考え込んでいる横顔を、この間、薬局の窓からジイッと見ていた事があるのよ。そうしたら眼尻と腮(あご)の処へ小さな皺が一パイに出ていてね。どうしても二十五、六の年増としか見えなかったのよ(・・・)その横顔をタッタ一目見ただけで、ヒドク貧乏臭い、ミジメな家の娘の風付きに見えたのよ。お婆さんじみた猫背の恰好になってね。コンナ風に……

(p.46)

妻のこの意見を最初は聞き流していた臼杵ですが、内心只ならぬものを感じ取った彼は、ユリ子が本当に嘘をついているのか試す行動に出ます。すなわち、件の白鷹先生と直に会ったのです。その後、疑心暗鬼に苛まれた臼杵は、友人の記者や知人の特高警察の人間をも巻き込み、ユリ子の正体を暴いてゆき、結果それがユリ子を追い詰めることになったのです。

身から出た錆とはいえ、果ては赤(共産主義者)としてのあらぬ嫌疑をかけられたユリ子は、一晩を留置所で過ごします。疑いが晴れ、臼杵のもとに帰ってきた彼女はひどく憔悴しながらも、彼女が留置所で受けたという仕打ちを、やはり自分の都合のいいように脚色して滔々と語るのです。

私は、そんな風な話を平気で進めながら、次第次第に昂奮して、雄弁になって来る彼女の表情をジイット凝視(みつめ)ているうちに、彼女の眼付きの中に一種異様な美しい光が、次第次第に輝き現われて来るのを発見した。それは精神異常者の昂奮時によく見受けるところの純真以上に高潮した純真さ、妖美とも凄艶とも何とも形容の出来ない、色情感にみちみちた魅惑的な情欲の光であった。

(p.84)

ユリ子の虚言はとどまるところを知らない。むしろその嘘こそが、彼女の人生におけるたった一つの真実であり希望なのだと、このとき臼杵は戦慄をもって感じたことでしょう。彼はユリ子をなるべく体よく、穏便に解雇します。そして彼女は臼杵たちの前に、二度と姿を見せることはありませんでした。そのわずか一か月後、臼杵はユリ子の自殺を見ず知らずの人間から唐突に聞かされ、以下の文を含む彼女の遺書を読んだのでした。

姫草ユリ子はこの世に望みをなくしました。(・・・)社会的に地位と名誉のある方の御言葉は、たといウソでもホントになり、何も知らない純な少女の言葉は、たとい事実でもウソとなって行く世の中に、何の生甲斐がありましょう。(・・・)可哀そうなユリ子は死んで行きます。どうぞ御安心下さいませ。 昭和八年十二月三日  姫草ユリ子

(p.10-11)

嘘を明るみに晒した人々への恨みすら込めたその遺書には、嘘をつくことでしか生きていけなかったユリ子の、この世への未練と絶望が素直に綴られているようです。彼女についてのある人物の証言によれば、生前ユリ子はいつも「つまらない」「死にたい」と呟いていたのです。

それでも尚、この世に踏みとどまって、愛されて生きたいと願った結果の彼女の「嘘」は、本来、誰をも傷つけることのない、彼女の心の叫びだったのでしょう。ユリ子の嘘を早い段階で見抜いていた臼杵の妻も、彼女がなぜ嘘をつくのか、その心境に一定の理解を示し、少なからず同情していました。

あの人は地道に行きたい行きたい。みんなに信用されていたいいたいと、思い詰めているのがあの娘の虚栄なんですからね。そのために虚構(うそ)を吐(つ)くんですよ。

(p.48)

ユリ子は死んだ。それは物語の冒頭から語られていることです。けれども、彼女が死ぬところを実際に見た者がいるのでしょうか。彼女の自殺を臼杵に知らせた人物にしても、彼がユリ子に同情するあまり、臼杵たちの罪に問われぬ罪を糾弾するために嘘をついている可能性だってあるのです。(巻末の解説にもそれとなく書かれていますが、)僕たち読者には、ユリ子が本当に死んでしまったのかどうか、分からないのです。

生きていてほしい、僕はそう思います。姫草ユリ子という名を捨てても、彼女の幻滅した世界には二度と戻って来られなくても、また別の名で、どこかで彼女の虚構に彩られた人生を堂々と生きていてくれたなら。もとより何が嘘で何が本当なのか分からない世の中なら、彼女の嘘こそが唯一の真実だと証明される場所があってもいいのです。

夢野久作の『少女地獄』、是非とも読んでみてください。

百合の花の命日に、思いを寄せて。

 

 

#56 小山清 『老人と鳩』 ~物語と現実~

「おすすめ文学 ~本たちとの出会い~」

第56回目。暦の上ではもう冬になりました。皆さんいかがお過ごしですか。世の中は騒がしく動き続けています。僕が好きな本の中の世界とのギャップを感じれば感じるほどに、物語への偏愛は募ってゆきます。

 


日日の麺麭/風貌 小山清作品集 (講談社文芸文庫)

 

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#56 小山清 『老人と鳩』 ~物語と現実~

今回ご紹介するのは、小山清(1911-65)最晩年の小品の一つです。人生において限られた楽しみや人との出会いしか持たない、孤独な老人の何気ない日常を描いた本作は、今の時代にも通じる人間関係のあり方を物語っています。けれども、その視点はより穏やかで、これ以上何を望むこともない、ひとつの幸せの極致とでもいうべき人生模様を、僕たち読者に示してくれている気がします。

出典:小山清 『日日の麵麭|風貌 小山清作品集』 講談社文芸文庫, 2015年第二刷より、「老人と鳩」

 

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主人公の老人は、若い時から心臓が悪く、齢五十の頃には(おそらく脳血栓で)失語症を患います。その後、妻とも別れ、六十二歳になった今は、野原の外れにある粗末な一軒家で一人暮らしていました。

来客は、身内の者が時々様子を見に来るくらいで、仕事もなく、家の周囲で目にすることのできるささやかな季節の移ろい――花、木の実、生き物、川の流れ、青空――そんなものに、言葉にならないぼんやりとした思いを馳せる日々を送っていました。老人は散歩が好きでした。

鳩がいた。野原の向うに小さい川が流れていて、そこに家があった。家の傍に小さい小屋があった。(・・・)可愛い鳩。目を見ると、ほんとに可愛い。平和な鳩。(・・・)老人は鳩笛を思い出した。

(p.164-65)

鳩を見ると、老人は昔を思い出します。子どもの頃、桜の枝を削って鳩笛を作った懐かしいあの頃を。今、失語症の彼は、どうにか「ハト」とは言えても、「ハト笛」という言葉は発することができません。言葉とともに失われた美しい思い出。それを自分なりの形で再現しようとしたのでしょう、彼は木彫りのハトを作ろうと思い立ちます。

始めはさいしょから出来損いであった。(・・・)でも、ハトであった。(・・・)それから、犬、猫を作った。ハト、マガモ、犬、猫を机の上に並べた。

(p.165)

老人は、自分の作った木彫りの動物たちを、時折彼の妹と一緒に訪ねてくる甥っ子と姪っ子にあげました。子どもたちは、自分たちの叔父のことを「おじいちゃん」と呼びます。そんなちぐはぐな肉親の交流にさえも、老人は救われていたのです。

やがて彼は、近所に「ハト」という名前の喫茶店を見つけます。行ってみたいと思い、何度も躊躇した挙句、ついに決心して店に入ります。そこで老人は、喫茶店の娘(十七、八)と知り合います。二回目に店を訪ねたとき、彼は彼女に自作のハトをプレゼントするのです。

「ハト、あげます。」と老人は言った。「まあ、ハト。」と娘は彫刻のハトを両手で眺めた。「有難うございます。」と娘は言った。

(p.168)

娘の、「両手で」ハトを眺めるところが実に心温まります。老人がハトを渡すとき、「老人の服のポケットから、ハトが飛び出した。」という描写があるのですが、言葉のうまく出て来ない彼にとって、それは微笑ましくも懸命の自己表現でした。

今どきだったら、こんな物を、よく知らない客から手渡されて戸惑う人も多いと思います。でもその娘はハトを受け取ったお礼に、なんと後日、わざわざ老人の家を探し出し、一人で訪ねて来てくれたのです。

娘は「はい。」と言って、ポケットから包みをとりだして、粘土細工のハトを呉れた。絵具で描いたハトである。老人は胸がいっぱいで、「ありがと」と言った。(・・・)娘が言った、「あなたは、独りぼっちですか。」「独りぼっちだ。」と老人は微笑を浮べて言った。

(p.168)

このやさしい娘も、孤独なのかもしれません。あるいは、若いゆえの刹那的な同情の念にかられただけかもしれません。現実的には、彼女のこういった行動を軽率だと非難する人もあるでしょう。こんなできごとはフィクションの世界でしか起こるはずもなく、実際にはこういった類の出会いには、いわゆるオチとでもいうような陳腐で興ざめなエピソードが付随すると推測する人もいるでしょう。

二人の関係は、これ以上、何の発展もありません。結末を読む限り、おそらくは物語が終わってからも。何かが起こるという必然が、そもそもないのです。

こういう話を、いかにも作り話だと思ってしまう僕自身がいます。本物の鳩(=心の平和)は小屋に閉じ込められ、せめてもの人生のなぐさめは、へたくそな木彫り細工で代用する。そんな穿ったものの見方をしなくては、現実世界を生きていけない、そう頑なに考えている自分がいます。

一方で、僕はやはりこう思いたい――物語の老人と娘のような、何の他意もない、ただただお互いを受け容れいたわるささやかな人間模様が、どうか何の悲劇も失望も(そして大きな希望さえも)伴うことなく、この現実社会にも数多くあってほしい、と。

ブンガクの世界は、単なる理想郷なんかじゃない。読む人間にとっても、そしてきっと、書く人間にとっても。

小山清の「老人と鳩」、是非とも読んでみてください。

それでは。