#51 フィッツジェラルド 『ベンジャミン・バトン』 ~重なり合う時~

「おすすめ文学 ~本たちとの出会い~」

第51回目。アンチエイジングに興味のある方はいつの世も多いです。外見が実年齢よりも若く見られるということは、もちろん嬉しいことだと思います。でも、我々が努力して老化を抑制するその行為は、あくまで若返りの疑似体験に過ぎません。遅かれ早かれ、人は老いるもの。そういう前提があればこそ、若返ることには刹那的な喜びが伴うわけです。しかし、その前提をくつがえす運命のもとに生まれた人間にとっては、どうでしょうか。

ベンジャミン・バトン 数奇な人生 (角川文庫)
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#51 フィッツジェラルド 『ベンジャミン・バトン』 ~重なり合う時~

ブラッド・ピット主演の映画として、10年前に話題になっていた本作品。原作は100年ほど昔のアメリカの短編小説で、作者は『グレート・ギャッツビー』等で知られるスコット・フィッツジェラルドF. Scott Fitzgerald, 1896-1940)。老人の姿で生まれ、年齢を重ねるほどに若返り、最後は赤ん坊の姿で死んでゆく男の人生を描いた作品です。他人と違う時間の流れを他人と共に生きる人間のドラマは、今という時を大切に生きるためのヒントを教えてくれるかもしれません。

出典:フィツジェラルド作/永山篤一訳 『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』 角川文庫, 平成21年初版

 

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主人公ベンジャミン・バトンは、七十歳の老人の姿でこの世に生まれました。まばらに生えた白髪、生気のない眼差し、曲がった背中、なぜか言葉も話せる……新生児であるはずの彼は、どこからどう見ても普通の老人だったのです。

ベンジャミンの身体的特徴を、家族は受け入れることができませんでした。父親のミスター・バトンは、嫌がる我が子にミルクを与え、おもちゃのガラガラで遊ばせ、息子をあくまで「赤ん坊」として育てようとするのです。そんな父親の意思に反して、ベンジャミンは父親の葉巻をこっそり吸ったり、百科事典を読みふけったりするのです。

子どもは子どもらしくあるべきだと頑として譲らない周囲の大人たち。ベンジャミンは彼らの期待に応えるため、老人としての自分をなるべく主張せず、大人の凝り固まった常識に迎合する子ども時代を過ごしました。

ベンジャミンは髪を染めつづけることにした。そして同じ年齢の子供たちと、もっとうまくつきあうように心がけた。老眼鏡をかけるのはやめ、往来に籐椅子を持ち出すこともなくなった。

(p.28)

時が経つほどに、ベンジャミンの肉体は少しずつ若返っていきました。そして彼は、他人とは違う自分を常に感じて生き続けます。彼が十八歳のときなどは、見た目が五十歳だという理由で、大学入学を断られてしまうのです。

年上の男性が好みだという若い女性と結婚するものの、その後ベンジャミンがますます若返り、反対に妻が年を取るごとに、夫婦の間には精神的にも肉体的にもすれ違いが生じてきます。いまや自分よりも年が若く、以前よりもずっと精力的に活動している夫に対し、不安や嫉妬を抱いた妻は心無い批判をします。

あなたはただ頑固なだけ。他人と違う人間になりたいと念じている。いままでだってずっとそんな調子だったし、そう望んで生きてきた。でも、みんながみんな、あなたのような姿をするようになったらどうなるか考えてみて――この世界はどうなってしまうと思う?

(p.45-46)

マイノリティに対する無理解と言えば、それまでのことです。自身が望んでそうなったわけでもないのに、妻のこの言葉は、今という時を年相応に、自分らしく生きようとしているベンジャミンにとって、どれほど酷なことかは言うまでもありません。

同様に、ベンジャミンのこの孤独は、自らが覚悟と信念をもって、敢えて人とは違う生き方を選んだ人間にも共感できることではないかと思うのです。身体的・精神的にかかわらず、また自分の意思であれ生来のものであれ、周囲から理解を得にくい状況に身を置く人たちの孤独を、この物語は広く代弁しているのです。

そういう観点からすると、実はこの作品、コミカルでシュールなタッチが多い原作よりも、映画の方がおすすめだったりします。常に他人とのすれ違いを感じながらも、人生で出逢った人たちとの関わりを一つ一つ大切に噛みしめて生きている主人公の姿が、映画ではより愛情をもって描かれています。

映画のベンジャミンは、年下の妻との結婚生活の中で、未来への不安を抱きながらも互いに理解を深め、歩み寄ろうと苦悩します。中年期、夫婦の肉体年齢が一致した頃、今という時に二人静かに永遠を願うシーンがあるのですが、そこにこの作品の本質を見出す方も多いのではないかと思います。

小説と映画に共通して、物語の最後は、赤ん坊の姿で人生の幕を閉じるベンジャミンが描かれます。数奇な人生の果ての、平和な眠り。それは彼だけでなく、どんな人間にも与えられるべき、それぞれの人生の休息の時でもあります。

子供ならではの無邪気な眠りにつけば、嫌な思い出に悩まされることはない。(・・・)太陽を見つめると眠くなった――眠っても夢は見ない、嫌な夢にうなされることはなかった。

(p.58)

思えば、どんな人にとっても、人生とはすれ違いの連続であり、皆それぞれの孤独を抱えて生きているのです。そのすれ違いや孤独を癒す一つの手段として、例えばアンチエイジングという象徴的な行為があると考えるのは飛躍しすぎかもしれませんが。

人それぞれ、違う。そしてどれだけ違っていようとも、様々な出逢いの中で、互いに深く歩み寄れる瞬間は必ず訪れる。それは時計の針がめぐり重なるような必然であるとも言えるし、ベンジャミンのように、長い人生の中でほんのわずかしか他人の時間軸と重なり合えず、そしてまた遠く離れていくような運命も、現実にあるのかもしれません。

だからこそ、人との関わりを、そして今を、大切にしなければいけない。この作品を通じて、僕はそう教えられたような気がしています。

今回はここまでにします。それでは。

 


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#39 ヘミングウェイ 『キリマンジャロの雪』 ~俺は、書いていたい~

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39回目。更新が2か月以上も滞っていました。この冬の大雪と重なって、個人的にもあれこれ雑務に忙殺される日々が続き、ブログも創作も冬眠状態でした。書きたくても、書けない――救いを求めるような心に浮かんだのが、ヘミングウェイのこの作品です。

勝者に報酬はない・キリマンジャロの雪: ヘミングウェイ全短編〈2〉 (新潮文庫)
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#39 ヘミングウェイ 『キリマンジャロの雪』 ~俺は、書いていたい~

以前ご紹介した『ギャンブラーと尼僧とラジオ』同様、ヘミングウェイの作品の中では、この『キリマンジャロの雪 (The Snows of Kilimanjaro)』も学生当時はいまいちよさが分かりませんでした。それが今、自分なりの感動をもって読めるのは、それだけ僕自身の人生が良くも悪くも幅が広がったということでしょうか(笑)。悩みや迷いが増すほどに心に寄りそってくれるブンガクは、やっぱり有難いですね。

出典:高見浩 訳 『勝者に報酬はない・キリマンジャロの雪 ―ヘミングウェイ全短編2―』 新潮文庫, 平成15年第9刷

 

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裕福な妻と出会い、セレブの社交生活に溺れ、小説を書かなくなった中年男ハリー。己の半生を自虐的に見つめながらも、心機一転、作家として再起するべく妻ヘレンを伴い訪れたアフリカの地。そこで彼は足に大怪我を負い、生死の縁をさまよっていました。

彼は再スタートを切るべく、(・・・)安楽さを最小限に切りつめて、このサファリにやってきた。(・・・)ちょうどボクサーが山中にトレーニング・キャンプを張って肉体にこびりついた脂肪を焼き尽くすように、自分もそうして、己の精神にこびりついた脂肪をそぎ落せるのではないか、と思った。

(p.335)

にもかかわらずハリーは今、野営地の簡易ベッドに瀕死の身を横たえ、妻と現地人の世話係に囲まれ、ブワナ(スワヒリ語で旦那様)と呼ばれ手厚い介抱を受けている。新しい人生への希望も失い、古い人生との決別もかなわず、彼はなすすべもなく終わりの時を待っているのです。

彼のこの苦しみは、妻に理解されることはありません。彼女はただ、自分の愛する人間に生きていてほしいと願うばかりで、夫が時折むなしく口にする「おれは書きたいんだ」という執筆への命がけの意欲の言葉をほとんど聞き流しています。

金持ちのパートナーが、自分をだめにした。彼女との安楽な生活が、作家に必要不可欠なハングリー精神を奪ってしまった。そんな妻に対してハリーは怒りをぶつけ罵倒します。しかし心の底では、やはり悪いのは自分自身だと考えているのです。

あいつがおれに贅沢な暮らしをさせてくれるからといって、どうしてすべてをあいつのせいにする? おれは自分で自分の才能をぶち壊したのだ。そう、それを使わないことによって、自分と自分の信念を裏切ることによって。

(p.335)

人は時に自分の人生がうまくいかないことを周囲の人たちのせいにして、己の不遇を正当化しようとあがきます(僕だけじゃないはずです)。自分の才能や可能性なのだから、自己責任でマネジメントするのは当然かもしれません。けれどもその当たり前のことが、いつだって、ものすごく難しい。

ハリーの心境は、一言でいえば自己嫌悪です。そしてその苦悩の核になっているのは、彼が思いのまま作家として生きることにより他の人間を巻き込み、時として深く傷つけてしまう、そのことへの恐れなのだと思います(作家は身内を食うものだという井伏鱒二の言葉が思い出されます)。

「退屈だ」声に出して、彼は言った。

「何が退屈なの、あなた?」

「おれは何をするんでも、時間をかけすぎるんだ」

(p.357)

そう、ハリーの旦那。あんたは、やさしすぎる。何をするんでも、じっくり時間をかけて配慮してからでなければ、どこにも一歩も踏み出せやしない。皮肉なことに、それこそが作家としての歴然たる資質なのだけれども――そのやさしさ故に、やはりあんたは作家には向いていない。

そんな戯言を、ひよっこの僕に言われたところで、きっとハリーの旦那は相手にもしないでしょうね。それでもさらに言わせてもらえるなら、そうやって苦悩すること自体が立派な創作行為なのだと……僕は最近、何となくそう思うようになりました。

ああ、もうこんな時間(1:30 am)です。そろそろウイスキー・ソーダが飲みたくなってきたので、本日はこれにて失礼いたします。

もしよければ、グレゴリー・ペック主演の映画版も見てみてください。たしか、原作と結末が微妙に違っていたような?記憶があります↓

それでは、久々の更新にもかかわらず読んでいただいた皆さん、心より感謝いたします。

次回はもっと早くに更新しますね(笑)。

 


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