太陽が眩しいから

瞬く間に梅雨が明け、夏の暑い日々がいち早く訪れたようです。

テクノロジーが新しい生活様式を次々と提唱し、人々がそれをスタンダードとして受け容れることを繰り返す。そのペースの速さに慣れてしまうと同時に、ある種の無力感も募る。昨日今日の出来事を受けて、ふとそう思いました。

さて、夏のよく晴れた午後は、何というか、1年の中で唯一、「季節が呼吸をしていない」のを感じることがあります。

空は突き抜けるように青いのに、まるで生気がなく、炎天には生き物の声も途切れ、湿った空気が地上に沈着している。太陽がぎらぎらと照りつけるのをなす術もなく見上げ、ちっぽけな自分を強烈に自覚する。光あふれる失望。不条理です。

アルベール・カミュの『異邦人』。こんな季節に、私は読みたい。

それでは、水分と塩分の適切な補給を、どうかお忘れなく。

 

持たざるを得ない

年末年始をまたいで長編小説を読むのが、ここ何年かの習慣になっています。今回読んだのは、モーパッサンの『女の一生』でした。

女の一生 (新潮文庫)
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明るい話か暗い話かと問われれば、十中八九、暗いです。主人公ジャンヌが少女時代に抱いていた純粋な人生への希望の数々が、時とともに彼女にふりかかる悲劇によって次々と絶望へと塗り替えられていく、そんな物語です。

苦しい時期、今のような状況だからこそ、こういう本を選ぶことがあります。作中人物にシンクロするというよりは、むしろ一歩離れて、その困難を客観視するという読み方もできるからです。

読者自身が抱えている苦難にどう対峙すればいいのか、そのことを作中の悲劇と照らし合わせることで、現状を少しでも冷静に見直すことができはしないか、という試みです。

過去の幸福に執着するのは良くない、というのは、ジャンヌの人生を読んでいて感じました。でも、それを人の根本的な弱さとして忌み嫌ったり、一切禁止したりしてしまうことはできないし、またするべきでもない。

良くないことがすべて悪いことだと言い切ってしまうことが、一番悪いことです。それほど単純な仕組みなら、皆とっくに満たされているはず。八方塞がりの状況で希望の光を探してみても、それが過去にしか見いだせない時は誰にでもあります。

それでも日によっては、生きていることの幸福感がひしひしと胸にせまって、ふたたび夢み、望みを持ち、待ちもうける気持になることがあった。運命がどんなに仮借するところなく苛酷であろうと、空のよく晴れわたった日には、人間はどうして希望を持たずにいられようか?

(平成3年93刷, p.363)

空と言えば、今日の新潟の天気は最悪でした。凍てつく風が猛然と吹きつけ、そうかと思えばほんのいっとき、厚い雲の切れ目から何かを期待させるような淡い陽光がのぞく。秩序も何もあったものじゃない、めちゃくちゃな空模様。人の無力を思い知らされた気がしました。

希望は持つべきもの、というより、持たずにはいられないもの。権利や選択ではなく不可抗力だと思うと、希望もまた苦しいものです。それでも、こんな時期にこの本を読んで心から良かったと思う。ただただ本が好きとしか言えません。

今日はこれで失礼いたします。

ではでは。