#69 遠藤周作 『沈黙』 ~静寂の慈悲~

「おすすめ文学 ~本たちとの出会い~」

第69回目。困難に満ちた世界を生きるために、どんな救いやなぐさめが必要とされるのか。少々重いテーマですが、その問いに対する一つの答えを、この作品の中に見つけることができるかもしれません。

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#69 遠藤周作 『沈黙』 ~静寂の慈悲~

キリスト教文学の名手、遠藤周作(1923-96)の代表的長編である『沈黙』をご紹介します。人は神に何を求めるのか、そして神とは、人間に対しどのようにはたらきかけてくる存在なのか。キリスト教という枠に収まらない、宗教というものへの考え方を深める手掛かりにもなる作品だと思います。

出典:遠藤周作 『沈黙』 新潮文庫, 平成3年第17刷

 

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江戸時代のはじめ、島原・天草の乱が収束して間もない頃。幕府によるキリスト教の取り締まりがいっそう厳しさを増す中、ポルトガルのイエズス会より、若き宣教師セバスチァン・ロドリゴフランシス・ガルぺが長崎への密航を決行しました。

彼らの敬愛する師クリストヴァン・フェレイラ神父が、迫害下の日本に20年以上滞在し布教を続けた後、ついに幕府の弾圧に屈服し、棄教した――にわかには信じがたい報告を受けた彼らは、その真偽を確かめるためにも、意を決して日本に向かったのです。

澳門(マカオ)から日本に渡る際、ロドリゴたちは密入国の案内役として日本人のキチジローという男と知り合い、一緒に船に乗ります。彼はキリシタンだったのですが、卑屈で小狡そうな風貌の、酒好きの怠け者――勤勉実直でがまん強い日本人のイメージとはかけ離れた人間でした。

その態度は基督教的な忍耐の徳などとは程遠い、あの弱虫の卑怯さというやつでした。

(p.24-5)

そう彼を軽蔑するロドリゴですが、実際キチジローは、かつて故郷で役人から隠れキリシタンの取り調べを受けた際、絵踏みを拒絶した兄や妹をよそに自身はあっさり棄教し、火刑に処された肉親を見捨てて逃げ出すという暗い過去を持っていました。

そんなキチジローの危なっかしい手引きを受け、身を隠しながら長崎の村落の隠れキリシタンたちとの交流を続けたロドリゴとガルぺ。しかし長崎奉行の弾圧の手は徐々に迫り、ロドリゴたちをパードレ(司祭さま)と呼び慕っていた村人たちの何人かも捕えられ、処刑されてしまいます。

主はなんのために、これらみじめな百姓たちに、この日本人たちに迫害や拷問という試煉をお与えになるのか。(・・・)神は自分にささげられた余りにもむごい犠牲を前にして、なお黙っていられる。

(p.68-9)

ひたむきに「デウスさま」と「パライソ(天国)」を信じ、迫害にも屈せず貧しさに耐えながら生きてきた善良な人々が、あっけなく殺されていく。これほど理不尽なことが、なぜ起こるのか。宣教師としての己の無力感とともに、神の御業に対する一抹の疑念がロドリゴの胸の内をよぎります。

そんな中、キチジローは心の弱さから再びキリシタンとしての自分を裏切り、長崎奉行に通じてロドリゴを売り渡します。その後、ロドリゴは役人に引き合わされてフェレイラ神父と再会するも、かつての師はいまや幕府の命に従わされ、自らキリスト教の誤りと不正を書物にしたためている有様でした。

悲劇はなおも続きます。ロドリゴと一緒に囚われていた信徒たちは次々と殺され、相棒のガルぺも、なす術もなくただ死にゆく彼らに追いすがるようにして、彼らと共に殉教するのです。

いかなる苦難にも耐え、信仰を持ち続けた「強い」者たちばかりが残酷な最期を迎え、フェレイラやキチジローのような「弱い」「裏切り者」だけがのうのうと生きながらえる現実――そのような理不尽に対する神の沈黙に、ロドリゴは悲痛な嘆きを吐露します。

一人の人間が死んだというのに、外界はまるでそんなことがなかったように、先程と同じ営みを続けている。こんな馬鹿なことはない。これが殉教というのか。なぜ、あなたは黙っている。(・・・)何故、こんな静かさを続ける。(・・・)愚劣でむごたらしいこととまるで無関係のように、あなたはそっぽを向く。それが……耐えられない。

(p.153)

ロドリゴは徐々に自責の念を募らせていきます。宣教師の自分が棄教しないせいで、見せしめのために罪もない信徒たちや仲間が犠牲になっていく。その状況を彼自身はもちろん、神でさえも黙して止めることができないのに、それでも己の信ずる道を固持することが、本当に正しいことなのか。

彼のこのような迷いは、まさに長崎奉行の思惑通りでした。ある晩、いよいよロドリゴは、自分の代わりに拷問を受けている百姓の呻き声を間近で聞かされ、その憐れな信徒を苦痛から解放することと引き換えに、自身の棄教を迫られます。

大義のため強くあることで、他人を苦しめ続けていいのか。フェレイラやキチジローのように、信じていた道を棄ててしまう、その行為そのものが絶対的な弱さや悪なのではない。己の強さと正義の保全のためだけに周囲を犠牲にする、そんな自分自身から目を逸らし続けることもまた、同様に人の弱さなのではないか。

「基督は、人々のために、たしかに転んだ(=棄教した)だろう」
「そんなことはない」 司祭は手で顔を覆って指の間からひきしぼるような声を出した。「そんなことはない」
「基督は転んだだろう。愛のために。自分のすべてを犠牲にしても」
「これ以上、わたしを苦しめないでくれ。去ってくれ。遠くに行ってくれ」

(p.216-7)

究極の選択を前に、ロドリゴは身を切られるような葛藤に苛まれます。そして物語のクライマックス、彼は足もとに差し出された踏絵のキリスト像と、静かに向き合います。

しかし、絵の中のキリストが保ち続ける「沈黙」にロドリゴが見出していたのは、もはや神の無慈悲や無関心ではなかったのです。

物語の最後、「あの人は沈黙していたのではなかった」(p.241)という答えを見出した宣教師の辿った結末を、皆さん是非とも作品を読んで確かめてください。

「自分だけの強さを棄てて、はじめて誰かの弱さに向き合うことができた」 そう言ったきり、あとは無言で寄り添ってくれた、その人――今はもう、自分と同じくらい惨めで、頼りなくて、救いようのないほど、弱い。

その人は、いるのかいないのか、分からないことがほとんどだ。時には大きな悲しみや苦しみを前に、気が付けばいつもそばにいて、何も言わず、一緒に泣いてくれていた。

即物的な解決や救済とはちがう次元において、どこまでも深い静寂(しじま)に寄り添われていることに、思いを馳せてみる。

信仰を持たない僕がこんなことを言っても、説得力はないでしょう。そうであれば尚のこと、遠藤周作『沈黙』を、是非とも読んでみください。

それでは。

 


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#66 堀辰雄 『風立ちぬ』 ~行き止まりから始まる~

「おすすめ文学 ~本たちとの出会い~」

第66回目。早いもので、もう師走です。2022年の集大成に向け、悔いのないよう過ごしたいと思います。おすすめ文学も、せっかくなら今が旬のものを読んでいただきたく、作中で12月がクライマックスを迎える昭和初期の名作をご紹介したいと思います。

風立ちぬ
風立ちぬ・美しい村 (新潮文庫)
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#66 堀辰雄 『風立ちぬ』 ~行き止まりから始まる~

ジブリ映画の原作(の一つ)としても知られるようになった堀辰雄(1904-53)の代表作。最愛の人に訪れる死と向き合おうとする主人公を通して、残された最後の時間をどう過ごせばよいのか、その先にやってくる未来をどう迎えるべきかといったことを考えさせられる、ある意味では一年の「終わり」に読むのにふさわしい作品です。

出典:堀辰雄 『風立ちぬ・美しい村』 新潮文庫, 平成元年第93刷

 

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語り手で小説家の「私」は、絵を描くことを愛する女性、節子と軽井沢で出会います。二人は晴れて2年後に婚約しますが、節子は患っていた結核(作中の1930年代当時はまだ不治の病でした)の療養のため、信州は八ヶ岳山麓のサナトリウムに入院することになりました。

医者から本人には「大したことはない。一、二年の辛抱」としか知らされなかったものの、実際の病状はかなり深刻で、やがては直面しなくてはならない最期について思いを巡らせる中、「私」も節子に付き添ってサナトリウムで一緒に生活することを決意するのです。

こういう山のサナトリウムの生活などは、普通の人々がもう行き止まりだと信じているところから始まっているような、特殊な人間性をおのずから帯びてくるものだ。

(p.101)

行き止まり――つまり死に向かって刻一刻と失われてゆく時間の中で、蜜月の平凡な幸福に満たされるはずだった若い二人は、これからどのようにして人生の意義を見出せばよいのか……病床の節子と過ごす日々、「私」はとにかく彼女との生活の一瞬一瞬をかみしめて生きようと努めます。

病室のバルコニーから眺める山の景色、静かに移ろいゆく季節……どこか遠くに出かけられなくても、目新しい出来事など何もなくても、愛する人が自分のそばで生きてくれている。そのことだけが、残された時間をどこまでも濃密なものにしてくれることを、二人は言葉少なに確かめ合います。

私の身辺にあるこの微温い、好い匂いのする存在、(・・・)その微笑、それからまたときどき取り交わす平凡な会話、(・・・)我々の人生なんぞというものは要素的には実はこれだけなのだ(・・・)。

(p.103)

そのささやかな幸福をより確かな形に残すため、「私」は節子との生活を小説に書こうと構想を練り始めます。しかし、そうすることで本当に彼女の命と向き合っていると言えるのかという葛藤――自分がしていることは単なる気まぐれ、自己満足ではないかという思いが、彼を新たに苛み始めます。

自分たちの時間をこの上なく意義のあるものにしなければという思いが強すぎるあまり、それを芸術作品として完成させることで、切なくも美しい、幸福に満ちた人生「だった」という予定調和の未来を無理にでも先取りしようとしているのではないかと、彼は悩んだのです。

身の終りを予覚しながら、その衰えかかっている力を尽して、つとめて快活に、つとめて気高く生きようとしていた娘(・・・)そんな物語の結末がまるで其処に私を待ち伏せてでもいたかのように見えた。

(p.126)

近づきつつある死をどれほど厳粛に扱い、甘美な芸術の域に昇華したとて、根本的な救済は為されない。ひとりの人間として、愛する者との別れを恐れつつ、いち芸術家として、「物語」の意義を自問自答する。そんな二重苦の因果を、作家である彼は感じていたのではないでしょうか。

「(・・・)この頃のおれは自分の仕事にばかり心を奪われている。そうしてこんな風にお前の側にいる時だって、おれは現在のお前の事なんぞちっとも考えてやりはしないのだ。(・・・)そうしておれはいつのまにか好い気になって、お前の事よりも、おれの詰まらない夢なんぞにこんなに時間を潰し出しているのだ……」

(p.139)

この率直な胸の内を、「私」は節子を見つめたまま無言で伝えようとします。すると彼女もまた、すべてを理解しているかのように、笑顔ひとつ見せることもなく黙って見つめかえします。それは12月、二人が療養所で迎える最初で最後の冬のこと――ようやく彼らは、自分たちの運命をありのままに受け入れ、分かち合うことができたのかもしれません。

死を待ち受けることでしか気づけない有終の美としての幸福もある一方で、大切な人との別れはやはり辛くて悲しくて、結局のところ、それ以外の何物でもない。そんな原点の思いに以心伝心で共鳴することのできた二人は、きっと彼らの思い描いた物語の通り、或いはそれ以上に意義のある人生を送れたのではないでしょうか。

語り手の「私」は、節子が息を引き取る瞬間のことを僕たち読者にはっきりと伝えないまま、物語を1年後に移します。

おれは人並以上に幸福でもなければ、又不幸でもないようだ。そんな幸福だとか何んだとか云うような事は、嘗つてはあれ程おれ達をやきもきさせていたっけが、もう今じゃあ忘れていようと思えばすっかり忘れていられる位だ。反ってそんなこの頃のおれの方が余っ程幸福の状態に近いのかも知れない。

(p.168)

そう回想するにとどめ、節子の最期を克明に想起しないのは、むしろ彼女の不在を乗り越えているからだと思います。虚しさや孤独を漂わせながらも、自分は幸福でも不幸でもないとぼんやり考える「私」には、一切の作為も弁解もない、自然体の清々しささえ感じます。

一つの季節が終わりを告げ、新たに始まる冷たく清らかな季節が、今まさに迎えられようとしています。

「行き止まりから始まる」物語――堀辰雄『風立ちぬ』を、この時期に是非とも読んでみてください。

それでは。

 


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