お医者のランクに恋してる

前々から気になっていたことについて、ぼんやりと考えながら書いてみます。ぼんやりと。

太宰治の短編「愛と美について」の登場人物、ロマンス好きの5人きょうだいの長男が、彼の愛読書である『人形の家』について、ある発見をしたと言って一人で興奮している場面が冒頭にあります。

このごろ人形の家をまた読み返し、重大な発見をして、頗る興奮した。ノラが、あのとき恋をしていた。お医者のランクに恋をしていたのだ。それを発見した。弟妹たちを呼び集めて、そのところを指摘し、大声叱咤、説明に努力したが、徒労であった。弟妹たちは、どうだか、と首をかしげて、にやにや笑っているだけで、一向に興奮の色を示さぬ。

出典:太宰治 『新樹の言葉』 新潮文庫,平成20年第29刷
(p.144)

『人形の家』は、ノルウェーの劇作家ヘンリック・イプセンHenrik Ibsen, 1828-1906)の代表作ですが、お医者のランク(以下、ドクトル)は本作品で僕の一番好きな登場人物だったこともあり、改めて読み返してみました。

※ここからは作品を読んだことのない方にとってはネタバレを含む内容となりますのでご注意ください(先に関連書籍のAmazonのリンクを載せておきます)。

 

人形の家 (岩波文庫)
(↑竹山道雄訳です(当記事出典は1989年第53刷)。書名をタップ/クリックするとAmazonの商品ページにリンクできます。)

新樹の言葉 (新潮文庫)
(↑太宰治「愛と美について」が収録されている短編集です。書名をタップ/クリックするとAmazonの商品ページにリンクできます。)

 


さて、「ノラがお医者のランクに恋をしていた」という発見ですが、少なくともその逆、つまりドクトルの方が人妻ノラを密かに想い続けていたということについては、作品を読み進めていくうちに明らかとなる事実です。第二幕の真ん中あたりですね。病に冒され余命いくばくもないドクトルの、まさに命がけの愛の告白シーンです。「私の気持ちに気づいていたのですか?」と尋ねるドクトルに対し、ノラは、

知っていたか、知らなかったか、知るもんですか? そんなこと言えることじゃないわ――。でもどうしてあなたが、先生、あんないやな! ああ、何もかも綺麗だったのに!

(p.90)

と狼狽しながら答えます。この台詞から察するに、ノラも「気づいていた」っぽいですね。「何もかも綺麗だった」という言葉からも、彼女の方でもドクトルのことを憎からず想っていたことが読み取れます。この場面からであれば、ノラがランクに恋をしていたと判断するのは、決して突飛なことではないと思います。

表向きは決して結ばれなくても、暗黙の内にお互いの本心を確かめ合えていたはずなのに、それをいまさら言葉に出して、先生、あなたはこれまでの私たちのすべてを汚してしまった。一体どうしてくださるの? こんなことなら、いっそ、どうしてもっと早くに打ち明けてくださらなかったの? ……そんなノラの悲痛な叫びは、僕の勝手な想像です。

でも、これでは大興奮するような「発見」ではないですよね。ここでもう一度、太宰の「愛と美について」の、問題の箇所を振り返ってみます。

ノラが、あのとき恋をしていた。お医者のランクに恋をしていたのだ。それを発見した。弟妹たちを呼び集めて、(・・・)説明に努力したが、徒労であった。弟妹たちは、どうだか、と首をかしげて、にやにや笑っているだけで、一向に興奮の色を示さぬ。

長兄の説明を聞いた弟妹たち――いずれもロマンスには目の肥えた人たちが、誰一人として彼のこの「発見」に同調していない様子。彼の言っている「あのとき」が第二幕の告白シーンのことを指しているとすれば、弟妹たちとしては、そんなの当たり前じゃん、それのどこが発見なの? と内心では失笑しつつ、けれども長兄の手前、角が立たないように適当にあしらっただけなのかもしれません。

それならそれで、この問題はここで解決なのですが、そうではない場合――ノラがドクトルに恋していたと分かる「あのとき」が、長兄いわく第二幕の告白時よりもずっと前のことだったとすると、どうでしょうか。だとすれば、もうここしかないと思うのが物語本筋の8年前、ノラの結婚当初、過労だった夫トルヴァルトのために夫婦ともどもイタリアに静養に行くことを、ドクトル・ランクが勧めた時ではないでしょうか。

わたしたちが結婚したときに、トルヴァルトは司法省をやめました。(・・・)そちらの方面では昇進の見込みもないし、収入は以前よりも増やさなければならなかったのですものね。最初の一年はすっかり過労で、(・・・)それで体を痛めて、病気になって、あやうく死にそうになりましたの。お医者が、これはどうしても南の方に転地させなくてはいけない、と申しましたのよ。

(p.19-20)

イタリア出発までの経緯は、過去の出来事としてノラとリンデ夫人との間でさらっと語られるだけなのですが、当時のノラは第一子を出産したばかりで、不安定な仕事で働き詰めの夫も新妻をほとんど顧みず、彼女は孤独を感じていたのかもしれません。そんな折に、親身になって話を聞いてくれたであろうドクトルに対して恋心が芽生えたとしても、何ら不思議ではありません。

そのノラの気持ちに気づいたドクトルが(彼はトルヴァルトの親友でもあります)、夫婦の未来のために涙をのんで彼女を拒絶するという意思も込めて、いったん夫婦を自分から遠ざけるためにイタリア行きを強く勧めたとすれば、少なくともつじつまは合いそうです。またその時点で既にノラとドクトルは相思相愛の関係だったとも言えるわけです。

これが「愛と美について」の長兄の大発見だとすれば、聞き手の弟妹たちの微妙なリアクションにも頷けそうでしょうか。ちょっと原文を逸脱しているけれど、まあ、あり得ることはあり得るよね…みたいな。そもそもこの作品は女性の自立をテーマに読まれることが多い中で、長兄のこの余りにセンチメンタルな目の付けどころに、同じくロマンスを愛する弟妹たちもさすがに呆れてしまったのかもしれませんね。

なお、ここまで書いておいて何ですが、上記のことは、太宰研究・イプセン研究の世界ではとっくに様々な考察がなされているのかもしれません。僕は作品自体は頑張って読みますが、研究論文や解説・考察等はほとんど読みません。難しくて、なかなか理解できないのです。何も知らずにひとり熱く語っていたとしても、どうかお許しください。

ちなみに太宰治の処女作品集『晩年』の最初に収録されている「葉」でも、ノラが登場します。

ノラもまた考えた。廊下へ出てうしろの扉をばたんとしめたときに考えた。帰ろうかしら。

出典:太宰治 『晩年』 新潮文庫,平成10年第103刷
(p.7)

晩年 (新潮文庫)
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ノラって誰? 帰るって、どこに? と疑問に思った方は、ぜひともイプセンの『人形の家』を読んでみてください。

さて、僕もそろそろ帰ります。今回も少々書きすぎました。お読みくださった皆さま、ありがとうございます。

それでは。

 

ミスター・ベネット礼讃(おすすめ文学#62 番外編)

前回(おすすめ文学#62)、ジェーン・オースティン『自負と偏見』をご紹介しましたが、個性豊かな登場人物がたくさん出てくる中で、僕の敬愛するミスター・ベネットについて触れる機会があまりに少なく心残りであったので、ここに改めて書かせていただければと思います。

自負と偏見
自負と偏見 (新潮文庫)
(↑書名をタップ/クリックするとAmazonの商品ページにリンクできます。)※出典は前回記事に同じです。

 


ベネット氏は、主人公エリザベスを含む5人姉妹の父親です。彼女たちのうち何人かの未来の夫となる若者たちも含めた恋物語のメインキャラクターに自身の活躍の場を譲ることも多かった氏ですが、個人的にはもっとたくさん登場してもらいたかった魅力的な中年紳士なのです。

①【謎めいた性格! 女心を捉えて離さない】

ミスター・ベネットという人物は、抜け目のない機敏さと、ちょっぴり皮肉と、用心深さと、そして気まぐれとが、不思議に入り混った男だった。おかげで、夫婦生活二十三年の経験をもってしてさえ、いったいどんな人間なのか、奥様にもよくわからないのだった。

(p.9)

すべてを曝け出すことなく、適度に謎を残しておく男ほど、女性の心を掴んで離さぬものはありません。それは何も、出会ったばかりの恋人たちの専売特許ではないのです。結婚23年目を迎えた妻ミセス・ベネットをして未だ「よくわからない」と思わしめる氏の態度こそ、夫婦の絆の強固たる所以なのであります。

妻への言葉ひとつ取っても、褒めているのか、けなしているのか、その本心はまったく分かりません。娘たちよりお前の方が若い男たちにとって魅力的かもしれないよ、などと持ち上げてみたかと思えば、その直後、(お前は)かんじんの顔のほうがいっちまってるからな」と直球をぶつけてみたり(p.7)、緩急の使い分けが甚だしい色男なのです。

若い時の美貌をとうに失った古女房とはいえ、彼女に面と向かって「顔がいっちまってる」と無礼千万なことを口にしたのに、言われた方は特に傷ついた様子もない。これは夫婦の間に確かな信頼関係があり、互いに相手のことを適度に諦めているからこそ、始終平和に成り立つ会話なのです(実際のところは、ミセス・ベネットがほとんど相手の話を聞かない人だからです)。

② 【諦めこそ男の証! 背中で語るその半生】

人の話を聞かず、自分ばっかり半永久的に何かをしゃべり続ける妻。愛おしいながらも、時には鬱陶しく、世話の焼ける年頃の娘たち。家族の中で、男は自分だけ。自分が死ねば屋敷は限定相続の規定により甥の手に渡ってしまうという世知辛い状況はともかく――ああ、わたしに息子があったなら、時には酒でも酌み交わし、我が家の騒々しい女どもについて愚痴の一つもこぼしてみたい。

氏がそう思っていたかは知りませんし、そんなことは物語には書かれていません。氏は孤独な人です。その眼鏡にかなうマトモな話し相手は(年の割に老成した物言いをするエリザベスが辛うじて候補に挙がるものの)、家には一人もいないのです。妻など、まるで話にならない。結婚はみんごと失敗でした。若かりし頃の氏は、

若さと美貌と、それにたいてい若い美人がもっているに決っている表面(うわべ)だけの朗らかさに惹かれて、結婚してしまったのだった。ところが、その妻は、知能も弱く、心もさもしいとあっては、ほんとうの愛情は、結婚するとまもなくさめてしまった。(・・・)ただミスター・ベネットという人は、自分の無思慮からまねいた失望のかわりに、(・・・)その慰めを、ほかのいろいろな快楽に求めるような、そんな性質の男ではなかった。彼は、もっぱら田園、そして本を愛した。

(p.361)

氏は妻に対してではなく、自分自身に失望しました。しかしその心の隙間を世俗的な楽しみによって手っ取り早く埋めてしまうほど、氏は浅はかな男ではありません。浮気もせず、酒にも溺れず、ただひたすら美しい田舎の自然に身をゆだね、ひとり静かに書斎に引きこもる。己の人生の失敗の責任は、すべて己が墓場まで持ってゆく。そんな思いが、言葉少なな孤高の背中からにじみ出ているようではありませんか。

③【打算は無用! 情熱ひとつに誠実たれ】

確かに、氏個人の結婚生活は失敗だったかもしれない。しかし、希望は残されている。それはかけがえのない、何よりも尊い希望――他でもない、愛娘たちの幸せです。

物語も中盤にさしかかる頃、次女エリザベスはある男から求婚されるのですが、この男、聡明で自由闊達な彼女とはとうてい愛を深めることなどできようはずもない、世間に迎合しがちな、鈍感で考えの狭い、自惚れ屋の、どうにも人間的魅力に欠ける小物でした。ただ、経済的にはうま味のある将来性を備えている等の理由から、母親は何が何でも二人の結婚を取り決めてしまおうと躍起になります。

愛を取るか、生活の安定を取るか。何だかんだで世間並の生活をすることの重要性を理解している「大人」であれば、後者を選ぶことは決してまちがいではないと判断するでしょう。しかし、エリザベスは好きでもない、むしろ心底軽蔑している男と結ばれることを断固拒否し、そのせいで母親の機嫌を大いに損ねてしまいます。ここでベネット氏は、5人の愛娘の中でいちばんのお気に入りである彼女にこんなことを言うのです。

「これは、どうも困ったことになったわけだな、エリザベス。きょうからというもの、お前は両親のどちらかと、親子の縁を切らなきゃならないわけだからな。お母さんは、お前があの×××と結婚しなければ、もう二度とお前の顔を見るのもいやだというし、わたしはわたしで、お前がもしあんな男と結婚するようなら、こんどはこのわたしがね、もう二度とお前の顔など見るもんかと思っているのだから」

※求婚者の男の名は「×××」としています。
(p.179-180)

個人的に気に入らない男だから反対しているのではなく、当人が最初から愛してもいない相手との未来に幸せなど訪れないと、それだけのことを言っているのです。そうでなくても氏自身のように、最初は妻を愛していたとしても時が経てば冷えきってしまうことだってあります。しかし氏の結婚生活がどんなかたちであれ現在まで持続できているのは、失敗の責任をすべて自分で背負って生きているからです。

覚悟と責任感と、あとはいくらかの想像力さえあれば、その後のいかなる失敗も、もはや失敗ではなくなる。逆に、最初から気乗りがしないのに打算や妥協だけで先へ進もうとすれば、後々言い訳の余地も生まれ、いずれは自分で自分が許せなくなる時期が来て、今度こそ本当に取り返しのつかない失敗をする。結婚に踏み切る当初、氏は理性ではなく直観を重んじる人でしたが、それ自体はまったく問題ではなかったのです。

常識も、世間体も、義理も、礼節も、すべてどうでもよろしい。自分の気持ちひとつに素直に従った上で、その後のどのような結果をも自己責任で受け容れる覚悟を、氏は娘に求めたと言えましょう。そしてエリザベスは物語の終盤、彼女自身が心から愛する男と一緒になりたいという願いを、自ら父親に打ち明けます。

「つまり、(・・・)ぜひとも結婚したいというんだな。なるほど、彼は金持だよ。ジェーンよりは、いい服も着られるだろうし、りっぱな馬車を持てるかもしれない。だが、そんなもので、幸福になれると思うのかね?」

「お父様は、わたしのほうに気がないと思ってらっしゃる。でも、そのほかにも、なにか反対の理由がおありになるんですか?」

「いや、なんにもない。そりゃ、奴が高慢ちきで、まことに不愉快な男であることは、わたしたち、みんな知っている。だが、ほんとに、もしお前が好きだというのならばだな、そんなことは話にならん」

「ええ、好きなんですの。好きなんですのよ」 彼女は、涙をいっぱい浮かべて答えた。

(p.574)

エリザベスが富や社会的地位に目がくらんで男を選ぶような娘でないことは、先の一件で証明されています。それでも好きなんですの、好きなんですのよと全身全霊で訴える彼女の、その美しい涙ひとつを信頼しない愚かな父親が、この世のどこにいるというのか。

結局のところ、相手のことが好きで好きでどうしようもないということ以外に、結婚すべき理由などない。あってはならぬ。氏ははじめから、一貫してそう思っていたはずです。時とともに愛情が失われることもあるでしょうが、それならそれで、いろいろと角度を変えて物事を見てみるならば、その都度幸福などはいくらでも作り出せるものではありませんか。

【最後に】

氏を単なるロマンチスト経由の厭世家だと言ってしまえば、それまでです。しかし小生はいち読者として、氏の夷険一節、己の直観を信じどのような未来においても責任を負い、単なる結果論としての世俗的な人生選択の正解・不正解に一喜一憂する薄っぺらい人生を静かに否定する、そのゆるぎない態度に畏敬の念を抱くものであります。

あくまで余談、勝手な後日談の想像ですが、もし氏が妻ミセス・ベネットに先立たれた場合、彼は少しの皮肉も冗談もまじえることなく、ものすごく悲しむだろう思います。特に根拠はありませんが、読んでいて、なんとなくそう感じ、胸さえ痛くなります。

特定の登場人物への偏愛にまみれた、このような奇妙な感想文が皆さんのご参考になるとはとても思えませんが、改めまして、ジェーン・オースティン『自負と偏見』を、ぜひとも読んでみてください。

それでは。

 


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